第9話 手紙
彼の部屋は、まるで時間が止まってしまったかのようだった。机の上に並べられた書類、畳まれた布団、使いかけの歯磨き粉。どれも彼がそこにいたことを証明していたが、同時に、もう戻らない事実を突きつけてきた。
そのときだった。薄く埃をかぶった一冊の通帳が、引き出しの奥から出てきた。
「……俺の、名前?」
表紙に記された自分の名前を見つけた瞬間、胸がざわつくのを感じた。通帳の下には一通の封筒が置かれていた。封筒の口を開くと、そこには彼の字で書かれた便箋が入っていた。
透は震える手で便箋を開き、目を走らせた。
「このお金は、透がいつかこの部屋を出て、自活するときの足しにしてください。僕はいま、君と一緒に暮らすことができてとても幸せです。こんな形でしか君にしてあげられることを見つけられない僕を、許してください。でも、できるなら、これからもずっと、君と暮らせたらと願っています。いつもありがとう」
文字を追ううちに、透の視界がじわりと滲んでいった。
通帳を開くと、そこには200万円の残高が記されていた。彼がどれだけ慎ましく生活を続け、この金額を貯めていたのかが一瞬でわかる。
「……なんで、こんなこと……」
透は通帳と手紙を握りしめ、その場で泣き崩れた。涙が手紙に落ち、文字を少しずつ滲ませていく。
自分は彼に何もしてやれなかった。それどころか、傷つけるような言葉を投げかけたこともあった。それなのに、彼は最後まで与えるだけの愛を注ぎ続けてくれていた。その愛の深さに、透は息が詰まる思いだった。
「ごめん……本当に、ごめん……」
透の呟きは涙に濡れ、言葉として形をなさない。彼の優しさが重く胸にのしかかり、後悔が嵐のように押し寄せてきた。
そしてさらに引き出しを調べると、自分の身に何かあった場合に備えて、残されたものすべてが透に相続されるよう手配されている書類が出てきた。
透は震える手で書類を見つめ、再び嗚咽した。
ただひたすら、与えるだけの愛というものがこの世に存在することを、透は初めて知った。それを教えてくれた彼の優しさを、透は一生忘れることはないだろう――その優しさを、決して返すことができなかった自分の弱さも含めて。
彼がいなくなった部屋に、もう二度と戻ることはないと決めた日、比嘉透は沖縄行きの片道切符を手にしていた。
遺品整理の中で手にした通帳や手紙、そして相続書類。それらすべてが、彼の無償の愛を物語っていた。その愛を返せなかった自分への後悔と、彼の思いを無駄にしないために生きるという決意――それだけが、透を突き動かしていた。
沖縄での生活は、決して楽なものではなかった。田舎の生活に慣れるまでには時間がかかったし、仕事も一から探さなければならなかった。それでも、透は決して弱音を吐かなかった。彼のことを想うたび、心に力が湧いてくるのを感じたからだ。
朝の澄んだ空気、夕日に赤く染まる海、夜空に瞬く星々。透はその一つ一つに彼を思い浮かべた。「君なら、ここを気に入るだろうな」と独り言のように呟きながら、彼のことを心の中に刻み続けた。
村の人々は温かく透を受け入れた。地元の人々と肩を並べて働きながら、透はまるでそれが彼への贖罪であるかのように一生懸命働いた。彼の愛に報いるために、彼に恥じない生き方をするために――。
彼のことを一日たりとも忘れることはなかった。彼の名前を口にしなくても、彼の存在が透を支えていた。それが、自分にできる唯一のことだと信じて。
***
夜空には満天の星が瞬いていた。澄み渡った空気が心地よく、静かな風が畳を通り抜けていく。遠くからは虫の声が微かに聞こえ、静けさの中に命の営みを感じさせた。月明かりが柔らかく部屋を照らし、畳の上に横たわる二人の影を淡く浮かび上がらせる。
比嘉透は天井を見つめたまま、大きく息を吐いた。長い過去の話を終えた彼の頬は、涙で濡れていた。その涙が月明かりを反射し、微かに光っている。
隣にいた真一が静かに体を起こした。その動きにつられて比嘉が視線を向けると、真一の頬にも涙の跡が残っていた。真一はそれを隠そうとする素振りも見せず、ただ静かに比嘉を見つめている。
「榊さん、彼の名前、まだ言ってませんでしたね」
比嘉もゆっくりと体を起こした。その仕草には、過去の重い記憶を振り払うような意志が感じられた。涙に濡れた頬を手の甲で軽く拭いながら、比嘉は視線を真一に向けた。
「彼の名前もシンイチでした。漢字は違うけど、榊さんと同じ名前です。俺、榊さんと出会って名前を聞いたとき、運命みたいなものを感じました」
真一は言葉を挟むことなく、ただ比嘉の言葉を待っていた。
「榊さんは、外見は全然違うけど……どこか彼に似てるんです。優しい雰囲気とか、人を包み込む感じとか。でも……そんな風に榊さんに心惹かれる自分が、彼を裏切ってるんじゃないかって思ってました」
比嘉の声は震えていたが、その目にはまっすぐな意志が宿っていた。
「だから、俺、ずっと葛藤してました。でも……榊さんと一緒にいる時間は、すごく楽しかったんです。それもまた、彼に悪いんじゃないかって……」
真一はその言葉を受け止めるように、小さく頷いた。そして、体を少し傾けて比嘉の肩に手を置いた。
「比嘉さんは、もうじゅうぶん、彼の愛に報いてきたと思います」
その言葉は、どこか静かで揺るぎないものだった。
「彼は――シンイチさんは、この世界のどこかで、あなたを誇らしく見守っているはずです」
真一は優しく比嘉の肩を抱いた。
比嘉は驚いたように真一を見たが、その目にはどこか安心感が広がっていた。涙が再びこぼれそうになるのを感じながらも、比嘉は微かに笑みを浮かべた。
夜空の下で、二人の影は一つに重なるように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます