第5話 約束
長い長い森を抜けて、揺れる馬車馬に丘を上らせていくと、大きな木造りの屋敷が見えてくる。屋敷の門に刻まれるのは、繁栄を暗示する太陽の家紋。二代前の当主が建てたこの別荘は、先の戦争で倒壊したエヴァイン邸の代わりに、私達の住居として使われていた。
「その子、これからどうするつもりなの?」
お互いに無言を貫いてきたと言うのに、到着の寸前で母は口を開いた。
「ソリアさんの希望次第ですが、家族のところに送り届けようと思っています」
「そう。あれだけの大金を、ドブに捨てるのね」
的外れな言葉だと思った。一人の幸福を金貨百枚で得られたのなら、それは喜ぶべきことだ。
「あなたは、それでいいの?大分、状況が変わってしまったけれど」
母がソリアに尋ねると、彼女は軽く頭を下げる。
「私が決定するべきことではありません」
「そう。弁えてるのね」
母が鼻を鳴らす。馬車がエヴァイン邸の敷地に入って、大きく縦に揺れる。
「とはいえ、リアの行為は奴隷の監督放棄に当たるわ。場合によっては、あなたの奴隷財産は没収されるかもしれないわね」
「だから、家族には会わせるなと?」
馬車の歩みが緩やかになる。停留場所は目の前だったが、御者は私たちの会話が終わるのを待つ気のようだった。
「……正規の手順を踏めと言っているの。その子を市民階級に戻したいなら、奴隷組合に金貨15枚を支払って奴隷契約を解消するしかない」
高くはないが、安くもない。二回の仕事で、およそ回収できる金額だ。支払う対象が奴隷制の根幹に位置する組合なのは不快だが、しかしそれはソリアを助けない理由にはならない。
「啖呵を切ったからには、自力で稼ぎなさい。生活の面倒も、一人で見なさい。あなたは今、人間を所有しているのだから」
馬車が停車する。御者が到着を伝えたことで、車内を包んでいた緊張感が一気に解き放たれる。開け放った扉から、冷たい風が吹き込んでくる。
「ソリアさんの幸せは、私が保証します」
問いの答えは、母ではなくソリアに伝えた。責任を果たす行為は、自分への誓いではなく他者への誓いだと、そう思うから。
♢
屋敷に入る直前、ついため息が漏れてしまったのは、停留所に停まる馬車が私たちの乗るものだけではなかったからである。こんな夕暮れ時に屋敷に用事のある人物なんて、一人くらいしか思い当たらなかった。父が、帰ってきているのだ。
母が徹底的な実利主義者であるのなら、父は盲目的な権威主義者だ。軍部の指揮をやっているからか、上下関係に非常に厳しく、容赦がない。口論をすれば暴力で返されるので、少女の体ではどうにもできない相手だった。
扉を開ければ、使用人たちが出迎える。その中で唯一、チーフメイドのユリアナだけがソリアを不可解そうに見つめていた。
「彼女は?」
「アルムスのところから引き取った、ソリアさんです。暫くは私の側使えとして働くことになると思うので、よろしくお願いします」
反応は冷ややかだった。ユリアナはソリアの背格好から、奴隷であることを察したらしい。
「……私が意見することではありませんが、旦那様はお怒りになりますよ」
「そうですね。まあ、頑張って説得するので心配しないで下さい」
暴力に発展する未来しか見えないが、しかし問題を先送りにすれば発覚した時に父が爆発しかねない。ソリアの環境を整える前に、まず父の理解を得る必要があった。
出たとこ勝負になるが、やるしかない。
「いいや、その必要はない。今聞いたからな」
踊り場から、父が私を見下ろしていた。黒い礼服を着ているのに物騒に感じたのは、腰にぶら下げた長剣のせいだろうか。流れ出した冷や汗が、止まってくれなかった。
「奴隷を屋敷に住まわせる気はない。今すぐに殺せ。エヴァイン家の財産が娼婦のために使われるなどあってはならないからな」
殺せと、躊躇うことなく父は言った。奴隷の認識というのは何処もこんなものなのだろうが、冷酷な発想に、私は動揺する。
「彼女は私が私のお金で買い取りました。面倒も私が見るので、お父様のお手を煩わせるつもりはありません」
勇気を出して反論する。すると父は、踊り場から一段足を落とした。
「お前の金ではない。家族の稼ぎは家の金だ。この屋敷も身分も生活も、全てが共有財産だ」
「それでも、稼いだ内の一部分を使う権利くらいは、私にもあるはずです」
「子供に大金を使わせる親はいないぞ」
子供だから権利を認めないというのは、無敵の論理であった。それには一定の正当性があるし、どんな反論を喰らっても「大人になるまで待て」の一言で封殺できてしまう。
なんと切り返すべきか、頭が一瞬漂白された頃。
「不躾ながら発言させていただきます」
真後ろで待っていたソリアが、強かに手を挙げた。
「出された金額以上の働きをすると約束します。ですからどうか、滞在をお許しいただけないでしょうか」
ソリアの決死の発言に、父がわかりやすく眉を顰める。一歩二歩三歩と階段を降りて、ソリアのすぐ目の前で止まる。
「奴隷風情がよく吠えたな。一体お前が、なんの役に立てるというのだ」
「まず、私は字が読み書きできますし、基本的な計算もできます。他の奴隷とは違い、労働力以上の働きを期待できます」
ソリアが真っ直ぐに父を見据える。すると父はニヤリと笑って———ソリアを、蹴り飛ばした。
「ソリアさん!」
壁際まで吹き飛ばされて、ソリアがぐへっと透明な液体を吐き出す。私は咄嗟に二人の間に割って入った。
「お父様!それ以上続けるというのなら、器物の損害で訴えますよ」
私は大きく手を広げて、ソリアを庇う。
契約上ソリアの主人は私なのだから、父であっても殺すことは犯罪だ。傷つけただけでも構成要件が成立する以上、こう主張すれば暴力は続けられない。
「見苦しい。殺されるのがそんなに嫌か?」
父は私を手で振り払って、腰から剣を引き抜いた。ソリアの首筋に切先が添えられ、僅かに血が漏れる。
「それが意味のある死でしたら、私も喜んで受け入れましょう。しかし、主人の損失になる死であるのなら私は受けられません」
一歩言葉を間違えれば殺される。そんな状況の中でも、ソリアは怯えることなく訴え続ける。
「どうやら、損切りという言葉を知らないようだな。生かしておいても殺しても損なら、後者の方が尾を引かない」
刃が食い込み、どくどくとソリアの首から血が溢れる。気分次第では本当に殺してしまうんじゃないかと思って、私の足が助けに行くことを躊躇う。
「いえ、尾を引くはずです。今、買ってすぐの奴隷を殺した事実を作ってしまったら……これからの活動に大きな支障が出るのは目に見えています」
倫理に訴えかけるのは下策だと、父の性格をよく知る私は思った。しかし意外にも、その切先がそれ以上食い込むことはない。父が、眉の片方を上げたのだ。
「待て、お前もしや……」
「リスクを避けた方がいいというのは正論ね。そもそも私がこの子の購入を見逃しているんだから、文句はないでしょう、ドゥーべ」
沈黙を貫いてきた母が、緊迫を破る。それは、この場の誰にとっても予想外の行動だった。
「ふん。正気とは思えんな」
「お互い様でしょう。それより時間を貰いたいんだけど……いい?」
不機嫌に鼻を鳴らした父を、母は曖昧に笑って宥める。すると父は肩を落とし、一言。
「構わん」
そう呟いて、二人でリビングへと向かっていった。
去っていく背中に、私は文句をつけてやりたい気持ちでいっぱいだったが、しかし今は優先するべきことがある。私はソリアに駆け寄って、血が溢れ出る首元に触れた。
『修復術式展開』
単純な外傷の治療だけなら、検診術式は必要ない。ソリアの身体に魔力を転写し、私はソリアの頭を膝の上に置いた。
「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて、思ってなくて」
父には歓迎されないだろうと、最初から理解はしていたが……甘かった。まさか人の奴隷を簡単に殺せてしまえるほどに残虐な人だとは、思っていなかった。
「いえ、違いますね。私がこんなところに連れてきたから、こんなことに」
自分への慰めにしかならないと、私は言い訳を中断した。
「グラースさんのところに、送り届けましょうか。多分、教会の仕事を手伝うことになるとは思いますが……ここにいるよりは、安全です」
私が提案すると、ソリアが厳しい目つきで起き上がる。もう傷口は塞がっているが、それでも早すぎる立ち直りだった。
「グラース様にご迷惑でしょう。私は卑しい身分なので、気に病む必要はありませんよ」
「気にします!私は、そういうのが嫌であなたを買い取ったんですから」
私が叫んで、ソリアの手を取った。そんな風に自分を貶むのは、悲しいことだと思ったのだ。
「お心遣い、ありがとうございます」
ソリアが低く頭を下げるので、距離感の差に寂しさを覚えた。私がそれを嫌おうとも、今の関係は奴隷と主人だ。だからきっと、それは当然の態度なのだろうけど。
「そんなに卑屈にならないで。私はソリアさんと、友達になりたいと思っているんです」
今は無理でも、いつか必ず、そうなりたい。私は立ち上がって、ソリアの腕を引っ張り上げる。
するとソリアが、大きく目を見開いた。
「いいのですか。そんなことを言って」
「もちろんです。ソリアさんはこれから自由になって……それで、私たちはただの友達同士になるんです。そうするって、約束します」
「友達、ですか」
シャンデリアが瞳に映って、ソリアの漆黒に光が宿っていた。彼女の表情にはどこか呆れがあって、まるで私を侮るようで。
「私は悪い子なので、きっと、後悔させちゃいますよ」
照れ隠しのような言葉は、あまりにも妖艶だった。
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