第2話 出会い



 雪の降るその日、母は髪を濡らしたままに、倒れ込む私を見下ろしていた。出迎える私は打ち傷だらけで、息も絶え絶えで、一言もはすることができなかったと思う。

「どうやら、剣の才能はなさそうね」

 震える声で、母が言う。そうして、顔も合わせることもなく、私にできた痣を指先で撫でた。

 痛みにあえぐ私に、母が息を呑む。言葉はないが、声は聞こえた。

『修復術式展開』

 母の指先に、僅かに光が宿る。その魔術行為を認識するより先に、私は奇妙な快感に襲われた。

 すっと、痛みが引いていく。不自然に、身体が元気になっていく。

 ついさっきまで私の心を支配していた痛みとか、苦しみとかが、理不尽に引き裂かれる。まるで自分の心が自分のものじゃなくなったみたいで、ひどく気持ちが悪かった。

「お父さんは、もうリアに剣を教えることはないそうよ。よかったわね」

 呼吸を整えている私に、母は他人事のように伝言を伝えてきた。しかしそれでも、安堵してしまう。私は事実上、父から無能の烙印を押されたというのに、これ以上苦しまなくていいんだと、喜んでしまう。

 怪我が治ったと見るや否や、私はひとり取り残された。血で汚れた身体が気持ち悪くて、重い足取りで屋敷に戻る。使用人たちはこちらに近づこうともせず、私の姿を見て何かコソコソ話している。

 こそこそ。こそこそ。

 ───エヴァインの子どもが、二人とも凡才だなんて。

 ひそひそ。ひそひそ。

 ───本当に聖女の娘なのかしら。

 ちらちら。ひそひそ。

 ───偽物なんじゃないかしら。

 私は何もかもが嫌いだった。虐待じみた修練を強いる父のことも、私にまるで関心がない母のことも、責任と義務を押し付けてくるこの家の事も、大嫌いだった。

 何より、期待に答えることのできない自分のことが、私は許せなかった。

 ♢

 私の生まれ故郷であるエヴァインは、領地の半分が森で埋め尽くされ、反対側を見てみれば農場と牧場が広がっているという、これ以上ない田舎である。代々一族が任されてきた土地ではあるので、もちろん嫌ってはいないのだが、しかし、馬車で移動するとなると、この代わり映えのしない風景は退屈だった。

「浮かない顔ね」

 隣に座る母が、私を横目で見た。首元まで伸びたしなやかな金髪が、馬車の歩みで揺れている。

「私の初めての仕事なんですよ。緊張もしますよ」

「気張る必要はないわ。アルムスさんも、今回はあなたの腕前をみるのが目的だって言っていたもの。場所が違うだけで、いつもの練習と変わりはしないわ」

 腕前を見られるのであれば、それはもう練習ではなく本番だろう。しかも金銭のやり取りが発生するとなれば、責任は重大だ。

「簡単に言わないでください。検診とはいえ、人の命に関わることなんですから」

 慣れてきたとはいえ、私はまだまだ魔術師として未熟だ。しくじれば一般人に健康被害が出ることになる。

「何かあっても、私が隣にいれば大事にはならないわ」

 母が呟く。まあ、何千何万という人間を治療してきた聖女からすれば、これくらいの仕事は本当に問題ではないのだろう。

 母は、天才なのだ。戦場を歩けば自軍の傷はたちどころに癒え、剣を振るえば城すら落とす。聖女の長い歴史の中でも、これほどまでに多くの武勇を得た者はいない。

 だから母にとって、私の成否は重要ではないのだ。

「そう、ですね」

 母の正論に、私は頷くことしかできなかった。

 頬杖をついて外を眺める母は、本当に私に興味がなさそうで。私は期待されていないのだと、嫌でも実感させられた。

 ……牧場の異臭が徐々に遠のき、舗装された道に入って揺れが穏やかになる。漂ってくる甘い香りは、確か、麻薬を焚いた時に発生するものだったか。皮肉にもそれは、エヴァインの空気よりも私の心を落ち着かせた。

 周囲に自然はすでになく、窓の外には吹けば飛ぶような家屋が並んでいる。どうやらもう、カリア領に入ったらしい。

「あの、止まってくれますか」

 私は前のめりになって、御者に声を掛ける。すると御者は怪訝そうに振り返った。

「え?屋敷はまだ先ですよ、お嬢様」

「あそこに、倒れてる人がいるじゃないですか。助けます」

 私は御者にわかるように、道の端っこで寝転がっている男を指さした。

「放っておきましょうよ。どうせ薬の吸いすぎですよ、助ける理由がありません」

「家紋のついた馬車に乗っているのに、民衆を見捨てるなんて駄目です。家の風評に関わります」

「リア」

 私が色々と理由を並べていると、母が今日初めて、私をまっすぐ見た。

「仕事に遅れたらいけないわ。見捨てましょう」

 感情の乗っていない、冷酷な発言だった。母であれば五分もかけずに治せるはずなのに、男を助ける気はないようだった。

 だから私は、それで決心がつく。

「じゃあ、すぐ終わらせればいいんですね」

 馬車の扉を勢いよく開けて、私はすぐさま飛び降りた。説得なんかよりも、優先するべきことが私にはあったからだ。

 男に駆け寄り状態を確認する。やせ細っていて目は虚ろで、ほとんど死にかけであったが、彼は生きていた。

 だから私は彼の荒れた手を握り、呟く。

『検診術式展開』

 それは、魔術を発動させる上での、一つのルールであった。

 ───言葉によって活性化した術式が、私の思考能力を引き上げる。否、人体には存在しない感知能力が、術式によって私に付与される。

 魂に宿る膨大な情報が、私の脳内を駆け巡る。検診術式の副作用によって、男───ロラン・スミスの半生が私の脳内に流れ込んでくる。手足の感覚が抜けていって、彼の思い出が私のものであるかのように振る舞い始める。

 知らない場所、ベッドと女の子一人だけの空間。

《女は受け入れるのみで、問いかけにも答えてはくれない。無表情で見つめるばかりの彼女に、俺は少しばかりの罪悪感を覚えた》

《帰り際、ダメ元で名前を尋ねると、彼女は初めて口を開いた。相変わらず無表情だったが、しかし、そのか細い声に、俺の心は震えた》

『ソリアです。私の名前』

《俺に助けを求めているのだと、そう思った。何としてでも彼女を救い出さなければならないと》

《何度めかの夜、ソリアは俺に言った。声を聞くのは、それが二度目だった》

『それで救われるのは、私ではありませんよ』

《黒い瞳に、拒絶の意思が宿っていた。そんな言葉をぶつけられるなんて、想像もしていなかった》

《死のうと思った》

 ───そこからの記憶は酷く散漫としていて、私の脳では理解することができなかった。しかしそれでも、その魂の情報は私の精神に転写されている。

 薬物による脳の萎縮、呼吸器の機能不全。性病による皮膚のただれ、腐敗。

 修復するべき部分を把握した私は、収集した男のデータから健康体のロラン・スミスを仮定する。

『修復術式展開』

 触れ合った手のひらから男の体に魔力を流し込み、彼の魂に私が定義したロラン・スミスを上書きする。魂というのは肉体と相互関係にあるため、書き換わった情報に合わせるべく、必然的に彼の肉体は変質した。

 やせ細った身体には肉付きが戻り、破壊された脳細胞は再び蘇る。臓器は本来の機能を取り戻し、空になっていた胃は膨れ、彼は健康体そのものになる。

「ざっとこんな感じですかね」

 現実時間にして、およそ20秒くらいだろうか。これが危険性の高い頭部の治療であったことを考えれば、上手くやっている方だろう。

 とはいえ、施術が成立しているかどうかは彼が目覚めるまではわからない。私が認識できなかった記憶領域はかなり曖昧になっているので、障害が発生する可能性は十分にあった。

「起きてください、ロランさん」

 私がロランの体を揺すると、彼は眠り目を擦った。

「ここは……」

「倒れていたので、治癒魔術をかけました。何か身体に違和感はありませんか?」

「俺は何でここに」

 混乱しているようだが、言語機能に問題は見当たらない。おそらくこれなら、日常生活に復帰はできるだろう。

「あなた、わるーい薬を飲みましたね。人生は長いんですから、そんなもの使っちゃだめですよ」

 治してすぐに死なれても困るので私は指先でばってんを作り、彼を叱る。

「人間は生きてこそです。辛いのも苦しいのも永遠ではないと、女神様も仰っていました」

 ロランはしばらく呆然としていたが、徐々に記憶がはっきりしてきたのか、彼は顔を青くした。

「それは……その通りですね。なんと感謝を申し上げればいいか……後日必ずお礼をさせていただきます」

 地面に頭がつくくらいの、平服であった。そのギャグみたいな体勢に私はぎょっとする。

「いりませんよ。ただ私がやりたくてやったことなんですから」

 私が言うと、ロランは二十度だけ顔を上げた。やっと頭を上げてくれるのかと思ったら、どうやら違う。奥で待つ馬車の家紋を、彼は睨んだ。

「エヴァインのご令嬢であるとお見受けしますが、お間違いありませんか」

「そ、そうですけど。そろそろ頭を上げて───」

「では、必ずお礼を」

 ようやくロランが頭を上げたので、私は胸をなでおろした。彼の記憶を見た限りだと、こんな殊勝な人間には見えなかったのだが……まあ、これも彼の一側面なのだろう。

「リア、もういいでしょう。早く帰ってきなさい」

「はいはーい」

 しびれを切らした様子の母に、私はおざなりに返事をする。どうやらこれでタイムリイットだ。聖職者としては色々説教をするべきなのかもしれないが、趣味じゃないのでいいだろう。

「じゃあ、私は帰るんですど……いかがわしい店に行くのは、良くないですよ。恋愛できるわけでもないんですから」

「それは、どういう……」

「心当たりがあるはずですよ」

 とりあえず言いたいことを言って、足早に馬車に戻る。叱られるかと思ったが、母にも何も言われなかった。

 まるで何事もなかったかのように、馬車はゆっくりと歩み始める。事実このような出来事は、今日が初めてではなかったのだ。

 ♢

 席に戻ってから思い出したのだが、私のお尻は今、長旅で大ピンチである。貴族の馬車といえど敷物はそれほど柔らかくないので、長く座っているとどうしても痛くなってしまうのだ。

 私がお尻と敷物の間に手を挟むという悪あがきをしていると、何を勘違いしたのか母が深刻そうに呟く。

「よくない記憶でも見たの?調子が良くないみたいだけど」

 珍しく母が私を気遣った。ただお尻の痛みを誤魔化していただけなので、少しバツが悪い。

「いえ。記憶の分別には時間がかかりそうですけど、そんなに酷くはないですよ?」

 私が言うと、母はため息を吐いた。

「……もう少し、検診は手を抜いた方がいいわ。自他の境界が崩れると、まず治せないもの」

 聞いたことがある。私の伯母であり先代聖女のグラースは、度重なる治癒魔術の使用で、気をおかしくしたのだと。

 今では叔母も持ち直し枢機卿の座にいるが、母曰くその性格は昔と随分違うらしい。母はそのことを気に病んでいるそうなので、一応心配なのだろう。

「まあ、本気を出せば戻せはするのだけどね」

「お母様。前言をすぐに撤回すると、説得力がなくなっちゃいますよ」

 たとえ治せるとしても、それを言ってしまうと脅し文句としての効果が薄れる。母は教育者につくづく向いていないなと、私は呆れた。

「戻すと治すは、全然違うわ」

 母がムッとして、窓に頬杖をついた。治すとは元に戻す行為なのだから、何も違わないだろうに。

 ……母をどう慰めようかと私が考えていると、御者がこちらに振り返る。

「聖女様。もう着きますので、ご準備を」

 前方に目をやれば、すぐ近くに高い高い壁があった。王都とカリアを分断する、灰色の城壁である。その足元には鼠色の屋敷が隣接していて、まるで城壁に飲み込まれたかのようであった。

「ええ、すぐに」

 カリア邸を眺めながら、母が呟く。準備と言っても、使用人がいるのでやるべきことは少ない。

 必要なのは、心構えくらいだろうか。

 さあ、初仕事だ。

 ♢

 要塞として増築されたという経緯もあり、カリア邸の内部は大貴族の住居とは思えないほどに質素であった。石造りで装飾のない壁に、小さくて狭い、開閉の出来なさそうな窓。申し訳ばかりに深紅のカーペッドが敷かれているが、使い込まれてないせいで、屋敷のボロさを引き立てている。

「よく来てくれたなネメジス卿。君がこちら側についてくれて喜ばしいよ」

「長い付き合いですから、当然です」

 私達を出迎えたアルムス・フレイン・カリア公爵は、猫背で目に隈をつけた、悪人面の男だった。確かまだ四十代であったはずだが、白髪が混ざっていて年老いて見える。

「はじめまして、アルムス様。本日はお招きいただきありがとうございます。ご期待に添えるよう努めますので、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく頼むよ。未来の聖女とは、良好な関係を築きたいからな」

 アルムスが手を伸ばしてきたので、私は握手をした。正直、カリアの領政にはいい印象がないが……しかしお隣さんとは仲良くするべきだろう。

「聞いていた通り、利発な子だな。ネメジス卿の教育方針がいいと見える」

「私にはもったいない娘です」

 母の謙遜に、アルムスが苦笑いした。

 ───挨拶もそこそこに、私達は客室に案内される。部屋の中は流石に装飾もしっかりしていて、人をもてなすための最低限の準備が行われていた。きっと、飾られている絵画は相当に価値のあるものだ。

 しかしそれも、私の目には入らなかった。なぜなら客室には、真っ白な布切れを着せられた少女たちが並ばされていたからだ。

「アルムス様。失礼ですが、もう一度依頼の内容を確認させて頂いてもよろしいですか」

 嫌な予感がした。いや、その予感は的中すると、眼の前の光景から私は確信できた。

「そこにいる奴隷たちの検診を願うよ。彼女たちには長く働いてほしいからな」

 奴隷。つまり彼女たちは、法律上人間として扱われていない異民族ということだ。

「彼女たちはどのような仕事をしているのですか」

「まあ、売春だな」

 言い淀むことすらなく、アルムスは言い放つ。

「お母様はなぜ、このような依頼を引き受けたのですか。こういった商売に加担することは、聖女の品格に関わると思うのですが」

 アルムスの行為は忌むべきものだが、しかし彼を責めても状況は変わらない。故に私は、仕事内容の仔細を語らなかった母を睨んだ。

「慎みなさいリアンシェーヌ。大切な依頼主を侮辱するなんて、許される行為ではありません」

 白々しくアルムスに媚びを売る母に、私は内心舌を巻いた。見上げた姿だが、私がそれに付き合う義理は既にない。

「……そうですか。私は商売人失格のようなので、帰ることにしましょうかね」

 私は立ち上がり、母を一瞥する。するとここまで成り行きを観察していたアルムスが、軽くため息を吐いた。

「リアンシェーヌ嬢は、奴隷を働かせる行為が気に食わないのか?それとも、女が男のために働くことが気に食わないのか?」

「その両方です。どちらも倫理に反しています」

 迷うことなく断言した。

 聖職者としては、アルムスの商売は到底許容できない。奴隷には自由を与えるべきであるし、娼館も理性ある人間には不要なものだ。

「では君は、自らの領地で使われる奴隷をどうしているのだ。エヴァインは国内で最も多くの奴隷を抱え込んでいると私は記憶しているが」

 アルムスが片方の眉毛を上げた。私は彼の言葉に、一瞬動揺する。

「ろ、労働力としての奴隷と、性交渉のためのそれは話が違います。生きるために必要ではありません」

「いいや同じだ。エヴァインの農地でも、嗜好品の栽培はしているだろう。そもそも、人は生きるためだけに食うわけではないしな」

「私は……」

 息が詰まった。自分は間違っていないと、そう思っているのに言い返せなかった。

「もういいでしょう、リア。いつものように、人助けのつもりでやればいいじゃない。ここで帰ったら、あの子達は病気のまま死んでしまうかもしれないわ」

 呆れた様子で母が呟いた。

 まるで人質を取るかのような言い草だった。

「……わかりました。ですが、引き受けるのは今日だけです」

「そうか。それはよかった」

 長い沈黙のあと、私は座り直す。不快で、情けなくて、私は誰の顔も見れなかった。

「そこの一番前の子、上着を脱いでここに座りなさい」

 母が言うと、一人の奴隷がこちらにやってくる。俯いた地面の中に、白い素足が侵入してくる。

 やると言ったからには、やらないといけない。私は頭を上げて、初めて彼女の顔を目に入れる。

 前髪で隠れた黒い瞳に、華奢な四肢。しかし纏う白布には、彼女のボディラインが薄っすらと浮かんでいた。

「……あなた、もしかして」

 見惚れてしまったのは、彼女の美しさだけが理由ではない。

 ───私は、この少女を知っている。

「早くしろ、ソリア」

 一向に脱ごうとしない少女にしびれを切らし、アルムスが強い語気で言った。

 一言も発さず、表情一つ変えず、少女は着ていた布をぱっと手放す。その肌には傷一つなかったが、それ故に、胸元の赤いタトゥーが私の目を引いた。

「……ソリアっていうんですか?」

 返答はない。少女はこくりと頷くだけ頷いて、俯いたまま跪く。その肩は若干震えていて、胸が痛くなる。

 その、小動物みたいな可愛らしさは、ひどく私の同情を誘った。目の前で小さくなった彼女の身体から、私は目を離せなかった。

「怖がらないで。私は、貴方を傷つけたりなんてしませんから」

 ソリアと目線の高さを合わせて、手を握る。すると自然と彼女の黒い瞳は私の姿を映した。

 見覚えのある、冷たい表情。

『それで救われるのは、私ではありませんよ』

 ロランの記憶で見た、彼女の言葉。

 それがどうしてか頭の中で響いて……

『検診術式───展開』

 自分なら彼女を救えると、記憶を否定した。





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