Intermission 2
水岡が驚きながら、神尾に訊ねる。
「え?じゃあ、いま滝岡先生のマンション――――あの、あそこに一緒にいま、神尾先生住んでるんですか?」
当直明け。
勤務四日目の朝。
一度帰宅する前に、医局でぼんやりコーヒーを呑んでいた神尾が、あれ?当直って滝岡先生だけじゃ?と訊かれて、滝岡がカードキーを忘れた為に、神尾が部屋に入れなくなり、ついでに当直になった経緯を話した処。
「あ、はい、―――事務長さんから紹介してもらいまして、是非、と紹介されたんですが、…え?水岡先生?」
「…―――よかったっ、…!これは良いニュースだよ、…!安心したっ、…!」
「え?あの、水岡先生?」
両手を握られて、思わず瞬いて神尾が見返すのに、その両手を振り回して頷いて、水岡が云う。
「うんうん、…よかった。滝岡先生、あの女に騙されて、マンション買っちゃってさ、―――…。その後、意地を張って一人暮らしって、心配してたんだよ!――――事務長、流石っ、…!」
「…え、はい、その、…事務長、流石なんですか?…意地を張って一人暮らし、…?」
驚きながら見返して神尾が思うのは、つまり、滝岡が一人暮らし――――確か、婚約者に黙ってマンションを買って婚約破棄されたらしいという、事務長から聞いた経緯だが。
此処に至った経緯を思い返す。
僕がこの病院に一年限定で出向することが決まって、それで住む処をどうしましょうか、という話になったときに、確か。
―――確か、それで空いてるから、と、…。事務長が随分積極的に僕に滝岡先生の処に同居させてもらうように、押してきたんですよね、…。
あれはしかし、ええと、つまり?と。
臨時で感染研から感染症専門医の神尾が、事情があって一年この滝岡総合病院に出向という形で勤務することとなり、いまはまだポジションを決める前の期間で、勤務が始まってようやく四日目―――になるのだが。
「あの、それに、騙されたって、…?」
「あ、そこまできいてない?事務長から」
水岡が両手をまだシェイクした形のままいうのに。
真面目にうなずいて。
「はい。そんな感じはしてましたが、…。何ていうか、もしかして、単身でマンションに住んでいるのを心配されて、僕を入れたのかな、とは――――」
「うん!そうなんだって、…!」
途端に、水岡が思い切り強く手を握って来るのに瞬く。
「あ、…あの、水岡先生、手、…あの、強いです、から、…」
「そうなんだよー!心配してたんだって、…!滝岡先生、騙されやすくてさ、それまでの家なら、まだ家政婦さんいらっしゃるから、何とかなっても、マンションじゃさー、…皆、心配してたんだ」
「…おい、放してやれ、水岡先生、痛がってるぞ」
突然、入って来た滝岡が後ろから掛ける声に、慌てて水岡が手を放す。
「――――…た、たきおかせんせい、あ、はい、神尾先生、ごめん、」
「…結構、力強いですね、水岡先生、…――」
ようやく手を放してくれた水岡に、神尾が両手をさすりながらいう。
「本当―に、ごめん、…神尾先生、大丈夫?」
「すまんな、神尾。処で、帰る前にメシ食うか?」
「あ、はい、…――――、患者さん、どうでした?」
「大丈夫だ。後は任せられる。一度、戻らんとな。それに、―――とにかく、食堂で話そう」
何か言いたげな水岡の視線に、眉を僅かに寄せて、滝岡が神尾の肩に手を廻していう。
水岡が何か妙にうれしそうなのに、神尾が何かいいかけるのに。
「いいから、行こう」
「…――――滝岡先生?」
朝御飯を食べるべく、滝岡が神尾を連れて、急ぎ足で医局を出て行く背に。
「あ、西野くんっ、…―――!知ってた?滝岡先生の処、神尾先生が転がり込んでるんだって、…!事務長手配、グッジョブ!」
滝岡の秘書であり、病院全体のコンピュータを管理している西野を見つけて、水岡が目を輝かせていうのに。
西野がそれに何か答える声が、―――――。
足早に医局から遠ざかる滝岡に、思わずおかしくなって神尾が訊ねる。
「つまり、僕は滝岡先生の女避けとして、…―――期待されてる訳ですか?事務長にも、水岡先生達にも?」
「…―――別に騙された訳じゃ、…―――いや、まあ、その、見解の相違だからいいんだけどな?」
「そんなに騙されやすいんですか?女性に?一人暮らしになったら、―――誰かに騙されて、部屋に入り込まれないか心配されて、僕は事務長に滝岡先生の処を勧められた訳ですね?」
楽し気に訊く神尾に、苦虫を噛み潰したような顔で大股で歩きながら。
「いや、…だから、大袈裟なんだよ、しかも、…。―――いいだろ、おまえは、それで住む部屋が決まった訳だから!」
「いいですよ?それは。僕としては、大変助かりますからね。病院にも近いですし、一年限定の住処なんて、結構探すの面倒ですしね」
穏やかに微笑んで、のんびり歩きながらいう神尾に、歩く速度を落として、滝岡がポケットに手を突っ込んで難しい顔で呟く。
「いや、…それに、つまり」
「つまり?何です?」
「…―――一人暮らしが、」
「え?」
背を向けて、食堂の扉を潜りながら滝岡が早口で。
「…おれが、一人暮らしするのが初めてだから、…――――よってたかって、周りが心配してるんだよ、――――…くそっ、」
小さく早口でいって白衣で風を切るようにして歩いていくのに。
「…――――――」
ええと、それは、…、と。
思わず少し驚いて、神尾がのんびりと食堂に入ると。
機嫌悪く眉を寄せて、片手に湯呑みをもって窓の外を眺めている滝岡を見つけて、神尾が微笑んで話し掛ける。
「…何食べるんです?御茶だけもって」
「…――先に席取りだ」
通路側の席に足を広げて座って、不機嫌そうに窓の外を眺めていうのに、視線を外へ向けて。
ふと、白い光に。滝岡の眺める先に気付いて、微笑んでいた。
「ああ、…――良い景色ですね」
白い雲がなびく空は、まだ明け始めの紫を名残にして、薄闇を底に沈めて、白く蒼く光が世界を制し始めている。
続く屋根の上に白く日が射し染めている。街の底が蒼く沈む明け切る前の夜の底を照らしていく日を眺め、神尾が座りながらいう。
「提案があります。今週中に、僕のポジションを決めるというお話だったかと思うんですが、…――」
「ああ、…神尾?」
視線を振り向ける滝岡に、うなずく。
「原因となる菌やウイルスの全数検査を、すべての患者さんに対して、やってみたいんです」
「神尾」
滝岡が視線を神尾に向ける。
白く底を照らす光が、夜さえ白く染めて、いまはもう眩しい朝日に染まる世界にすべてを変えるのを背に。
神尾が、微かに微笑んで語るのを。
滝岡が、静かに聴く。
「大変無茶だと思われるかと思いますが、…―――風邪と類似した訴えで受診した患者さん総てから、検体を採取して、原因となる菌やウイルスの同定をしてみたいんです。感染研からも協力を貰って、―――」
「全数か」
「はい、全数です」
滝岡が端的にいうのに、神尾も短く答える。
「…―――風邪で受診した患者さんの中には、ご存知の通り、多くの種類の原因が潜んでいます。原因となるウイルスは、シーズンにより流行の中心となるウイルスがあることは、ある程度の研究で知られていますが、同じ病院、それも総合病院のレベルでの全数検査が行われたことは、これまで無いはずです。一年を通して調べることにより、そして、全数検査を行うことにより、これまで類推でしかなかった、実際にどのようなウイルスが原因となって、風邪といわれる症状を引き起こしているのかが解ると思います。それに、」
言葉を切る神尾に、滝岡が僅かに笑みを浮かべてみる。
「それに、いままで風邪と云われていた中に、…―――見逃しているウイルスが無いか、…―――。あるいは、実際にはより重篤な症状を引き起こす可能性のある原因が潜んでいるのではないか、とかいうことについてか」
に、と笑む滝岡に神尾が微笑む。
「そうです。…実際、本当にそんな暇は無いと思うんです。普通に診療していれば、風邪の患者さんはとんでもない人数いらっしゃいますから、それを一々調べていては」
「それに、実際に臨床では、治ればそれでいいからな。風邪の原因ウイルスを調べたりは、一々しない。…症状が緩和されればいいんだ」
「その通りです。ですが、…――。例えば、これから海外からの感染症が流行地から入って来る場合などを考えたとき、単純に風邪として診断してしまっているケースの中に、危険な感染症が、実際にはどれだけあるかについて調べておきたいんです。見逃しがどれほどあるか。それに、…実際には単純に処理されている中に、未知のというのは云い過ぎですが、――――」
「例のマダニウイルスみたいに、…見逃されていたウイルスがあったり、か」
「特に重症化する例では有り得ます。…――――それに、原因菌を特定していくことにより、いまは風邪という症状に対して対症療法としての薬しかありませんが、…――将来的には、本当にそれぞれのウイルスに対する薬を開発する為の基礎データにすることができるかもしれません」
神尾の言葉に滝岡が真直ぐに見詰める。
「実際には、ウイルスの変異を誘発しない為や、何より費用の面で、そういう開発は行われないかもしれないが」
楽しそうに笑むと、席を立っていう滝岡に後ろを振り向く。
「ああ、食事、できる時間ですか」
「そうだ。…その話は、食いながらしよう。朝定食は、麦飯がある。うまいぞ」
「それはいいですね。ああ、…おいしそうだ。焼海苔もありますね」
「だろ?…――これうまいぞ?」
滝岡の勧める焼き魚を取り、味噌汁にかぶらの浅漬けに納豆をとって、神尾が滝岡の後に戻る。
席に着いて、実にうまそうに滝岡が麦飯を食いながら。
「うまいな、…――――うん、二千万」
「この御飯がですか?」
驚いていう神尾に、箸にすぐきの漬け物をとって。
「うまいな、本当に。これ、すぐきだぞ?食うか?」
「え、そうなんですか?」
「ああ、ほら、食うか?」
「はい」
箸渡しで滝岡がすぐきの漬け物をつまんで寄越すのに、箸で受取って。
そこに、あきれている声が掛かった。
「…―――行儀悪いぞ、滝岡。箸渡しはするな、とあれほどいってるだろうが」
機嫌の悪い低い声が、高い場所から聞こえてくるのに。
振り仰いで、神尾が驚いてみる。
苦い顔で滝岡をみている、長身の痩せた黒いスーツを来た強面の男が立っているのに。
「ええと、…。こちらは?」
驚いて見上げる神尾に滝岡が振り向いて。
「…関!何しに来た!サボってる検診か?それなら、いますぐ人間ドックに叩き込んでやる。前日絶食はしたか?今朝は何時に、―――」
「うるさい。検診じゃない。こいつの付添いだ。まだ通院しろといわれてるのに、すぐに脱走するそうなんでな。連れて来るよう頼まれてな。…おい、鷹城、逃げるな」
関と呼ばれた長身の男に手を伸ばして襟首を掴まれて。
鷹城が、にっこりと笑んで逃げようとしながら関に抗議する。
「――――…ああと、おはよう?…逃げないって、関」
美形のすんなりとした容貌で、青味の強いダークブルーのおしゃれなスーツに、何かおしゃれだなあ、と神尾がのんびり思うシャツに綺麗に磨かれた靴が捉まえている関と対照的な鷹城が、にこやかに笑顔を作っていうのに。
強面にさらに眉をよせて眇めた視線でみて、関が信用してない声でいう。
「じゃあ、いま何処へ行こうとしていた。…おまえな、…―――。滝岡、おまえからもいってくれ。このばか、すぐに逃げ出して、」
「テーピングしてらっしゃるんですか?足を?」
神尾が、関に襟首をつかまれて抗議している鷹城の右足首に屈み込んでいうのに、滝岡が応える。
「ああ、そうだ。よく気付いたな」
それに、しげしげと神尾が鷹城の足をつかんで。
綺麗に磨かれたオックスフォードスタイルの靴と菱形の模様がおしゃれな靴下よりも、それが隠していたテーピング―――運動選手が怪我の予防にしたり、あるいは捻挫等の怪我の後に、歩行を援けて、足に負担をかけないように、補助的に行うことがある――――の様子に、興味があるのか、神尾が靴を脱がせて、靴下を脱がせかけているのに。
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