深淵なる闇の中で
エヴァンスは死後数日経過した状態で見つかった、ガラス細工師の遺体の検視を担当したという。
ここ数日、今の時期にしては珍しく、日中あたたかかったこともあり、遺体の状況は最悪だったそうだ。腐敗がかなり進んでおり、十分に検視ができる状態ではなかった。その為、死因の特定ができずお手上げ状態だったという。
セリウスは眉をひそめた。遺体の状態を想像して、彼の気持ちも沈んでいく。
「ところで夜会には誰が出席していたんですか?」
「出席者はほとんどが上流階級の顔ぶれだった。伯爵や男爵、軍の高官たちも何人かいたと聞いている。特に目を引いたのは、デュヴァル侯爵と彼の妻、そしてグレイソン将軍がいたことだな。アルバートは彼の護衛の一人として出席し現場にいたといっていたから、まず間違いないだろう」
「デュヴァル侯爵?彼が夜会に出るなんて珍しいですね。……それに、グレイソン将軍。確かコーゼリウス男爵夫人の弟君でしたか」
エヴァンスは芝居がかったように白い手袋をはめた両手を開いてどうしたもんかね、と呟く。
「そのグレイソンが今回特にご立腹でね。自分も出席していた夜会で姉が死んだんだ。何が何でも原因を突き止めると躍起になっているそうだ」
アルバートからの情報だろう。赤い瞳に侮蔑の色を走らせながら舌打ちをする友人の様子を想像し、セリウスは思わず苦笑した。
「それは大変ですね」
「おいおい。退役したからって、やけに人ごとのように言うじゃないか。グレイソンがどんなに厄介か、お前もよく知ってるだろう?」
身内でしかも実の姉が急死したのだ。猪突猛進型の傲岸不遜な怪物であるグレイソンの厳つい顔が、堪えようのない憤怒に染まりあげているのは想像に難くない。
彼の独善的な指図の下、他殺の線で強制的に捜査が進んでいるのだろう。本来であれば警察が出張るとこであるが、アルバートがエヴァンスを呼び寄せたという事実からも、圧力をかけて無理矢理主導権を奪ったらしい。現場の気苦労はどれほどかと察し、軽く身震いする。
一通りの内部状況を想像し複雑そうな表情で押し黙ったセリウスを見やり、エヴァンスは肩を落とした。それから「断言はできないが」と前置きして、藍色の相貌をゆっくりと細める。
「仮に毒物が凶器だとした場合、犯人は本当にコーデリウス男爵夫人だけを狙ったのだろうか?モントレー伯爵の夜会では男爵夫人が結果的に死亡したが、もし仮に夫人がたまたま何かを口に含んだり飲んだりした結果、命を失ったのだとしたらどうだ?犯人の正体も意図も何もわかっていない状態で、夫人だけが狙われたと考えるのは早計だと思わないか?」
「犯人が意図しない不測の殺人も起こり得る、というわけですか…。ですが、あの夜会では被害者は夫人ただ一人だったのですよね?」
食中毒ではなく、毒物で夫人が殺されたのだと仮定すると、やはりどう考えても会場にいた特定の別の誰かを狙った可能性は低いのではないかとセリウスは思った。
多数の人間が時間と空間を共有する場所。不特定多数の人間が自由に手を触れられ、飲食を楽しめる会場。
夫人が手を触れ、口にできるものに直接何かを混入させた可能性はあるのではないだろうか。
「夫人の飲み物に仕込まれていた可能性は?」
「夫人は口にするものにはいつもかなり慎重だった、と言っただろう?会場で夫人が何かを食べたり、飲んだりということはなかったそうだ」
人目に触れないようコッソリ何かを摂るのだとしても、大勢の人間がいた会場ではかなり難しいだろう。それにコーデリウス男爵夫人は社交界の華とまではいかないが、長年培ってきた深い美容知識と流行への審美眼、年を経ているが「妖婦」とも称されるそこそこに見目麗しい容貌を武器に社交を渡り歩いてきた存在である。ひっきりなしに誰かと会話を楽しんでいたという話からも、やはり夜会中何も口にしていなかったという証言は信ぴょう性に足る。
「本当に夫人だけを狙った犯行なのか。もしくは他にターゲットがいた可能性があるが、たまたま夫人が運悪く巻き込まれただけなのか。もしくは、そもそもだれでもよく、全くの不特定多数を狙った通り魔的な犯行だったのか」
「モントレー伯爵の夜会に出席していた人物及び、彼らと同伴していた侍女や従僕、全ての使用人が容疑者になり得るということですか」
なんて面倒な、とセリウスは思わず本音を零す。
人海戦術を使い、しらみつぶしに聴取をしたとしても、犯人に繋がる決定打がなければ特定は難しいだろう。ただ、グレイソンは躍起になって犯人を捜しているということだから、それなりに怪しい人物を締め上げて、尋問にかけた挙句、冤罪に仕立て上げる可能性もある。違法性を認知しながら、自らが納得し溜飲が下がるかどうかで判断を下すことが多いあの将軍のことだ。いったい誰が犯人に仕立て上げられるのかと、戦々恐々とする側近連中の顔ぶれを脳裏に浮かべ、セリウスは小さくため息をついた。
あの男ほど、迷惑且つ厄介な老人は存在しないだろう。
「容疑者すら見つかっていない状態では、全てを考慮の材料とし、予防線を張る必要がある。アルバートは有能だからな。あの後すぐに、貴族連中に電文を回し、夜会の中止を指示した。開催予定の夜会はほぼすべてが取りやめになったそうだが、そうもいかない家もあってな」
馬車の速度が緩くなるのを感じながら、エヴァンスは窓の外に視線を送る。
馬車の車輪が道の上を軽やかに滑り、砂に紛れた小石を跳ねるたびにガタッと音を立てて揺れる。街灯の柔らかな灯りが道端の舗装に揺れるような影を落とし、通りに面した建物の窓から漏れる明かりが夜の静けさを温かく照らしている。
「……今夜の催しにはあの夜会に出席していた顧問弁護士のペイウッド卿と主催者の妻の兄にあたるモントレー伯爵、それからレヴィーナ子爵が出席することになっている。レヴィーナは仕事敵だが、あの屋敷の設計者でもある。彼の功績を考えれば呼ばないわけにもいかないだろう」
「そうですか…」
気分を落として嘆息するセリウスに、肩眉を上げて反応し、エヴァンスは胡乱気に瞳を閉じた。
「夜会の中止も考えたようだが、せっかくの慶事だ。ごく内輪の限られた人間しか来ないということで強行することになったらしい。とはいえ、警戒するに越したことはないからな。警備にはアルバートの指示の下、軍の関係者が駆り出されている」
逆に、犯人が本当は夫人以外の別の誰かを狙っていたのだとしたら、夜会に出席していた人物を見張っておけば容疑者への糸口になり得ると考えたのだろう。再び犯行を画策している場合は、この夜会がエサになり得る。
「グレイソンが派手な動きをしている間に、アルバートが裏で調査を進めているが、手掛かりがほぼ何も掴めていない以上、打てる手は打っておいた方がいい。――どうもきな臭い事件だ」
そう言って眉根をしかめるエヴァンスの声音は不安が入り混じっている。彼の言葉には苦渋が滲んでいて、その思いを察してセリウスは静かに問う。
「だとしたら、彼女を参加させない方がよかったのでは?」
「お前がパートナーをちゃんと事前に用意しておけば、彼女を使う必要はなかったんだ」
わかっているかと鋭く睨みつけられて、すみません、と小さく謝る。
彼の庇護下にある灰緑の瞳の少女の身の安全を考えれば、今日の夜会は危険と言ってしかるべきだった。エヴァンスの葛藤が手に取るようにわかり、セリウスは押し黙る。
反省はしているらしい年下の親友の頭を一瞥しながら、エヴァンスは諦観した表情でこう続けた。
「俺としては、今回の夜会は大規模なものじゃないし、招待者も限られ、身分確かなもの達ばかりだ。男爵にも十分説明はしているし、あちら側もそれなりに配慮をしてくれている。そこまで危険はないと思う、が、手にするもの、口にするものには注意しろ。できれば彼女に何も触れさせるな。会場を引きずり回したっていい。そして……」
エヴァンスはセリウスを鋭い目で見据えた。
「アルヴィスから絶対に目を離すな。俺も同行するが、お前がパートナーだ。責任を持て。何かあれば即座にアルヴィスを連れて逃げろ」
セリウスはその言葉に深く頷き、胸に手を置いた。
「分かりました。どんなことがあっても必ず彼女を守ります」
馬車は間もなく
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