第3話 記憶




 ソリア・ゾラは商家の娘である。三姉妹の長女として育った彼女は、両親の期待に応えるべく自ら多くを学んだ。学ぶことはそれほど好きではなかったが、ソリアはそれ以上に家族のことが好きだった。

 ある日ソリアは妹たちにせがまれて、町に来た劇団を観に行くことになった。それほど面白いものではなかったが、妹たちは喜んでくれた。それだけで来てよかったと思った。

 ───その日の帰りだった。

 末の妹が髪飾りを落としたというので、私は一人で取りに行った。もう日が沈んでいたから、危なくないように、妹二人は先に帰らせた。

 その懸念は正しく、その判断は致命的に間違っていた。

 髪飾りは広場の座席にそのまま落ちていた。周りには誰もいなかった。そもそもこの町で人攫いも強姦も、起こったことはなかった。

 背後から突然に袋を被せられて、私は気を失った。叫んだら殴られて、殴られたから叫んだ。段々と、意識が遠のいて。

 気づけば私は檻の中にいた。

 じんじんと焼けるような痛みが胸の中にあった。私の町にも奴隷はいたから、それが何であるのかはすぐわかった。

『逃げようなんて思うなよ。これがある限り、どこにいても居場所はわかるし、言葉一つでいつでも殺せる』

 自らの胸元に視線を落とす。赤黒い茨のタトゥーが目に入って、私は悟る。

 ───私の人生はすべて、無意味になったのだと。

 それからの人生は、酷く単純だった。私はただ横になり、やってきた男から目を逸らして……毎日。毎日毎日毎日毎日───

「ひいっ!!!!」

 私は目の前にいる誰かを突き飛ばし、自らの身体を弄った。

 痛みは───ない。

 身体は───汚れていない。

 奴隷紋は───ない。

 私に纏わりつくあの気持ち悪い感覚は、この身体のどこにもない。あれは私の記憶ではない。私は無事だ。何も、最初から……問題はない。

 乱れた呼吸を整えながら、周囲の状況を確認する。私によって突き飛ばされたソリアは、驚いた様子で私を見上げている。

 そうか。私が、やったのか……

「ごめんなさい、ソリアさん。あの、私」

 言い訳が出てこなかった。読んだ記憶に驚いて突き飛ばしてしまったなんて、失礼だし本人からしても気持ちが悪いだろう。

 見た記憶を本人の認可なく口外してはいけない。それは治癒魔術師にとっての鉄則である。

「なにか見つかったか」

 尋常ではない私の様子に、アルムスが尋ねる。その問いかけに、私は強く葛藤した。

 言うべきか、言わないべきか。

 ソリアにちらりと視線を向ける。

 彼女は多分、年齢的には私と同じか……少し上くらいだろう。そんな年齢の女の子が苦しんでいるのを見捨てたくはない。

 たとえそれが非合理でも、助けたい。いいや、そうするべきであるはずだ。

「か、彼女はどうやら正規の奴隷ではないようです。人攫いにあっただけの自国民で、こんな仕打ちを受ける正当性は……」

「聞き方が悪かったな。その奴隷は健康体だったのか?」

 アルムスは、食うようにして私の言葉を遮った。それが不可解で、もう一度私は口を開く。

「あの、ですから彼女は」

「リアンシェーヌ嬢。見た記憶を口外する行為は、いかなる理由があろうとも違法だ」

 冷酷な宣言。

 しかしそれは正論で、そしてソリアを助ける気がないという意思表示でもあった。

「……では、本人の言葉があればいいんですか」

 私から言い出した、となれば確かに違法だが……口にしたのが本人であるのなら、それはただの自白だ。

「あの、貴女のことを教えて下さい。絶対に、私が助け出しますから」

 耳元で彼女に囁く。

「……」

 ソリアは何も反応を返さない。助けると約束しているのに、無表情に、私のことを眺めている。

「ソリアさん。お願いします」

 やはり反応はない。しかしその理由は、彼女の記憶を知る私にはわかっていた。

 諦めているのだ。自分はもう、元のところには帰れないと、諦めている。

『修復術式展開』

 ソリアの顎に触れて、呟く。

 治癒魔術には人間の精神を直接変化させる能力はない。脳というブラックボックスを都合よく書き換えることは、人間の思考能力では達成できないからだ。

 しかし、母は一度……伯母の精神を治療している。母はそれを治すではなく戻しただけだと形容したが……つまり。

(脳の逆行。心の奥底に沈めた感情を、最初の状態に戻す)

 トラウマの要因となる脳の部位を、私は今日までの治療と医学書で大雑把に理解している。その部分だけを過去の状態に戻せば、擬似的な精神治療ができるはずだ。

「ソリアさん。一言でいいから、助けてって、そう言ってくれませんか」

 頭部への干渉は、非常にリスクが高い。だからまず私はソリアに問いかけ……その瞳孔が揺らいだのを見て、成功を確信した。

 ソリアが、ぱくぱくと口を動かしている。私に何かを伝えようとしているのだ。

「もっと、大きな声で」

 ソリアの口元に、耳を近づける。

 かすかな呼吸の音が聞こえる。静かな、湿った、温かい吐息だった。それで、やっと、願いが叶うのだと胸が熱くなって……

「嫌……」

 肩を突き飛ばされて、私は絶句する。

「触らないで!!気持ち悪い……!」

 先程までの無表情が嘘のように、ソリアは取り乱していた。

 思考が固まる。

 拒絶されたショックもあったが……それ以上に、彫刻のような相貌が絶望に歪んだ事実を、私は受け入れられなかった。

「ふむ。あては外れたようだな」

 アルムスが、私を一瞥する。

「そもそも私には、開放する理由がないのだよ。経緯はどうあれ、奴隷紋を刻まれているならそれは奴隷だ」

 アルムスは尤もらしい言葉を並べていたが、よく聞こえなかった。彼の言葉なんてどうでもよかった。

 ソリアの眼差しには、敵意がある。彼女にとって私は、自分を虐げてきた者たちと変わりがないと、そう告げられているかのようだった。

 そんなはずがない。私は彼らとは、全然違うのに……

「あまり失望させてくれるなよ。君の態度は、あまりに誇りが欠けている」

 気づけばアルムスは私の隣にいた。肩に置かれた男の手のひらが、重たくて、不快だった。

 ───検診は問題なく進んだ。

 殆どが性病に罹っていたが、同じ病であったので修復は容易だった。

 私が治すたびに母がチェックを行い、それに問題がないとわかると、アルムスはあからさまに機嫌を良くした。

 治療が終わる頃には拍手をするほどで、刺さる奴隷たちの視線が痛かった。

「アルムス様、改めて娘の無礼をお詫びします」

「気にしてはいないさ。意識が高さは、質の高い仕事につながるだろうしな」

「はは。耳が痛い話です」

 談笑する二人を横目で眺めながら、ソリアにもう一度視線を移す。彼女はまだ震えていて、他の奴隷に支えられて始めて立てるというような状況だった。

 アルムスが命じると、奴隷たちが部屋を去っていく。ソリアは振り返ることもなく、命じられたままにこの場からいなくなった。

 私はどうにか引き止めたくて、手を伸ばす寸前、それが私を慰めるだけの行為だと気がついた。

 ♢

 いつの間にか私は馬車に戻っていた。どうやってここまで歩いたのか、まるで思い出せなかった。

 ソリアに突き飛ばされる感覚がまだ肩に残っていて、それを思い出すだけで、自然と肩が震えた。

「仕事を選べる立場に、リアはいないわ。だから、もう少し大人になりなさい」

 ぼんやりと外を眺めていたら、母が私に言った。それでやっと意識が現実に戻ってきて……罪悪感が、怒りに塗りつぶされる。

「お母様は間違ってるって思わないんですか?」

 人が苦しむような商売を、どうして恥じることなく手伝えるのか。私にはそれがわからなかった。

 すると母は、背もたれによりかかりながら呟く。

「報酬がいいからかしらね」

 簡潔で、明快で、それ故に不愉快な答えだった。

「そんなの、正しくないです」

「いえ、正しいわ。私の身体が一つである以上、救済の対象は選ばないといけないもの。その基準が、お金なの」 

「それだと、本当に助けが必要な人を助けられません!」

 私は思わず立ち上がった。すると母はため息を吐いて、苛立ちの混ざった声色で語り始める。

「本当に助けが必要ってどういう状態かしら。誰だって、助けはあったほうが嬉しいでしょう?」

「屁理屈はやめてください。自力で立ち上がれないない人を助けることこそ、聖職者の行うべきことなんじゃないですか」

「見てわからないものを基準に人を助けるなんて、不公平よ」

 母は顰め面を隠しもしない。

「はあ……?」

 だから私の口からも、低い声が出た。

「私は嫌いな人でも、相応の報酬を支払ってくれるなら助けてみせるわ。だってそれって、平等だもの」

「そんなの、単に利益にならないことをしたくないだけじゃないですか。無責任です」

「それの何が悪いのかしら。無償の奉仕なんて、正気の沙汰じゃないもの」

 母は悪びれもしない。

 一発引っ叩いてやりたい衝動にかられて、握る手のひらでスカートに皺が寄った。

「綺麗事の先には自滅しかないわ。そんな様子だと、私の後は継がせられないわね」

 これで会話は終わりだと、そう締めくくるかのような一言。それを見て、私はとうとう失望を通り越した。

「……決めました」

 母の、不健康そうな辛気臭い顔を、もう一度見下ろす。やる気のなさそうな重いまぶたには、聖職者としての気品がまるで見当たらなかった。

「私、お母様をその椅子から引きずり下ろします。二度と聖女なんて名乗らせないし、領主の仕事だって奪ってやります」

 初めて人間を、指で指した。

 家族だからと、その行為を見逃すわけにはいかなかった。

 母は私の指先を横目で眺めて、言う。

「好きにすればいいんじゃないかしら」

 まるで興味がなさそうな、母がいつも私を見る目。しかしそれももう、私の心を動かさない。

「……首を洗って待っておくことですね」

 その日を境に、私達家族は、敵同士になった。

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