第8話 メイド服

 小鳥の囀りが聞こえて、私はのんびり起き上がった。空がほんのり赤くて、目を刺すようだった。

 ベッドから降りると、足の裏から冷たさが伝う。すぐに靴を履いて、私は軽く息を吐いた。

 机には溶けた蝋燭があって、私が動かしたはずの椅子は定位置に戻っている。部屋には私以外誰もおらず、いつも通りの景色のはずなのに私は違和感を抱いた。

 目元が妙に乾燥していて、鏡を見たら赤くなっていた。そういえば昨日は、この年で号泣してしまって……その後、どうしたんだっけか。そもそもどうして私は泣いていたのか、思い出せない。

 脳裏に、可愛らしいネグリジェを纏った少女の姿が過ぎる。手のひらの中にはまだ微かな感触があって、目を閉じればその冷たさが蘇った。

「ソリアさん」

 ぼんやりとした頭がようやく覚醒する。忘れていた昨日の出来事達が、一気に頭を駆け巡る。

 いるはずの人間が、この場所にいなかった。

 勢いよく扉を開けて、外に出る。

 どんな理由があるにしろ、彼女がこの場所にいない状況は非常にまずい。昨日の父の様子を考えると、ソリアの身に何が起きてもおかしくなかったからだ。例えトイレに行くために廊下を出歩いただけだったとしても、下手すれば首を刎ねられかねない。

「きゃっ!」

「うおっと。危ない」

 廊下の突き当たりで人とぶつかりそうになり、私は回避を試みた結果壁に激突する。

「に、兄様。ごめんなさい……ちょっと人を探してて」

 痛む額を摩りながら、私は頭を下げた。危険行為をしたことには謝罪が必要だが、事態は一刻を争う。このままでは、ソリアが死———

「ああ、リアが昨日買ったっていう子かい。それなら裏庭の方に……」

「裏庭ですね!ありがとう兄様!!」

 私は階段を駆け降りて、ネグリジェのまま外へと向かう。兄のあの様子からして、ソリアは無事だ。どうしてそんな場所にいるのか知らないが、とにかく早く連れ戻さないといけない。昨日のようにソリアが傷つくなんてこと、あってはならないのだ。

 強く吹いた風に身震いしながら、私は庭園に飛び出した。しかし、駆ける足は数歩で動きを止めることになる。

 それは、目的の人物を見つけたがためではなかった。見つけたのではなく、見惚れたのだ。

 ———朝露の浮かぶ白色の花園に、少女が一人佇んでいる。黒いメイド服を風に揺らしながら、物干しに純白のシーツを掛けている。

 ———太陽はスポットライトのように少女だけを照らしていて、まるで宗教画を見ているかのようだった。

「おはようございます、リアンシェーヌ様」

 ソリアが干していた洗濯物から手を離し、私に頭を下げる。袖の余ったブカブカのメイド服に、頭にちょこんと乗っかったホワイトブリム。それはエヴァインのメイドが着る標準服そのままであったが、だからこそソリアにその服が如何に似合っているかよくわかった。

「その格好、どうしたんですか」

「昨日、出された以上の働きをすると旦那様に言ってしまいましたからね。約束を果たすべく、チーフさんから仕事をもらったんです」

 と、言いつつソリアは洗濯物を再び干し始める。カゴの中を見ればまだ干すべきものはどっさり残っていて、時間がかかりそうだ。

「それは……立派ですね」

 勝手に部屋を出たことを叱ろうかと思ったが、彼女が自発的にやった善行を咎めたくはない。ユリアナから許可をもらったなら、父に対する大義名分ができたわけであるし、寧ろ、褒めるべきことだ。

「ソリアさんはすごいです」

 私がいうと、ソリアは目を細める。

「あの、一応言っておきますけど。これは私が私欲でやってる生存戦略ですので、褒める必要はないですよ。そんな嫌そうな顔されながらでは、こっちも複雑ですし」

 ビシッと、ソリアは私に指を指した。嫌そうな顔をしたつもりはないが、顔に出てしまっていたらしい。

「リアンシェーヌ様のことですから、屋敷を出歩いていたら危ない!なんて思っているんでしょうけど、状況は全く逆ですからね」

「……逆?」

 父は苛烈だが、目に入らないものを態々痛めつけるタイプではない。父が暴力を振るうのは、気にくわないことが目の前で起きた時だけだ。だから、ソリアが出歩くことが安全に繋がるとは思えなかった。

「旦那様は、エヴァインの金が娼婦に使われることを認めないと仰ったんですよ。昨日のように私がリアンシェーヌ様の施しを受け続けていたら、私は本当に追い出されてしまいます」

「一理ありますけど、怖いものは怖いです。本音を言うなら、ソリアさんには、奴隷からの解放手続きが済むまで部屋で過ごしてほしいって、そう思ってます」

 ソリアは私に恩返しがしたいと言ってくれたが、それでも私は、彼女に傷ついてほしくない。それが対等な存在に向ける態度ではないとしても、彼女の安全を第一にするべきだと、私は思う。

「はあ。どうやら昨日に私が言ったことが、全然伝わってないようですね」

 ソリアは深いため息の後、テキパキと洗濯物を干して並べて、カゴの中身を空にした。それでようやく、私に向き直る。

「この際はっきり申し上げますが、私の今一番したいことは、リアンシェーヌ様にお仕えすることです。助けてもらった恩返しがしたいですし、実家にも帰りたくありませんからね」

 それは、不可解な発言だった。前半の内容は理解できるが、後半はまるで意味不明だった。引き離されて数年経つとはいえ、あんなに仲が良かった家族に会いたくないなんて、考えられなかったからだ。

「家族に会いたくないの?」

「はい。合わせる顔がないので」

 思わず絶句する。

 私はてっきり、ソリアが自由になって家族のところに帰れば、日常が取り戻されるものだと思っていた。心から望んでいた家族との再会が果たされれば、幸福な世界は元通りになると思っていた。

 しかし再会の喜びは、起こった悲劇を帳消しにするものではない。そんな当たり前の事実に、今になって気付かされる。

「きっと———」

「わかってますよ。きっと帰ったら、私の生存をみんな喜んでくれるだろうってことは」

 ソリアの視線が、自然と自分の胸元に移動する。奴隷紋のある位置だった。

「でも、私は……娼館で過ごしていたことを家族に知られたくないんです。こんな身体で、会いには行けない。あの場所で、私はもう笑えません」

 隠せばいい、という話ではないだろう。数年失踪して帰ってきましたで、空白期間があやふやとなれば、誰だって事情は察してしまう。

 それに、仮に上手い言い訳を私が用意できたとしても、この問題は解決しない。だってこれは、ソリアの心の問題だ。

「そんなことないです」

「そうですかね」

 私の頼りない言葉に、ソリアは曖昧に微笑んだ。上手な励まし方なんて、私は知らなかった。

 お互い言葉がなくて気まずい思いをしていたら、ざっざっと土を踏む音が背後から聞こえた。誰だと振り返ると、チーフメイドであるユリアナと、真っ直ぐ視線が合う。

「お嬢様、おはようございます。仕事の手伝いを申し出て下さったので力をお借りしたのですが、構いませんでしたか?」

「もちろんですよ。むしろ、ソリアさんのことを考えてくれたことに、私は感謝しないといけない立場です」

 奴隷であるソリアに、メイドの正装を渡した。その事実だけで、ユリアナがソリアに色々と配慮してくれたのがわかる。おかげで、宙に浮いていたソリアの立場に使用人という役割が置かれたのだから。

 私の感謝に、ユリアナは会釈で答えた。

「初仕事とは思えない手際ですね。もしかして、前の職場でも経験が?」

「はい。他にも計算や裁縫、掃除も教えて下さればお手伝いできるかと思います」

 ユリアナは、物干しにかけられた洗濯物を見つつソリアを評価する。ソリアの奴隷時代で得た技術が褒められるのは複雑だったが、しかし本人の表情は明るい。これなら、口を出す必要はないか。

「では、これからも力を借りることにしましょう」

 ユリアナの一言は、惜しみない賞賛と言い換えてもいい。それほどまでに、曇りのない笑顔であった。

「お嬢様。もう少し、ソリアさんを借りていてもよろしいですか」

「何をさせるんです?」

 話題を振られたので、反射で答える。ソリアが使用人としての地位を確立させるのは歓迎するべきことだが、何をさせられるのかくらいは知っておきたかった。

「朝食を食べてもらいます。旦那様に禁じられているのは、娼婦にタダ飯を食べさせることだけですからね。後輩のメイドに賄いを与えることは処罰の対象ではありません」

「ユリアナ……!」

 私が感激して手を握ろうとすると、ユリアナは一歩引いて人差し指を口元に立てる。内緒にしておけと、そういうことらしい。

「チーフ。寛大なご配慮、感謝致します」

「ま、食べた分の働きはしてもらいますから、そのつもりでいてくださいよ」

 ユリアナはソリアの背中を叩いて、自分の前を歩かせる。信頼が生まれたのが二人のやり取りからわかって、私の胸は熱くなった。

 だからこそ、これで終わらせてはいけないと、私は叫ぶ。

「ソリアさん!」

 不思議そうに、ソリアは振り返る。それで前髪が、はらりと揺れる。

「どうかしましたか」

 彼女はやっぱり、家族に会うべきだと思う。だから、薄暗い過去を抱えていても、胸が張れますようにと。

「これから、いっぱい頼りにしますから!」

 力一杯を込めた私の叫びに、ソリアは失笑した。

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