第2話 不思議な感覚
目を覚ますと高い天井と豪奢なシャンデリアが見えた。ぼんやりと記憶を辿っていたルーだが、男に助けられたことを思い出して慌てて飛び起きる。
「ああ、駄目だよ。まだ安静にしていないと」
気遣わしげな声に、室内を見渡すと少し離れたソファーに件の男が座っていた。ベッドから下りようとするルーを手で制し、自然な仕草でベッドの横にある椅子に腰を下ろす。
「気分はどうかな?顔色は先ほどよりも良くなったけれど、念のためもう一度医者に診てもらおう」
ルーの様子を見ながら掛けられた一言に、思わず顔を顰めてしまった。もう一度、ということは既に医者に診てもらったということだ。
男が善意で手配してくれたのだと分かっている。だが支払う当てもないルーは困ったことになったと思いながらも事情を打ち明けることにした。
「もう、平気です。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。……大変申し上げにくいのですが……持ち合わせがなく……。あの、時間が掛かっても必ずお支払いしますから」
「そんなもの要らないよ?君の身体は何よりも大切なのだから。少し待っていてね」
男の言葉がすぐに理解できずに呆然とするルーをよそに、男はベッド横のテーブルにあるベルを鳴らす。
「私はアレクシス。君の名前は?」
「……ルー、です」
失礼かもしれないと思ったが、相手は家名を名乗らなかったのだから自分も名前だけで良いだろう。甘えるわけにはいかないと思ったものの、下手に家名を告げて両親の耳に入れば何を言われることか。
アレクシスは要らないと言ったが、ここは治療院ではないのだ。医者を呼び出して診察を受ければ倍近い金額が掛かるはずなので、考えるだけで頭が痛い。
「ルー……名前も可愛い。私のことはアレクと呼んで」
金策を考えていたルーの耳に何か変な言葉が聞こえたような気がしたが、続いたノックの音に気を取られて流してしまった。医者の診療を断るため何度も大丈夫だと告げたものの、ルーの主張はやんわりと聞き流され、結局は診察を受ける羽目になってしまった。
痛くないからね、とアレクシスから駄々を捏ねる子供のように扱われれば大人しくせざるを得なかったのだ。
疲労と軽い栄養失調だと診断され、医者が立ち去ると同時に今度は食欲をそそる香りのお粥が現れる。
丁寧に出汁を取っているのか透き通ったスープに柔らく煮えたお米、小さく切った鶏肉が添えられている。
何処かに行ってしまっていた筈の空腹が戻ってきたが、少しずつ積もっていく違和感にそれどころではないのだと自分に言い聞かせる。
「好みが分からなかったから胃に優しい食事を用意させたけれど、食べたいものはあるかな?ルーが望むものを用意させよう」
穏やかに微笑むアレクシスはそれだけで芸術価値の高い絵画になりそうなほどの美しさだったが、それすらも怪しく見えてくる。目の前で倒れてしまったとはいえ、連れて帰って医者に診せるだけでも十分過ぎるほどの親切だというのに、至れり尽くせりの好待遇に何か裏があるのでと思えてきたのだ。
「あの……私の服は何処に……?」
先ほどから気になっていたのだが、ルーが今着ているのはシンプルながらも質の良いワンピースだ。いつの間にか擦りむいた膝も手当てをされていて、どれほどの時間が経ったのだろうかと落ち着かなくなる。
(お父様たちが帰ってくる前に戻らないといけなかったのに……)
不安を押し殺して訊ねると、アレクシスは少し不思議そうに首を傾げる。
「汚れてしまっていたから洗濯させているよ。その服が気に入らなければすぐに別の物を用意させよう。でも、先に食事を済ませてしまおうね」
一向に手を付けようとしないルーに焦れたのか、アレクシスは粥を掬ってルーの口元に差し出す。そんなに執拗に食べさせようとするのは何か良からぬ薬でも盛られているのでは、と思えてきてルーは表情を引きつらせた。
「鶏肉が嫌い?それとも米が苦手なのかな?」
「……っ、いえ……見られていると食べづらくて」
「そういうものなのだね。では少し席を外すとしよう。ゆっくりでいいから残さず食べるんだよ」
苦し紛れのルーの言い訳を怪しむ素振りを見せず、アレクシスはあっさりと部屋から出て行った。ほっと息を吐いたのも束の間、状況は何一つ変わっていない。
全て食べるように言われたのはやはり何か入っているからではないだろうか。
(薬で眠っている間に売り飛ばされる?それとも違法薬物の摂取で脅迫される?)
一度考えたらそうとしか思えなくなり、ルーは何とかしてここから逃げ出せなければと室内を見渡した。客室として使われているのか、物は少ないがソファーやテーブル、ベッドなどどれも質の良い物に見える。
何だか物色しているようで恥ずかしくなり、視線を逸らすと窓の外にある立派な大木が目に入った。
そっと窓を開けて観察すれば、窓の近くまで枝が伸びており、幹も凹凸がある。枝と幹に足を掛けていけば何とか地上まで下りられそうだ。
最大の難関は部屋から木に飛び移ることだろう。二階とはいえなかなかの高さであり、木登りをしたことがあるのは幼少期に犬に追いかけられた時以来だ。
(怖いけど、帰らないと……)
お粥を食べ終えるのにそれほど時間はかからない。いつアレクシスが戻ってくるか分からないし、木から下りた後も脱走するための時間も必要だ。
迷う暇もなく深呼吸をしたルーは思い切り窓枠を蹴った。
ガサガサと葉っぱが擦れる音が思いの外大きく響いたが、ルーはなりふり構わず枝と幹に手を伸ばす。自分の呼吸音で何とか木にしがみ付くことに成功したルーは緩みそうになった気持ちを引き締めて、慎重に足場を選ぶ。
(嘘……届かない!?)
遠目には何とかなりそうだったのに、実際に足を伸ばしてみるとルーの身長では少しばかり距離があった。かくなる上は枝にぶら下がりながら足を掛けたと同時に木にしがみ付くしかないのだが、握力が足りなければそのまま落下してしまう。
足が竦んでしまいそうになるが、木から落ちることよりも恐ろしいことを知っている。あんな思いをしないためには早く帰らなければいけないのだから、これぐらい気にしてなどいられない。
もう一度深呼吸をして覚悟を決めると同時に頭上から小さな音がして顔を上げる。
菫色の瞳が零れ落ちそうなほどに見開かれていて、ルーも同じように目を瞠る。思っていたよりも時間が経っていたのか、アレクシスが戻ってくるのが早すぎたのか。
「……ルー、そのまま動かないで!すぐに――っ」
焦った様子から助けようとしてくれるのだと分かった。苛立ちではなく不安そうなその眼差しから悪い人ではないのかもしれないと素直に思えた。
それなのに帰らなければという強い思いに引きずられるように、足が枝から離れる。
身体と頭がちぐはぐな状態で動いたため、枝を握り締める力が上手く入らず体重を支え切れない。
(――落ちる!)
愚かな行動を悔いる暇もなく、衝撃に備えて息を止めていると強い風が吹いた気がした。いつまで経っても痛みは襲ってこず、目を開けるとゆっくりと揺れる木々が目に入る。手を動かすと柔らかな芝生の感触に呆然としながら身体を起こす。
一体何が起きたのか、放心状態のルーはいつの間にか傍に立っていた人物に気づくのが遅れてしまった。
「――何故こんな危険な真似をした」
反射的に顔を上げると、いつの間にかすぐ側に腕を組んだアレクシスが立っていた。これまでの温和な態度はなく能面のような表情でルーを見据えている。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に戸惑いながらも、口を開こうとした途端に何かが頬を滑り落ちていく。
(……水?……一体どこから?)
「す、済まない!怖がらせただろうか?泣かせるつもりなんてなかったのに……私は何ということを……。ルー、どうか泣かないでおくれ」
アレクシスの言葉でようやく水ではなく涙なのだと気づいたが、どうして泣いているのか自分でも分からない。
人前で泣くなんて恥ずかしいことだと乱暴に目を擦って涙を止めようとすれば、アレクシスが狼狽したような悲鳴を上げながら腕を掴んだ。
「そんなことをしてはいけないよ。ルーの綺麗な瞳に傷がついてしまう」
手を下ろすとアレクシスは腕を離してくれたが、勝手に溢れ出した涙はまだ止まる気配がない。左腕に爪を立て痛みに気を逸らせて泣き止もうとすれば、またしてもアレクシスから止められてしまう。
「ルー!お願いだから、好きなだけ泣いていいから、どうか自分を傷付けないで」
必死に懇願するアレクシスに気を取られて、ルーは先ほどの感覚が何だったのかすっかり忘れてしまった。
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