第9話 メイクアップ
「一人になってしまいました」
ユリアナがソリアに友好的であるのは、嬉しい誤算ではある。しかしソリアのコーディネートをしたり一緒にお風呂に入ったりと、企んでいたことのほとんどがご破産になったのは、正直寂しかった。
まあ、朝食までは大人しく魔術修練でもしておこうか。華麗に回れ右をすると、私は大きな影に頭をぶつけた。何かと見上げれば、眠たげな顔をした母がそこにいる。
「あの奴隷は、どこに?」
「ソリアさんなら、ユリアナにお仕事を教えてもらっているところです」
あの奴隷という言い回しが引っかかったが、いちいち否定して母の機嫌を損ねるのは賢くない。故に婉曲にソリアの名前を出したのだが、母は気にも留めなかった。
「あの子、何か私のことを話していたかしら」
「……?昨日はお互いのことを少し話しただけで、それ以外は特に」
母が顎に手を寄せつつ、ソリアが干した洗濯物を眺める。
「ドゥーべは説得したから、あの子の処遇を心配する必要はないわ」
「それはまた、どうして」
喜びよりも、疑問が先に出た。母からすれば私の行為は母の顔に泥を塗る行為であり、手助けする理由はどこにもないからだ。もしや良心の呵責でも苛まれたのかと見上げると。
「豚さんを食べるのと、豚さんをかわいそうだと思う気持ちは、矛盾しないんじゃないかしら。ペットを食用にする趣味は私にないわよ」
「人をペット扱いですか」
人を人扱いしない最悪な例えに、私は悪感情を隠せなかった。
「言葉の綾よ。あまり歯向かうようなら決定を取り下げないといけないけど、いいの?」
そう言われてしまえば、もう私は何も言えなかった。
「リアがあの子をどう扱おうと、私は許すわ。明日の出張にも連れて行ってあげればいい」
「……やっぱり、不可解です。ソリアさんに自由を与える理由が、お母様にあるようには思えません」
奴隷を側支えにすることを許可するなんて異常だ。父が私の側使えを解任した時には見て見ぬ振りをしていたのに、ここに来て協力的になるというのは、道理が通らない。
「あの子はね、私の個人的な秘密を知っているの」
私の疑問に、母が顎に手を寄せた。
「秘密?」
「いえ、違うわね。秘密を知っているようなフリをしている。嘘をついている」
なんだ。何が言いたい。
母はぶつくさ繰り返すだけで、私の方を見ていない。
「私が彼女を放置しているのは、性分でしかないの。大事な試合で、一太刀目をつい目で追ってしまうような……」
母は使用人たちに目をやりながら、一人で考え込んだ。
「リアの前なら、あの子も尻尾を見せるんじゃないかって、私は期待しているのよ」
一体どんな結論が出されるのかと思えば、結局それは、独り言と何ら変わりがない思わせぶりな一言だった。
「ソリアさんがここに来たのは偶然ですよ。変な疑いを持つより、彼女の仕事ぶりを評価してあげたいと私は思いますけどね」
ソリアが知った秘密というのが何であるかは知らないが、少なくとも彼女は悪意を持ってここに来たわけではない。私が昨日カリア邸に乱入しなければ、ソリアは未だ、その場所にいたのだから。
「それもそうね。リアはいつだって正しい」
私の訴えに、母が折れる。不穏な微笑を浮かべている。
「あなたの前では誰もが罪人で、だから誰も救わない」
母は私の肩に手を置いて、それから追い越した。てくてくと歩いて行く母の背中からは、どうも拒絶の意を感じずにはいられない。
「これから救います。多くの……いえ、目の届く全てを」
誰も救えていないというのは、事実だろう。私がこれまで助けた命は、エヴァインの利益によるものであって真なる善行ではない。ソリアのことだって、まだ助けられたわけではない。
———母が立ち止まり、ちらりと私を見る。
「あなたはきっと、ソリアを殺すわ」
きっと知らないだろうと思っていた名前を、私の耳元で囁いた。
♢
いや、殺すわけないだろう。父じゃあるまいし。
ユリアナとの仕事の話が終わり、ようやく帰ってきたソリアの後ろ姿を眺めながら、私は母に口の中でツッコミを入れた。
しかし、ソリアの知る秘密というのには興味がある。ソリアを疑っているのではなく、母が隠していることを知っておきたかった。
「さっき、お母様がソリアさんに秘密を知られたと言っていたんですけど、何か覚えがあったりします?」
聞かない理由もないので、ソリアの掃除を私は止めさせた。彼女は後毛を揺らしながら、怪訝そうに顔を顰める。
「思い当たることは、まあ。聖女様が隠されているのなら、私の口からは言えませんね」
秘密を知られたというのは、母の被害妄想ではないのか。うーん、ソリアに知る機会がありそうな秘密なんて、なさそうなものだが。
「教えてくれないだろうから聞いているんです。方向性だけでもいいので、言えませんか」
ソリアは苦しそうに腕を組み、僅かに唸る。
「魔術関係の話としか言えませんね。ちょっとした質問が大ごとになってしまって……私は魔術に疎いので、情報の重要性がわからない以上はもう話せません」
むむむ。ますますわからないぞ。ソリアが母に質問をできるのは、私が検診に乱入した直前くらいだ。そういえばあの時、母はソリアと対面していたが、その一瞬で母の琴線に触れることが果たしてあるのだろうか。
「しかしそれを伝えたということは、秘密の内容は私を追い出す口実になり得るということなのでしょうか。漏らせば殺す、みたいな」
「それはないと思いますけど……お母様はソリアさんの自由をある程度は許す気らしいですし」
「それなら、良いのですが」
まあ、ソリアのリスクになるならこれ以上の詮索はやめるべきか。今は、ソリアの待遇が好転したことに喜ぼう。
「そういえばソリアさん。明日、外出の予定があるんですけど、興味あります?」
出張に連れて行ってもいいと、母からの言質はとった。仕事内容は大教会の祝辞と信徒との交流のみであるので、拘束時間もそう長くはない。護衛なんて例の如くいないので、監視の目もなかった。
———それが意味することはつまり、二人きりのデートタイム発生。
私は唾液を飲み込みつつ、ソリアにキメ顔を向けた。
「遠慮しておきます。現状ではお供しても恥を晒すことになりますし、周囲の印象も悪くなりますから」
「ええ!?そんなことないですよ!お母様からは許可が降りましたし、私が支えるので恥なんて晒させません!」
まさか断られるとは思っていなかったので、つい早口になった。私は別にソリアに何かして欲しいわけではなく、単に仕事終わりに遊びたいだけなのだ。
(だから来てください……!お願い!!!)
「ええと、遠慮するとは言いましたが、実際に遠慮しているわけではないんです。使用人たちからの第一印象を良いものにするためにも、屋敷での仕事に暫くは注力したいというか、その」
ソリアが指先を合わせながらもじもじしている。それはまるで、突然の告白を断るかのようであった。やりたいことがあるから恋愛はできませんという、よく聞く断り文句そのものであった。
「へへ、そうですよね。今はそう、仕事が大事です」
私と仕事どっちが大事なの、とは聞けない。そんなのは相手を困らせるだけで、お互いに何の得もないからだ。
だから私は天井を見上げて、振られたという事実を噛み締めるのみである。
「しかし外出ですか……それでは迂闊なことはできませんね」
ソリアは私のショックも知らずに、掃除を続けながら会話を続ける。いつまでも自失状態ではいけないと、私は何とか起き上がった。
使用人としての仕事をするだけであれば、嫌味は言われども暴力を振るわれたりはしないはずだ。警戒するべきことは特に思い当たらない。
「……迂闊なことって?」
尋ねるとソリアは、部屋の隅にある写鏡に眼を向ける。
「ヘアセットやお化粧の手順をご教授いただきましたので、披露したいと思っていたのです」
「な」
思わず、声が漏れた。机に置いていたランタンがガタンと倒れる。
「つまりソリアさんが私の髪を整えたり肌に触れたりするということですか」
「はい。出しゃばりすぎですかね」
即答だ。
そしてその言葉はつまり、ソリアさんが私の髪を整えたり肌に触れたりするということを意味していた。
「ふげえー!!もちろん大歓迎です!」
振られたと思いきやの逆告白。これはもう舞い上がる他ない。
もしや私は夢でもみているのかとソリアににじり寄ると、彼女はちょっぴり、後退った。
「ふげえとは」
「鳴き声です。気にしないでください」
絶妙に引かれているような気がするが、気のせいだろう。そんなことより、メイクアップだ。私はソリアをいかに着飾るかばかりを気にして、自分がされるということを考えていなかった。攻守逆転、これはいい。
「でしたら早速お願いします。ほら、練習という建前を使って、私を好きにしてください」
鏡の前に移動し、腕を大きく開いた。全てを受け止めるという、誘い受けの構えである。
「ふむ。ではお言葉に甘えて」
よし来た!おお、すごい!
明日は槍でも降るのか、いや降らせる。それくらい私の心は、ハッピーハッピーだった。
「こちらのメイク道具は、使っても良いものですか?」
「もちろんです。ぜーんぶ、好きなように使ってください」
ソリアが指さしたのは、私のメイクセットだった。王都で流行している白粉と頬紅、それと趣味の色をした口紅がそこには収納されている。一応いくつかの種類があり、主に社交界用と営業用で分けているのだが、ここは口にしない方がいいだろう。
せっかく種類があるのなら、ソリアの趣味に任せたい。
「では、失礼しますね」
ソリアがそっと、スポンジを摘んだ。近づく彼女は、どことなくいい香りがして、ほんの少しドキドキする。
故に迫る衝撃に備え、私は眼を瞑った。
(あれ……?こない……)
いつまで経っても感触がなく、片目をゆっくりと開く。するとすぐ目の前のソリアが、くすりと笑った。
「何だか、キスを待つ乙女みたいですね」
初めての、満面の笑みだ。普段は無表情なのに、今はそう、嘘もなく笑っているような気がする。
「ほら、リアンシェーヌ様。眼を開けたままだと危ないですよ」
最速の言葉に反射で目を瞑る。五感の一つが失われ、心臓の高鳴りが耳の裏で響いた。
そういえば、人にお化粧を頼むのは、久しぶりだ。父に使用人を外されたのもあるが、もともと私は自分のことは自分でやりたいタイプなので、ある時期を境に化粧は自分でやるようにしていた。
だから、こうやって顔に触れられるのは、すごく新鮮だった。
「終わりましたよ」
まるで時間が消し飛んだかのように感じた。ゆっくりと目を開けると、鏡の中の私と目が合う。それはいつもの私であったが……
「すごいです。私の好みと、全く同じ」
流行とは逆を行く、ナチュラルメイク。ソリアが選んだ数々の化粧品は全て、売れ行きの化粧品ではない、私の趣味で買ったものであった。
「つまり、及第点は取れたと考えていいのでしょうか」
「及第点どころか満点です。明日もこの感じでお願いします」
明日は信徒との交流が主だし、あまり派手すぎてはいけない。これくらいのメイクがベストであるはずだ。
「あまり褒めすぎてはダメですよ。私を煽てたせいでリアンシェーヌ様が冷笑されるなんて、耐えられません」
いつものメイクをしているだけで、どうして笑われることがあるだろう。いや、その褒め方では、不足というか説得力に欠けるか。
「グラースさんはそんなことじゃ笑いませんよ。だから明日はこれでいいんです」
顔を合わせるのはグラースばかりではないが、こう言えば納得するだろうと思った。義理堅いソリアは、私以上の恩人であるグラースに失礼なことは言えないだろうと。
「グラース……様と、明日お会いになるのですか」
「はい。大教会の私への依頼は、グラースさんの中継ぎが入るので」
案の定ソリアは、グラースの名前に目の色を変えた。すっと、表情が消えたのだ。グラースがいなければ、そもそも昨日交渉が成立していなかったので、ソリアもそのことを気にしているのだろう。
「やっぱり明日、一緒に行きます。昨日はグラース様に、お礼を言いそびれてしまいましたからね」
意外な前言撤回に、私は心の中でガッツポーズをする。
玉砕したデートプランが、まさかここで復活するなんて!
「正直な話をするなら、リアンシェーヌ様のお側にいるのが一番安心できますし」
当然のようにソリアが付け加えるので、私の緩んだ頬は、緩みっぱなしだった。
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