第9話 すみれ色の小箱

娘は「さよなら」を言いたくなくて、ただ馬を走らせていた。

着ていたドレスの裾はとうに破れ、結いあげた髪は乱れている。

気ばかり焦るが、それでも風は妙に心地いい。

肩から下げた不似合いな皮の鞄の中には、すみれ色の小箱が一つ入っていた。


月明かりだけが頼りの海沿いの道で、ひたすら馬を走らせた。

途中の井戸で馬に水を飲ませたが、あとはただ走り続けた。


朝方にたどり着いたのは小さな教会、門の前には祝福の人々。

その中心に彼女がいた。


「おめでとう」

それだけ言うと、娘は花嫁にすみれ色の小箱を渡した。


中にはアメジストで作られたチェスの駒が一つ入っていた。

二人が子どものときから、一緒に遊んでいたものだ。


花嫁は涙を流した。

娘は良家のお嬢様で、乳姉妹の自分を侍女にと望んでくれていたのだ。

けれどそれを断って、愛しい人との結婚を選んだ。


そのとき

「顔も見たくない」

と言い放ったお嬢様が、今自分のためにこうして駆けつけてくれた。

これ以上の祝福があるだろうか。


教会の鐘が鳴る。

幸せな花嫁と、幸せな友人、それを見守る新郎と、祝いに来た村の人たち。

全てを包み込むように、教会の鐘が鳴っていた。

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