閑話2 淡い思い出

夜の帳が降りたヴァイス商店の二階で、ソフィアは窓辺に立っていた。


「レオン...」


その名を呟くと、昼間の出来事が鮮やかに蘇る。六年ぶりの再会。彼の凛とした姿。そして、これから始まる新たな仕事。全てが現実とは思えないような出来事だった。


窓の外では、街灯の明かりが静かに揺れている。ソフィアは懐かしい記憶の中へと、ゆっくりと沈んでいった。


* * *


「ソフィアさん、このペーパーナイフは?」


十歳の誕生日を迎えたレオンが、銀色に輝く小さな贈り物を手に取る。華やかな誕生日パーティの最中、二人きりになれた瞬間だった。


「お父さまが言っていたの。商人になったら、たくさんの手紙を開くことになるって」


幼いソフィアは、少し照れくさそうに答えた。


「それで、毎日使ってもらえるものがいいなって...」


レオンは大切そうにペーパーナイフを掲げる。灯りに照らされた刃が、きらりと光を放った。


「ありがとう、大切にするよ」


その笑顔が、ソフィアの心に焼き付いている。


同じパーティで、二人は初めてダンスを踊った。幼い二人は、大人たちの真似をして、ぎこちない動きで舞踏会の床を回る。


「ご両親が喜んでいらっしゃいますわ」


付き添いのメイドが囁いた言葉を、ソフィアは今でも覚えている。確かに、アルフレッドとロバート、二人の父は満足げな表情で見守っていた。


まだ幼かった二人には、その視線の意味までは分からなかった。ただ、互いの手を取り合って踊ることが、とても自然なことのように感じられた。


「ソフィアさん、僕たち、大人になっても一緒にいられるかな」


レオンの無邪気な問いかけに、幼いソフィアは迷わず頷いた。


「うん、きっと」


それが、あんなにも遠い記憶になってしまうとは、誰も想像していなかった。



「新航路開発プロジェクト?」


十二歳になったソフィアは、父の話を興奮気味に聞いていた。


「ああ」


ロバートは誇らしげに答える。


「これが成功すれば、ヴァイス商会は一気に大きく飛躍できるんだ」


「でも、お父さま」


少女は不安そうに尋ねた。


「危険はないの?」


「大丈夫さ」


父は優しく微笑んだ。


「すべての調査は完璧だ。それに」


ロバートは遠くを見るような目をした。


「アルフレッドも、この計画を支持してくれている」


その言葉が、最後の思い出となった。


嵐の知らせが届いたとき、ソフィアは頭が真っ白になり父の死が受け入れられなかった。ただただ母が泣き崩れる姿を呆然と見ていた。


そして、クラウゼン家が全力で支援してくれると聞いたとき、幼心にも感謝の念で胸が一杯になった。


「レオンさまのお父さまが、私たちを助けてくれるの?」


「ええ」


母は涙を拭いながら頷いた。


「アルフレッドさんが、お父様との約束を守ってくださるの」


しかし、その支援が、やがてクラウゼン家自身の没落につながることになるとは。



「もう、レオン様とはお会いできないかもしれません」


使用人から聞かされた言葉に、十三歳のソフィアは打ちのめされた。クラウゼン家の没落。そして、レオンとの別れ。


「私たちのせい...」


幾度となく、そう自分を責めた。父の死。それを支援しようとしたクラウゼン家の没落。全ては自分の家の責任ではないのか。


そして、数年後、レオンが冒険者になったと聞いて、その自責の念は更に深まった。商人として生きていくはずだった彼が、危険な冒険者の道を選んだ。その原因が、自分たちにあるのではないか。


* * *


「私が行きましょう」


昼間、レオンに告げた言葉を思い出す。


窓辺に立ちながら、ソフィアは静かに微笑んだ。六年の時を経て、レオンは確かに変わっていた。感情を押し殺したような話し方。効率を重んじる姿勢。


でも、時折見せる表情の中に、かつての少年の面影を見つけることができた。


「私にも、償うべきものがある」


ソフィアは夜空を見上げた。明日から始まる新しい仕事。廃鉱での管理人として、レオンと共に働く日々。


それは、失われた時を取り戻す機会なのかもしれない。あるいは、新たな絆を紡ぎ出す始まりなのかもしれない。



「ソフィア、まだ起きているの?」


母の声に、ソフィアは我に返った。


「ええ、少し考え事を」


「明日からが楽しみね」


マリアンヌの声には、どこか含み笑いのような響きがあった。


「お母さま」


「なあに?」


「私、きっと」


ソフィアは夜空から視線を戻し、まっすぐに母を見た。


「お父さまの意思を継いでみせます」


その瞳には、かつての令嬢の憂いは影も形もなかった。そこにあったのは、商人としての強い決意の光だった。


マリアンヌは娘の肩を抱いた。


「あなたなら、きっとできるわ」


深夜、ソフィアの部屋の明かりが消えた後も、グレンフォードの夜は静かに更けていった。

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