竜帝は番に愛を乞う

浅海 景

第1話 ついてない一日

差し伸べてくれた手を取らなかった私に、助けを求める資格なんてない。

悲しそうに細めた瞳を見ていられなくて、背中を向けて逃げ出した。引き留めるように名前を呼ばれたのに振り返ることもなく――。

だから私はあの人がどんな表情を浮かべていたのか知らない。


「おい、ちょっと待てよ!」


乱暴な呼びかけに足を止める。貴族子女の通う学園では不作法過ぎる呼びかけだが、それを咎める声は上がらない。無視して通り過ぎてしまえば咎められるのはルーのほうだ。

僅かに視線を上げれば、伯爵令息を筆頭にいつもの顔ぶれが揃っている。


「いいの。私が我慢すればいいだけだから」

「メリナが我慢する必要なんてないんだ。姉だからといってそんな横暴は許されるはずがない」


いつも通りの茶番だが、今度はどんな言いがかりを付けられるのだろう。罵倒だけで済むといいなとぼんやりとそのやり取りを眺めていると、不快そうに眉を顰めて睨まれた。


「その赤毛といいぼんやりとした目の色といい、本当に醜いな。性格の悪さが顔に滲み出ているのだろう。妹であるメリナはこんなに可愛らしいというのに」


嘲笑がさざ波のように広がっていく。密やかに、だが聞こえよがしに囁かれる悪口はいつもあまり変わり映えがしないため、今さら何とも思わない。時間が勿体ないし早く本題に入ってくれればいいのにと小さく息を吐くと、舌打ちされた。


「そんなメリナをクルト様が番として見初められたのは当然だ。それなのにメリナに贈られたドレスを破くなんて浅ましい!身の程を知れ」


高らかに告げる伯爵令息の言葉に、ああ、と腑に落ちた。昨晩メリナが嬉しそうに見せびらかしていたドレスに対し、ルーはメリナが望むような反応を示せなかったのだろう。

流行もドレスの良し悪しも分からないので素敵だと伝えたのだが、そんな褒め言葉では不十分だったらしい。


(言ってくれればその通りにしたのに……)


その時々によって変わるメリナの機嫌を読み取ることは難しい。正解を引き当てることはほとんどなく、その結果こんな形で仕返しをされることになるのだ。


「嬉しくてつい、はしゃぎ過ぎてしまったの。お姉様の気持ちも考えずに……ごめんなさい」


琥珀色の瞳が揺らぎ今にも零れそうな涙に、周囲にいた貴族子女が同情の視線をメリナへ、非難の眼差しをルーへ向ける。

謝罪するのはお前のほうだという無言の圧力をひしひしと感じるが、ルーは黙って俯くばかりだ。

身に覚えがないと否定すれば余計に彼らの感情を逆撫ですることになる。だがやってもいないことに対して謝るのは嘘を吐くようで嫌だった。


くだらない、だけどルーに許された最後の矜持のようなもの。


「何だ、その態度は!さっさと謝れよ!」


その後も口々に浴びせられる罵詈雑言をルーは黙って聞き続けるしかなかった。


罰として押し付けられた雑用を淡々とこなしていく。書類の仕分けという単純作業はそれなりに量はあるが、何とか終わりそうな仕事であることに内心安堵した。

これなら夕飯の準備にも支障はないだろう。


「この世の者とは思えないほど、美しい男性だったそうよ」


廊下を歩きながら興奮した様子で話す同級生の声に、歓声が上がる。


「獣族の方よね。もしかして番を探しに来たのかしら?」

「……ねえ、その方をお見掛けした場所に行ってみない?」


そんなやり取りを耳にしながら、ルーは意識を書類の山に戻す。難しい作業ではないため、少々考え事をしていても間違えることはないが、あまり好ましい話題ではない。


この世界には人口の大半を占める人族と、半獣神の末裔と言われる獣族がいる。見た目は普通の人間と変わらないが、並外れた身体能力や知性を持つ彼らは、人より上位の存在だ。通常の生活を送っていれば、そんな獣族と関わる機会はほとんどない。だがその例外として挙げられるのが番だった。


番とは獣族が本能的に選ぶ伴侶のことだ。世界に唯一の存在であり、同族は勿論人族も含まれるらしく、彼らは番を得ることでその能力をさらに高めることが出来るらしい。

番として定められた相手は宝物のように大切にされるため、容姿も能力も優れた獣族の番になることを夢見る人族は多いようだ。


尤もルーにとっては関係のないことだ。人族で番に選ばれるのは稀なことであり、番になるのは特別な人間なのだから。


静けさを取り戻した教室で紙をめくる音だけが響く。だから窓の外から上がった歓声に、ルーは釣られるように顔を向けてしまった。


無邪気な笑顔を浮かべる妹に愛おしそうな眼差しを向けているのは狼族のクルトだ。

一年前にクルトの番となったメリナには憧憬の視線が注がれている。甘えるように抱き着く様子は貴族令嬢としてはしたないものだが、周囲は諫めるどころか当然のことのように捉えているようだ。


普段は冷たい印象のクルトだが、メリナへの態度は人が変わったように甘く優しい。だがルーはクルトが苦手だった。

メリナから何を聞いているのか知らないが、仇を見るような冷たい瞳と不愉快さを隠そうともしないのだ。クルトがいる間は緊張していつも以上に気を遣うため心身ともに負担が大きい。


(うん。クルト様がいらっしゃっても、食材は何とか大丈夫そう……)


夕食の変更を考えつつ、ルーは憂鬱な気分を振り払うように書類を処理するスピードを速めたのだった。



屋敷に帰り着いた頃には辺りは日が傾いていたが、屋内に明かりが灯っていない。そのことに嫌な予感を覚えながら、ルーがリビングに入ると机の上に一枚の書き置きが残されていた。

家族で外食に行くこと、戻ってくる前に片付けて置くこと。用件だけ綴られた紙を見ても何も思わなかったが、お腹がぐうと鳴った。


メリナの機嫌を損ねてしまったため、朝食はもちろん昼食も食べていない。丸一日何も食べないのは辛かったが、勝手に食材を使ってしまえば叱られる。


テーブルの上に残されたカップやお皿を洗っていると、空っぽのジャムの瓶が目に入り、はっとした。ラズベリージャムは最近のメリナのお気に入りだ。朝食に出さなければ、明日も朝食抜きになる可能性が高い。

店が閉まるか閉まらないかの頃合いで、ルーはジャムを買うためのお金を搔き集めると急いで店へと向かったのだが――。


「……どうしよう。どこにも置いてない……」


いつもの店は既に閉まっており、別のお店はラズベリージャムを切らしていたのだ。空腹の中で走り回ったせいで目が回りそうだ。それでも何とかしなければと考えていたせいで、ちょっとした段差に足を取られて勢いよく転んでしまった。


(踏んだり蹴ったりとはこのことね……)


打ち付けた膝の痛みに耐えながら起き上がりかけた時、馬の嘶きが聞こえた。それと同時に何かを叩きつけるような音がして、何事かと顔を上げた瞬間にルーは驚きのあまり固まってしまう。


薄暗い街灯の下でもはっきりと分かるほど、圧倒的な美しさを持つ存在がそこにあった。ただ歩いているだけなのに優雅さを感じさせる所作、夜のように深く艶やかな黒髪、そしてその下から覗く神秘的な菫色の瞳がまっすぐにルーを捉えている。


時間が止まったかのようにただ呆然としていたルーだったが、男の視線が下に逸れて眉が顰められた瞬間に、自分の状態を思い出した。


「……っ、失礼しました!」


転んだ拍子にまくれたスカートは幸いにも膝下までは掛かっていたが、それでもはしたない恰好をしていたことに変わりはない。これ以上醜態を晒す前に立ち去ろうと気が急いたのがいけなかった。

勢いよく立ち上がったせいで、目の前が暗くなる。

空腹で目が回りそうだと思った矢先だったのにと後悔しかけたが、固い地面に身体がぶつかることはなかった。


「医者の手配を!」


足に力が入らず、ふわりと身体が浮く感覚に男に抱え上げられたのだと分かる。


「……大丈夫、です。少し休めば、良くなるので」


大したことではなく、さらには医者に支払えるようなお金をルーは持っていない。両親に告げれば無駄遣いをしたと叱られてしまう。男の袖口を引いて、医者は不要だと首を振り必死に意思表示をすれば、目眩が酷くなる。


「心配しなくていいから楽にしておいで。もう大丈夫だよ。君は私の――」


男の言葉を聞き終える前に、ルーは意識を失ってしまった。

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