03:やってしまった後で

(やってしまった……)

 誰もが寝静まっているであろう深夜。

 王子に暴行した罪で投獄されたエレンティーナは粗末な寝台で膝を抱え、蹲っていた。


 王宮の半地下にある独房は薄暗く不気味だ。

 おまけに不衛生で黴臭い。


 エレンティーナが生粋の令嬢だったなら、誰が使ったかわからない器に入れられた夕食に手を付けるのにも、お世辞にも清潔とは言い難い布が敷かれた寝台に腰を下ろすのにも、いちいち勇気が必要だっただろう。


 けれど、貧乏育ちのエレンティーナは逞しかった。


 飢えがどれだけ辛いか知っているため夕食は残さず食べ切ったし、寝台に座るのもためらわなかった。


 廊下からネズミが牢内に侵入しようとしてきたときも慌てず騒がず追い返した。


 その冷静な対処に、一部始終を目撃していた見張りの兵士から「あんた本当に令嬢か?」と言われたくらいだ。


 兵士は豪胆なエレンティーナを気に入ったらしく話し相手になってくれた。


 話しているときは気が紛れたが、夜になって静まり返った牢に一人きりにされると、嫌でも物思いに沈んでしまう。


(……私ったら、なんてことをしてしまったのかしら)

 もはやため息しか出ない。


 殴った直後、自己愛傾向が強いグリアムは腫れた頬を押さえて「私の美しい顔がぁぁぁ」と大騒ぎした。


 我に返ったエレンティーナは青ざめ、跪いて許しを乞うたが、もちろん許されるはずもなかった。


 学園から連行される際、グリアムは「お前など死刑だ死刑!」と元気いっぱいに喚いていたが、幸運なことに身分剥奪の上、国外追放で済むそうだ。


(グラシーヌ公爵家にまで累が及ばなくてよかった。面会にも来てもらえないのは悲しいけれど……)

 グラシーヌ公爵家は最後になるであろう娘との面会を拒否した。

 婚約破棄された不出来な娘にもう用はないらしい。未練もだ。


「…………」

 背中に押し当てた石壁の冷たさが骨まで沁みる。


 握ることで心を安定させてくれた胸元の首飾りはもうない。

 収監にあたって質素な白い服に着替えさせられたときに没収されてしまった。


(……いいえ、過去を悔やんでも仕方ないわ! これからのことを考えましょう! たとえ国外追放されようと強く生き抜かなければ! 絶対幸せになるって、おばあちゃんのお墓に誓ったもの!)

 エレンティーナは膝を抱えていた腕を解き、勢いよく頭を上げた。


 月光を集めて紡いだような美しい銀髪が背中に流れ落ちる。


 エレンティーナは立ち上がり、天井近くにある鉄格子が嵌った窓の傍に行って外を見上げた。


 星が輝く空には月が浮かんでいる。


(ノルトは今頃どうしているかしら。グリアム様に蹴られたことで内臓を痛めたりしていないかしら……ああ、想像するのも嫌だわ。走って逃げて行ったときは元気そうに見えたけれど。どうか何事もありませんように……)


 猫の無事を祈っていた、そのときだ。


 地上へ続く階段のほうから、ぎぃ、と扉が開く音が聞こえた。


 兵士が様子見にやってきたのだろうか。

 こつ、こつ、と聞こえる足音に、エレンティーナは違和感を覚えた。


(足音が兵士のものじゃない)

 兵士は全員が同じ靴を履いているため、足音に違いなどないはずなのだ。


(もしかしてお父さまかお母さまが面会に……まさか。深夜なのよ? でも、それでは一体誰が、どんな用事でここにやってくるというの?)


 壁際まで後退して鉄格子に向き直り、怯えながら待つ。


 足音はエレンティーナがいる独房の前で止まった。


 ――彼を見て、エレンティーナは思わず感嘆の息を漏らした。


 窓から差し込むささやかな月明かりに照らされた髪は夜に溶けるような漆黒。

 澄んだ瞳は極上のルビーにも似た、鮮やかな深紅。


 その端正な顔立ちときたら、どうだろう。

 彼の前では美の女神さえ膝を折るのではないのだろうか。


 長身に纏う黒のローブも、上着も脚衣も、全てが彼の魅力を引き立てて余りある仕立ての良い逸品である。


(この美しいお方はどなたなの? 身に着けている物からして、平民ではなさそうだけれど……あら?)

 状況も忘れて彼に見惚れていたエレンティーナは、ローブの襟元で光る徽章に気づいた。


 交差した剣と雄々しく翼を広げる鳥。


 あれはミバークの祖、隣接する大国イリスタリアの紋章だ。


(イリスタリア王国の貴族様、かしら? 何故そんなお方がここに?)


 謎の男性はしばらく無言でエレンティーナを見つめた後、ふと。


 花が綻ぶように、鉄格子の向こうで優しく微笑んだ。


 魅惑の微笑に大きく胸が鳴る。


「初めまして、エレンティーナ様。深夜の無礼な訪問をお許しください。王宮の警備は厳重なため、ここまで辿り着くのに少々時間がかかってしまいました」

 彼は自身の胸に左手を当て、深く頭を下げた。

 低く透き通った、山間を流れる澄んだ水のような声だった。


「私はラスベル・フォンセ・アスター。イリスタリア王国で『魔法伯爵』の爵位を与えられている者です」

「…………?」


 彼が自分の名前を知る理由も、イリスタリアにおける最上級の礼を受ける理由も思い当たらず、エレンティーナの困惑は深まる一方だ。


(『魔法伯爵』は飛び抜けた魔法の才を持つ者に贈られる一代限りの爵位と聞いたわ。国は彼らを独占するため、待遇を保障する代わりに出国を禁止しているはず。ではどうしてラスベル様はこんなところにいらっしゃるの? どうして私に頭を下げるの?)


 そもそも魔法伯爵が実在するとは思わなかった。

 魔法を使える人間は希少だが、大抵は小さな火を起こすとか、手のひらに載るほどの水を生み出すとか、そんな些細な魔法しか使えない。


 イリスタリアに魔法伯爵という特別な爵位があることは知識として知っている。

 でも、それは強力な魔法使いがそこら中にいた昔の話で、とうに廃れた制度だと思っていた。

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