第1話.真珠の指輪




 白い手袋を嵌めた指先で、ひと粒の真珠があしらわれた金の指輪をつまみ上げ、角度を変えながらじっくりと観察をする。


 乳白色の中に淡い虹色のような美しい照りが広がり、白銀のような色合いを楽しませてくれるのが魅力的だった。粒感も程よく、小粒すぎず大粒過ぎないサイズも良い。


 全体のシルエットはすっきりと整えられていて、中央にかけてゆるやかに曲線を走らせ、花弁のガクのようなデザインで真珠を受け止めている。まるで真珠が花の蕾のように見立てられているのも製作者の遊び心が感じられて、ハリエットはほう、とため息をついた。


 両側にそっとあしらわれている極小のダイヤモンドの輝きは言うまでもなく、小さな煌めきがまるで夜露を受けて零れて光る花の雫のような印象を受ける。


「なんて美しい指輪なのかしら」


 リングのサイズはやや大きめで、年配のご婦人の年輪を帯びた指に嵌まれば上品な存在感を醸し出してくれるのは言うまでもないだろう。


 大粒のエメラルドやサファイアも華やかでよいが、このひと粒真珠のシンプルな指輪の方がきっと上品に寄り添う。そう断言できるほど洗練された美しいひと品だった。


 ハリエットは先ほど店を出て行った客のことをふと思い浮かた。


(真珠はあまり高くは買い取れない、と言った時の表情ときたら)


 この世の終わりか、もしくは絶望か。


 よほど切羽詰まっていたのだろう。


 希望の値段での買取はできなかったものの、それでも少しばかり安堵した表情をふと思い出す。手元の紙には、男性の身分証から書き写した個人情報と指輪の特徴や重さ、買取の金額と日付、男性のサインとマルグレーン骨董店の印章、そしてハリエットのサインが記されている。


(本当に買い取ってよかったのかしら)


 大切なものをどうしても手放さなければならない場合はあるが、それだけが理由ではないような気がして、ハリエットはもう一度指輪に視線を戻した。


 滑らかに、柔らかく。


 ただ静かに輝くこの指輪は、これまでどんな人の手に渡り、どんな想いを乗せてきたのだろうか、と思考を巡らせはじめ、――やめた。


 考えても埒がないことだと、首を横に振る。


 ハリエットは、ガラスの蓋付きの黒いビロード張りのケースに指輪をそっと収め、蓋を閉じて鍵をかけた。ポケットから取り出した真鍮製のチェーンに通された複数の鍵の中から、小指ほどの長さの鍵を選び取ると、その場にしゃがみ込む。


 カウンターの下、客からは見えない位置に貴金属専用の小さな金庫が作りつけられている隠し扉がある。木の扉を開けると、黒塗りのダイヤル式金庫が顔を出す。


 ハリエットは鍵穴に鍵を差し込み、円筒形のダイヤルを規定の回数だけ右へ、次に左へと回した。そのあと鍵を回すと、カチンという音がして扉がわずかに浮く。


 三段ほどの小さな金庫の一番上には書類、真ん中には小さな箱が四つほど入れられ、一番下に二つほどケースが重ねられている。


 ハリエットは真珠の指輪を収めたばかりのケースを一番下の棚に丁寧に重ねて置き、金庫の扉を閉めた。


 念のためダイヤルを適当に回して乱し、取っ手を引いて再び開かないことを確認する。


「これで、よし」


 木の扉を閉めて立ち上がると、ハリエットは満足そうにうなずいた。


 それから、背後にある六角形の時計に目を向けた。


 時刻はもうすぐ18時。


 店じまいの時間だし、父が兄と共に帰ってくるはずなのだが―――。


 カランコロン、という音と共に冷たい風が頬を走った。


 唐突な冷気にぶるりと身を震わせて振り返れば、たった今入店してきたと思しき男性が、迷うような表情で入口に立っていた。


(わぁ。すごく)


 ――綺麗な人。


 男性に綺麗というのは失礼かもしれないが、「綺麗」以上の言葉が思い浮かばないほど、整った容貌の持ち主だった。


 陽の光を受けたような明るい金髪が、やや乱れた状態で額にかかり、やわらかく揺れている。遠目からでも印象的な面立ちに浮かぶ瞳の色は青だろうか、それとも緑だろうか。二色を複雑に織り交ぜて、一番美しい部分だけを掬い取ったかのような瞳が宝石のようにまっすぐこちらに向けられていた。


 彼の頭にはグレーの中折れ帽フェドラハットが乗せられていたが、店に入ると同時に片手でそれを丁寧に外し、左手に軽く抱えている。


(いいところのお坊ちゃまかしら?)


 彼はキャメル色のツイードジャケットの上に、濃いチャコールグレーのウールコートを羽織っていた。ダブルブレスト仕様のそのコートは肩のラインがきちんと立ち、彼の長身を一層際立たせている。ネクタイはしておらず、襟元の第一ボタンをラフに外していた。


 足元にはブラウンのオックスフォードシューズが艶やかに光っている。


(上品な身なりだけど、このあたりじゃ珍しい組み合わせね。外国の人かしら?)


 ハリエットの住むオルデンという国では、カチッとした「紳士」らしい服装が好まれる。ジャケットとスラックスを同色系でまとめるのは当たり前だし、ネクタイはせずとも、真摯ならば第一ボタンまでしっかり留めるのが基本だ。


 じっと観察しているのも失礼だろう。


 閉店時間だが、せっかく来店したお客様だ。


 ハリエットは母の忠告を念頭に、にこやかに微笑みかけながらゆっくり立ち上がって声をかける。


「いらっしゃいませ」


 カウンターに手を滑らせながら動き出すと、入り口近くの大きな姿見を眺めていた男性がハッと視線を向けた。


「何かお探しですか?」


 ハリエットは一歩前に出ると、彼が何か言い出すのを待った。


 金髪の青年が少し戸惑ったような表情でこちらを見つめる。


 ハリエットはできるだけ警戒されないよう、営業用の笑顔で優しく歩み寄った。

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