第6話 比嘉の過去
畳の上で横たわる比嘉の顔には、月明かりが柔らかく影を落としていた。真一がじっと耳を傾ける中、比嘉は静かに口を開いた。
「……俺、大学の頃、一人の友達に恋をしました。同じ学科の男の子で、明るくて、すごく優しい人だったんです」
真一は驚きを隠せなかったが、それを表情に出すことはしなかった。ただ静かに、比嘉の言葉を待った。
「最初は、友達として一緒にいられるだけでよかった。でも……それだけじゃ、足りなくなったんです。彼と話すたびに、胸が苦しくてどうしようもなくて。もう隠しておけないと思って、ある日、思い切って告白したんです」
比嘉の声が微かに震えた。
「でも、彼はすごく困った顔をして、何も言わずに去っていきました。それから数日後には、俺の気持ちが周りに知られるようになってて……たぶん、彼が誰かに話してしまったんだと思います」
比嘉の表情には、あの頃の傷がまだ色濃く残っているようだった。
「噂は一気に広がりました。同性愛者だって、俺の名前が囁かれるたびに、視線が痛くて仕方なかった。最初は無視しようと思ってたんですけど、講義に行っても誰も話しかけてくれなくなって、仲の良かった友達さえ離れていきました」
部屋の中に風が吹き抜け、畳を揺らした。比嘉の声は穏やかだったが、その背後にある痛みを真一は感じ取った。
「そのうち大学に行けなくなりました。講義の教室に入ることすら怖くて……。あの頃の俺は、きっと自分で自分を追い詰めてたんだと思います。でも、どうにもならなかった」
比嘉は一度言葉を切り、天井を見つめたまま小さく息を吐いた。その沈黙の重みを、真一は言葉もなく受け止めていた。
「結局、俺、大学を辞めました。もう教室に行くこともできなくて、友達も失って……何もかも嫌になったんです。それからは家に閉じこもってました。何をする気にもなれなくて、ただ毎日ベッドの上で天井を見てるだけの生活。だけど、親父はそんな俺を絶対に許さなかった」
真一は、比嘉の表情に浮かんだ苦痛の色を見逃さなかった。その瞳には、遠い記憶を振り返る哀しみと、どこか憤りが混ざり合っていた。
「親父はいつも俺に怒鳴り散らしてました。『情けない』『男らしくしろ』って、何度も何度も。俺は何も言い返せなかったけど、その分、心の中ではずっと反発してた。もう顔を見るのも嫌で、家で過ごす時間が地獄みたいだった」
比嘉は拳を軽く握り、天井を見つめたまま続けた。
「それで、21歳のとき、家を出ました。貯金なんてほとんどなかったけど、もう耐えられなくて。逃げるように大阪に行きました」
比嘉の声が一瞬止まり、再び静かな風が畳を揺らした。
「大阪では、最初は安いアパートに住んでたんですけど、すぐに金が尽きて。それで……ある男と知り合いました」
真一は比嘉の横顔をじっと見つめた。その目は月明かりを反射しながらも、どこか空虚さをたたえていた。
「その人は、俺に優しかったんです。まあ、今思えば、ただの下心だったんだろうけど。当時の俺には、それでも救いに思えたんです。結局、彼の家に転がり込んで、たいして好きでもない相手なのに、求められるまま過ごしてました。何も感じないまま……ただ、そこで生きてただけでした」
比嘉は少し息をついて、続けた。
「でも、そんな日々も長くは続きませんでした。しばらくすると、相手も俺に飽きたんでしょうね。態度がだんだん冷たくなっていくのがわかるんです。最初は、帰りが遅くなったり、俺が話しかけてもろくに返事をしなくなったり。それがどんどんひどくなって……最後は、俺が邪魔になってたのかもしれません」
真一は、比嘉の声に込められたわずかな苦味を感じ取った。
「だから、ある日、『世話になりました』って書いたメモを残して、その家を出ました。行く当てもないまま。電車で適当に移動して、その先でどうにか生き延びるしかなかったんです」
比嘉は小さく息を吐き、遠い記憶を振り返るように目を細めた。
「その後は、各地を転々としました。どこに行っても、結局同じことの繰り返し。出会った男の家に転がり込んで、飽きられるまでそこで生活する。そんな自堕落な日々を続けながら、気づけば27歳になってました」
真一は驚きつつも、それを表情には出さずに耳を傾け続けた。比嘉の声はどこか乾いていたが、どれほどその生活が彼を追い詰めていたのかを語っているようだった。
「でも、そのとき、静岡で一人の男と出会ったんです。その人は、他の人とは全然違いました」
比嘉は天井から目を外し、静かに目を閉じた。
「その人との出会いが、俺の人生を変えてくれたんです」
その言葉には、これまでとは違う感情が込められていた。穏やかで、けれど確かな重みのある声だった。
真一はその続きを聞きたい衝動に駆られながらも、ここで言葉を挟むべきではないと感じ、ただ静かに待った。
部屋には再び静寂が訪れ、外から聞こえる虫の声と風の音だけが二人を包んでいた。
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