04:猫が無事でよかった

(ラスベル様は一体どれほどの魔法の使い手なのかしら。機嫌を損ねたら最後、牢屋ごと吹き飛ばされるのでは……いいえ、落ち着きなさい、エレンティーナ。威厳を持って。こういうときこそ堂々を胸を張るの! 公爵令嬢として培った社交術をいまこそ発揮するのよ!)


 エレンティーナは内心で荒れ狂う疑問や動揺の波を隠し、表向きは愛想よく微笑んでみせた。


「なぜ私の名前をご存知なのかはわかりませんが、どうかそのように畏まらないでください。いまの私はただの平民であり、この通り罪人です。大国の伯爵様に敬われるような立場ではありません」

「いいえ。貴女は万人に敬われるべき尊いお方です。猫でさえ貴女を慕っている」

「猫?」

「出てきていいよ、ノルト」

 ラスベルが廊下の暗がりに向かって呼び掛けると、闇をそのまま形にしたような黒猫が飛び出してきた。


「ノルト!」

 思わず駆け寄って、内と外を隔てる錆びの浮いた鉄格子を掴む。


「お前馬鹿だろ! 猫一匹のために王子をぶん殴って国外追放される奴なんて絶対史上初だよ、間違いねー!」


 ノルトは元気に喚いて立ち上がり、鉄格子を前足で掴んだ。

 ボサボサだった体毛は艶やかになり、目ヤニも消えている。ラスベルは丁寧にノルトの世話を焼いたらしい。


「身体は大丈夫なの? ごめんなさい。目の前にいたのに、グリアム様の凶行を止められなくて。まさかグリアム様があんな酷いことをするとは――」

「なんでお前が謝るんだよ。いいよ、蹴られるのは慣れてるし。心配しなくても、もうどこも痛くねえよ。ラスベルが手当てしてくれたんだ」

「そう、良かった……ラスベル様、ノルトを保護してくださってありがとうございます」

 エレンティーナはラスベルに向き直り、深々と頭を下げた。


「どういたしまして。私も黒髪赤目のせいで苦労してきたので、ノルトのことは他人事だと思えなかったのですよ。ところで、少し下がっていただけませんか。牢の鍵を壊します」

 言う通りに下がると、ラスベルは牢の錠前に手をかざした。


「――鉄槌よ・砕け」

 彼の手元に小さな魔法陣が浮かび上がり、派手な音を立てて錠前が吹き飛ぶ。


(音を聞きつけて兵士が飛んでくるのではないかしら)

 ひやひやするエレンティーナの前でラスベルは扉を掴み、引き開けた。


「どうぞこちらに来てください。改めてお願いしたいことがあるのです」

「しかし……」

 エレンティーナは廊下にある階段を見た。

 階段の上では兵士たちが詰めているはずだ。


「見張りの兵士なら眠っています。しばらくは起きませんのでご安心を」

「……わかりました」

 迷ったものの、牢屋の外に出る。


「お願いとはなんでしょう」

 エレンティーナは背筋を伸ばし、身体の前で手を重ねた。

 すると、ラスベルは恭しく床に片膝をついて言った。


「私は王命を受けて聖女を探しておりました。そしてようやく今日、あなたを見つけたのです、エレンティーナ様。どうか私と共にイリスタリアに来てください。イリスタリアはいま危機に瀕しています。聖女の力が必要なのです」

「聖女……?」

 その一言で、昂っていた感情が急激に冷えた。


(……そう。ラスベル様もまた、この見た目と名前で勘違いしてしまった哀れな方々の中の一人だったのね)

 過去に何度も聖女と言われた。

 エレンティーナはその度に否定し、落胆のため息に傷ついてきた。


(もう止めて。お願いだから。私は聖女なんかじゃない。姿形がよく似ているだけの偽者。わかっているのよ)

 ラスベルの期待はエレンティーナの古傷を抉る。

 グリアムやその他大勢の人々から浴びせられた侮蔑や嘲笑がまざまざと蘇り、呼吸さえも苦しい。


「……ラスベル様。残念ですが、私は聖女ではありません」

 エレンティーナは悲しく笑った。


「大聖女と同じ名と近しい容姿を持っていますが、私はまがい物なのです。私はあらゆる人から聖女であることを期待されました。けれど、どんなに頑張っても奇跡を起こすことができませんでした。いままで一度たりとも、です。聖女をお望みなのでしたら、男爵令嬢ビアンカ・レモラをお訪ねください。半月前、学園の中庭に小さな瘴気が生じたとき、瘴気はレモラ男爵令嬢に触れて消えました。私ではなく彼女が本物の聖女です。きっとラスベル様のお力に――」


「エレンティーナ様」

 やんわりと言葉を遮って、ラスベルが言った。


「レモラ男爵令嬢が瘴気を浄化したように見えたとき、貴女はその場に居合わせましたか?」

(どうしてそんなことを聞くの?)

 困惑しながらも、エレンティーナは頷いた。


「……はい。偶然、近くで見ておりました」

「では、話は簡単です。近くにいた貴女がとっさに神力を放ってレモラ男爵令嬢を包み、守ったのですよ。レモラ男爵令嬢が何かしたわけではありません。私はここに来る前に、念のためレモラ男爵令嬢の元へ行きましたが、彼女からは何のオーラも感じませんでした。瘴気を浄化できるはずがありません」

 ラスベルは真摯にエレンティーナを見つめている。


「……ラスベル様は、オーラ? が見えるのですか?」

「はい。自分で言うのもなんですが、私は飛び抜けて優秀な魔法使いなので。他人の魔力や神力の流れがオーラとして見えるのですよ。あなたは実に美しい黄金のオーラを放っています」

 床に片膝をつき、胸を張ってこちらを見つめるラスベルの態度は堂々としたものだ。


 嘘をついているようにはとても見えない。


(……仮に、嘘をついて私を騙したとして。ラスベル様に何の得があるの?)


 エレンティーナ一人を騙すために他国から飛んでくるなど、それこそ労力に似合わぬ馬鹿げた話である。

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