第5話 呼び方

アレクシスが来る前に少し落ち着いておこうと、ルーは深呼吸をして資料室の扉を開く。


「ルー、疲れただろう?こっちに座って。飲み物は何がいいかな?一通り揃えてあるからルーの気に入るものがあればいいのだけれど」


既にアレクシスが到着していたことにも驚いたが、それよりも衝撃的だったのはその室内に対してだ。

本棚が立ち並び、閉塞感さえ覚える薄暗いひっそりとした空間は、今や煌々と明かりが灯り本棚があった場所にはソファーとテーブルが用意されている。


「……資料室内は飲食厳禁だったはずです」


落ち着く間もなく驚き過ぎて的外れな言葉が漏れた。最早そういうことではないのでは、と自分でも思ったもののアレクシスは悠然とした口調で答える。


「資料室そのものを買い取ったから気にしなくていいよ。お菓子も用意したから好きな物を食べてね」


中央図書館は王立なので国の所有物であったはずだが、そんなに簡単に買い取れるものなのだろうか。

そんな疑問を覚えたが、アレクシスが嘘を吐いているように見えなかった。ルーが知らないだけでよくあることなのかもしれない。


そう自分を納得させて、ルーはようやく席に着いた。


「飲み物は結構です。その、お話とは昨日の件でしょうか?」

「うん。それもあるけれど本当はただ会いたかっただけなんだ。ルーの顔が見たくてどうしようもなかった」


眩しい物を見るかのように目を細めて、喜悦の表情を浮かべるアレクシスにルーはどうしていいか分からず目を逸らす。

警戒を知らせるように早くなった鼓動が苦しくて、逃げ出したくてたまらない。


「昨日は、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。掛かった費用は将来必ずお返しします。だから……もう、関わらないでください」


何とか言いたいことを言い終えたルーは頭を下げたままアレクシスの言葉を待つ。いくらアレクシスが優しくても人族より上位の存在である獣族の意向に逆らうなど非礼を理由に罰せられても仕方がない。

機嫌を損ねてしまう恐ろしさはあったが、それよりも番認定されてしまうほうがルーにとっては問題だった。


「君の願いは何でも叶えてあげたいけれど、それだけは聞いてあげられないよ。ルーは私のどんな部分が嫌いなのかな?ルーの言うとおりに直すからどうか私に挽回する機会を与えて欲しい」

「――なっ……何をして?!……お止めください!私のような者に膝を付くなど、そんなこと……」


ルーの前に跪いて頭を下げようとするアレクシスにルーは慌てて立ち上がった。

その種族や爵位にもよるが、通常獣族の爵位と人族の爵位は同列ではなく、時に男爵位であっても人族の公爵位よりも家格が高いということもあり得るのだ。

男爵令嬢に過ぎないルーにとって、獣族であるアレクシスのほうが遥かに上位であることは間違いない。


「ルーは私にとって唯一の存在なのだから、相応の敬意を払うのは当然だよ。ルーも私にそんな畏まった口調を使う必要はないからね。むしろルーを望む私のほうが口調を改めたるべきだろう」


最後のセリフを独り言のように呟いて、アレクシスは跪いたまま立ちすくむルーの手を取った。


「ルー様、とお呼びしても?」

「お、お戯れを……。どうか、どうかお許しください」


狼狽しながらも、ルーは自分がアレクシスを見下ろすような恰好になっていることにようやく気付いた。土下座して謝罪すべきだろうと床に座り込もうとすると、身体がふわりと浮く。


「床は冷たいし汚れてしまいますから。ルー様はこちらにお掛けください」

「あ、アレクシス様!お願いですから、その話し方を止めてください」


居たたまれなくなって叫ぶと、アレクシスは何故か嬉しそうに微笑んでいる。


「アレクと呼んでくださるのなら、私もルーと呼びましょう」

「……アレク様」

「はい、ルー様」

「………………アレク」

「ルー、ありがとう。とても嬉しい」


きらきらと輝く瞳はどこか無垢さを感じさせるほどあどけなくて、また胸がぎゅっとなる。だけどルーはそんなアレクシスから目が離せなかった。


「アレク……番となったら何をしなくてはいけないのでしょうか?」


妹のメリナは番だが、わざわざルーに番について説明することはなかったし、クルトが苦手でなるべく関わらないように避けていた。アレクシスがこれほどまでにルーに関わろうとするのであれば、番が必要な理由でもあるのではないかと考えたのだ。


「何もしなくていいよ。ただ私に愛されていればいい。ほら、口を開けて」


綺麗な指が焼菓子をつまんでルーの口元に差し出される。親密な行為に恥じらうよりも困惑のほうが強い。


「これはルーが敬語を使った罰だから食べなければ駄目だよ。気軽に話せるようになったら、好きな物を食べさせてあげよう」


どちらにしても食べさせられることには変わりないのだと分かって、ルーは小さく口を開く。

一口大のクッキーは軽い食感で、口の中であっという間に消えてしまった。甘いお菓子なんていつ以来だろうか。


「ルー、美味しい?こっちも食べてみようか」


2枚ほど立て続けに食べさせられて、ルーはようやく我に返った。あまりの美味しさに言われるままに口にしていたが、そんなことのために来たわけじゃない。


「アレク、ごめんなさい。私やっぱり番になんてなれません。もっとあなたに相応しい素敵な方が――」

「ルー、番は唯一で私の番はルーだけだよ。ルーは私のどこが嫌?……それとも、他に想う相手でもいるの?」


恐る恐る問いかけられた声に顔を上げると、アレクシスが縋るような眼差しで見つめている。

アレクシスに不満などない。

ただ特別になんてなりたくないだけ。私にはそんな資格などないのだから。


「ごめんなさい。番になりたくないの。だから……ごめんなさい」


謝罪を繰り返すばかりのルーをアレクシスは責めることなく、耳を傾けている。


「ルー、私のことが嫌ではないのなら、ルーが番になりたくない理由を教えて。番になることでルーが困ったことになるなら、私が必ず何とかしてあげるから」


子供を諭すような優しい口調に何故か泣きたくなる。それでも何も言えずにいると、キュイという不思議な音が聞こえた。膝に何かが当たる感触に視線を下げれば、小さな緋色の竜がルーの膝に顎を載せている。


(……可愛い!)


竜は希少な生き物で生息地以外の場所で見かけることはほとんどない。そんな竜はルーに見られていることに気づくと、こてんと首を傾げるようにしてキュッと鳴いた。


「フィン、ルーが許可していないのに勝手に触れては駄目だろう?」

「いえ、大丈夫です。フィンっていう名前なの?撫でてもいい?」


そう言うとフィンはルーが手を伸ばす前に自ら頭を擦りつけてくる。人の言葉が分かるようだが、賢さよりもその仕草が愛らしくてルーは状況を忘れてフィンを見つめていた。


「すぐに答えを出さなくていいからフィンを連れて帰って欲しい。小竜だが護衛として役に立つからね。側にいられないならせめてこのぐらいは許してくれないかな?」


アレクシスの言葉に賛同するように、フィンはルーの膝に飛び乗り離れようとしない。双方からじっと見つめられたルーは、結局フィンを預かることを了承してしまったのだった。

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