00.診療所

 平民街の一角にある小さな診療所の薬棚の前で、アルヴィス・クロフトは手元のリストと棚に並べられた薬瓶のラベルを交互に確認しながら、たった一人でもくもくと在庫の確認をしていた。


 ペンを握る女性らしいしなやかな指先が滑らかによどみなく動いている。大小さまざまな薬瓶をひとつひとつ丁寧に慈しむように触れながら、ラベルと中身の量を確認し、左手で持つ用紙に記していく。


「アーステリアニ、ケロレン、ポートリック。あら?ルベンウィックの在庫がほとんどないわ」


 手を伸ばして茶色の小瓶を掴み取れば、僅かに残るばかりの粉末が目に入る。一人分の調薬にも不十分な量だ。つるん、とした滑らかな表面に曲線に沿って引き延ばされたアルヴィスの顔が映り込んだ。


 別の薬品と間違えないようにラベルをよく確認して棚に戻し、必要量を記す欄の端に「急ぎ」と書き込んだ。


「喉の調子が悪い人が多かったのかしら?」


 急に風が冷たくなってきたから、体調を崩す人が多かったのだろう。


 次の瓶、次の瓶、と手際よく在庫を調べていく。


 ほどなくしてペンを走らせていた手を止めると、灰緑の瞳を細め、ひと仕事終わったといった様子で大きく背伸びをした。丸襟の白いブラウスがふわりと引き伸ばされ、その上に重ねたモスグリーンのベストが軽く浮き上がる。リラックスした動作で両腕を下ろすと、ベストの裾がスムーズに同じ色合いのロングスカートへと馴染んだ。


 スカートの裾から覗くのは、よく使い込まれたブーツだ。床を歩くたび、古びた木の床が微かに沈み、心地よい音を立てた。


 視線をちらりと右の机の上に投げれば、茶色の小さな鞄の横に鍵を文鎮代わりにして抑えられた一枚の紙が目に留まった。歩み寄って手に取ると、そこには「急用につき不在。薬品庫の中に書類」とそっけなく書かれている。あまりにも簡潔なメモが、実に彼らしい。


 整然と片付けられた机の上にはもう一つ、アルヴィスに宛てたメッセージがあった。「補充」と記された紙が貼られた瓶を手に取り、肩をすくめる。


「まったく。丁寧なのか雑なのかわからない人ね」


 目を細めて残りの仕事にとりかかろうと視線を上げた時だった。


「エヴァンス、いますかー?」


 ガラコン、とどこかの扉が開け放たれる音とともに男性の声がした。


「え?」


 ハリエットは反射的に振り返り、音がした方向に視線を投げて凍り付いた。


 表の戸口は閉められている。だが、音がした方向、――診療所の裏口、休憩室にある外に繋がるもう一つの扉の鍵を、自分はちゃんとかけただろうか、と。


 しまったと気づいた時にはすでに遅い。


 不用心だからと施錠するように常々友人に口酸っぱく進言しているくせに、まさか自分が失態を犯してしまうとは。


 休憩室から出ると診療所に繋がる短い廊下がある。


 その廊下から「誰か」が迷いなくこちらに向かってきて、アルヴィスは手に持つ瓶を強く握りしめた。


「エヴァンス、頼むから頭が割れる前に何とかしてください。君ときたら、ちっとも電話にでないんですから」

 廊下に響き渡る男性の声に、ハリエットは思わず息を呑んだ。どうしよう、と焦るものの、体は硬直して動かない。


「エヴァンス、聞いてます、――か?」


 開け放たれたままの入口から現れたのは、長身の男だった。薄暗い廊下から陽の光が入る診療所へ。陰から一気に飛び出すように現れた艶やかな黒髪に目を奪われる。


 「……!」


 声も出せないまま、硬直しているとぱちりと視線が合った。男は入り口で棒立ちになり、驚いたように水色の双眸を瞠っている。


 見知らぬ青年だった。


 年のころはまだ若く、アルヴィスより三つか四つ年上だと思われた。エヴァンスと比べると少し幼さが残るような印象を受けるのは、水色の双眸の目尻がやや下がっているからだろうか。


 一見すると整った面立ちの青年なのだが、軽く目を瞠るくらいには気になる点がいくつかあった。唇の端や両頬の至る所に、女性のものと思われる唇型の紅が散っていたのだ。


「……」


 さらに目のやり場に困るのは、第二ボタンまでしっかりはだけた前襟から覗く首筋や喉仏の下、辿って鎖骨の中央や見える範囲の胸の至る所にまで、その印が存在を主張していたからだった。


 そして距離があるのに、確かに香るお酒のツンとした香り。消毒用のアルコールとはまた違う、甘い糖を含んだような匂いが彼が動く度、濃度を増すように鼻に届く。


 警戒を解くべきではないと思っていたが、見てはいけないものを見てしまった気になり、思わず顔逸らしてしまったのは仕方のないことだった。


「君、は?」


 うわ言のように尋ねられて、ピクリと瓶を握る手の指先が震えた。


「あの」


 なんと返していいものだろうかと、一瞬の間に様々な思考が脳内で交錯する。


 自分はエヴァンスの友人で、診療所でごくたまに薬の在庫管理を手伝っているのだ、と説明をした方がいいのだろうか。それとも、机の上にある鍵を使って中に入ったことを伝えればいいのだろうか。


 どれが彼にとっての正解かを脳内ですり合わせながらも、結局答えが出ないまま返答できず口をつぐんでしまう。そうこうしていると、ふわりと影が動いた。


「ああ、これは失礼を。てっきりエヴァンスだと思って」


 意外にも、落ち着いた優しい声だった。


 こちらの警戒を解くように柔和な表情も添えながら、にこりと微笑まれる。


「驚かせてしまい申し訳ありません。お嬢さん、申し訳ないのですが、エヴァンスはいますか?」


 彼はきょろきょろと診療所の端々に視線を送りながらアルヴィスに尋ねた。


 見た目はどうあれ自分への害意はなさそうだと判断して、そっと息を吐きだす。気安い感じと、エヴァンスを呼ぶ声から、彼の知人であるのはほぼ間違いないだろう。


 アルヴィスは握りしめていた瓶から力を抜いて机の上に置きながら答える。


「エヴァンス、…は、急用があって外出されてたそうですよ」


 友人に「先生」とつけるのがなんだかくすぐったくて、アルヴィスははにかんだ。表情をごまかすように机の上からメモを取って差し出せば、青年は受け取りながら「なるほど」と頷いた。


「ところで、――君はここで何を?」


 鋭い瞳がメモの隙間からアルヴィスを用心深く見据えていた。

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