第3話 噛み合わない会話

ようやく涙が落ち着いた頃、控えめな声が掛かった。


「アレクシス様、よろしければお嬢様のお世話はこのテレサにお任せいただけませんか?」


おっとりとした口調でそう告げたのは40代くらいの女性で、ルーと目が合うと安心させるようににっこりと微笑んだ。


「……任せてもよいが、私も付き添おう。ルーと離れたくない」


ルーを置き去りにして話を進める二人に、ルーは慌てて口を挟む。


「あ……あの、私帰らないと。ジャムも……」


言いかけてもう買い物どころではないことに気づく。あれからどれくらい時間が経ったか分からないが、流石にもう何処のお店も開いていないだろう。

朝食が食べられないのはもう仕方がないとして、一刻も早く帰らなければいけない。


「ええ、もちろんお家までお送りいたしますので、ご安心くださいませ。その前にお怪我の手当てをなさいませんとご家族が心配されますわ。お嬢様の御召し物も準備できましたのでどうぞこちらへ」


そう言われて身体のあちこちにピリピリとした痛みが走ることに気づく。先ほどまで興奮状態だったせいで痛みを感じにくくなっていたのだろう。テレサが案じるような表情を浮かべていたことから、きっと酷い見た目になっているに違いない。

それでも邸内へ足を踏み入れることが躊躇われた。


(親切な人達だと思うけど、私には親切にされる理由がないもの)


帰りたいだけなのに上手くいかない。自分が過剰に警戒しているだけだと思おうとしても、帰れなくなるかもしれないという不安は消えず、このまま逃げ出してしまいたくなる。


「ルー?ああ、足が痛むのかな?気がつかなくて済まなかったね」


足を止めてしまったルーを、アレクシスは躊躇いもなく抱きかかえてすたすたと歩き出す。重さを感じてないかのように軽々と持ち上げられ、ルーは驚きのあまり反応が遅れてしまった。


「お、下ろしてください!大丈夫です、自分で歩けます!」

「大丈夫。何があってもルーを落としたりしないよ」


穏やかな微笑みの中に、どこか得意げな色が混じっているように見えるのは気のせいだろうか。

落とされる心配などしていないし、むしろ土や木くずなどで汚れている自分なんか放り出して欲しいと心から思う。

至高の芸術品を汚してしまっているような背徳感がある。


(嫌だな……)


アレクシスが本当に悪い人なら、こんな風に気遣ったりしないだろう。医者を呼び食事を与えたにもかかわらず、礼も言わずに逃げ出そうとした。そのあげく余計な怪我を増やして迷惑をかけたのに、嫌な顔ひとつしない。

それなのにルーは疑うことを止められず、失礼な態度を取り続けているのだ。


愚かで役立たずのルーのことなど気に掛ける価値などないのに。

申し訳なさを感じつつも、拒絶したい気持ちを抑えられない自分はとても醜い。

暗い感情に呑み込まれそうになって、ルーは唇を噛んで思考を逸らした。


再び現れた医者は少し驚いたような顔をしたものの、あっという間に手当てをしてくれた。元の服に着替えると何だか妙に安心した。もう帰っていいだろうかとアレクシスを見ると、彼は少し困ったように眉を下げながらも微笑んで言った。


「ルーはどのような屋敷に住みたいのかな?用意するまで少し時間が掛かってしまうけれど、ルーの望むとおりにするからね」


(……何の、話……?)


ずっと感じていた小さな違和感が急激に膨らんでいく。戸惑うルーをアレクシスはじっと見つめながら笑みを深めている。出会ってからずっとアレクシスとルーの間で交わされる会話はどこか噛み合っていないのだ。

そう気づいてしまえば、得体のしれない恐怖にぞくりとする。


「……お世話に、なりました。もう帰ります」

「帰る……何処に?」


ルーの言葉にアレクシスは不思議そうに小さく首を傾げる。その自然な仕草は、自分が間違ったことを言ってしまったのかと錯覚してしまいそうなほどだ。

そんなルーに助け舟を出すようにテレサがおずおずと声を掛けた。


「アレクシス様、お嬢様が戸惑っていらっしゃるようですが、ご説明はお済みではないのでしょうか?」


ルーが首を横に振るのとアレクシスが頷いたのは同時だった。思わず顔を見合わせるとアレクシスが少し思案するように視線を宙に向ける。


「うん、馬車に乗せる前に伝えたつもりだったけれど、ルーには聞こえていなかったようだね」

「まあ……。それではお嬢様がご不安に思われるのも無理はございませんわ。妙齢の女性が突然見知らぬ場所に連れて来られていたら、拐かされたと思われても仕方がありませんよ」


テレサの声に呆れたような色が混じり、ルーは内心を言い当てられたことにどきりとしたが、すぐに羞恥のため俯いた。他人の口からきくとそれがどれだけ荒唐無稽なことだったか分かる。

こんな豪華な屋敷を持つ人がルーを攫ったところで何の益もないのだ。


それなのに何故か嫌な予感は消えるどころか、ますます強くなっていく。柔らかな微笑みを湛えるアレクシスに不穏なものを感じてしまい、ルーは僅かに後退る。


「ルー、君は私の番なんだ。だから――」

「そんなの、嘘……」


零れ落ちた言葉は何かを言いかけたアレクシスを遮る形になってしまったが、ルーはそれどころではなかった。

そんなことは絶対にあってはならないことなのだから。

ルーの呟きを困惑だと思ったのか、アレクシスは諭すように優しく声を掛ける。


「嘘ではないよ。人は番を認識できないけれど、私たちは本能で感知することが出来る。だからルーは間違いなく私の番なんだ」

「っ、嫌!私じゃない!そんなの何かの間違いで、私は絶対に番なんかじゃないから!!」


絶叫しその場に蹲ったルーは、その時アレクシスがどんな表情を浮かべていたのか知ることはなかった。

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