第11話 幸せ者

薫くんが帰った後も、しばらく私はソファーから立ち上がることすらできずにいた。


下の名前を呼ばれただけ。


それだけなのに、私の脈拍はBPM200近い。


「えっ? えっ?! 私 ──── 」


知らなかった。でも、ひょっとしたら。


「私、『攻め』じゃなくて、『受け』だったの……?」


そう、私は腐っている。


これまで築いてきたその世界観が、逆転する感覚。


私は、ソファーの上で膝を抱えて丸くなる。


「薫くん、帰る間際、『男の子な顔』してたなぁ……」


頭の中が、ぐるぐるしている。


ホント、感情が爆発しちゃいそうだ。


そんなことを思っていた瞬間。


私の部屋が、物理的に爆発した。



私の隣の部屋には、同じ大学の理工学部に通う、3年生の先輩の女性が住んでいた。


引っ越してきたときに挨拶にお伺いして、1回だけ会ったことがある。


日本人形のような長い黒髪が印象的な、大人しそうな人だった。名前は、憶えていない。


私には知る由もなかったが、彼女は、7月に入った頃に、手痛い失恋をしていた。


死にたいと思うくらい、手痛い失恋。


そして、彼女は、その思いを実行に移すべく、計画を始めた。


彼女は、化学が専門だった。


そして、彼女は、何を思ったのか、意図的にガス爆発事故を起こして、自分の人生を終わりにしようと考えたのだ。


彼女は、最も爆発力が高まる都市ガスと空気の混合比を計算し、その爆発力ならば、確実に人間が死ねることを確認した。


どれくらいの時間、ガス漏れを起こせば、その混合比になるのかも、精緻に計算した。


どうやればガス漏れ警報器や検知器を無効化できるかも綿密にリサーチし、実際に無効化した。


適切なタイミングでガス爆発を発生させるために、ガス濃度感知式の発火装置を設計し、実際にそれを作成した。


彼女には、すべてを完璧に準備できるだけの知識が、残念ながら、あった。


そして、彼女は、すべての準備を済ませた。あとは、実行するだけだった。実行に向けて彼女の背中を押すきっかけが何かあれば、彼女はいつでもそれを実行に移せた。



ところで、これまた私には知る由もなかったが、彼女は、キャンパスで、度々私と薫くんが一緒にいる姿を、目撃していた。


彼女自身の恋愛が順調だった頃には、それは、彼女にとっては特に関心を引くことではなかった。


しかし、彼女の恋愛が破綻し、絶望の淵を彷徨うようになると、話は別だ。


彼女にとって、人間の幸せ不幸せというのは、相対的なモノだった。


だから、「自分が恋を失い絶望しているのに、名も知らぬ隣人(つまり私)が、幸せそうに人生を謳歌している」という、その落差は、彼女にとって耐え難いものだったのだ。


そして、彼女は、どうしようもなく他責思考の強い人だった。自分が不幸なのは、すべて、自分以外の誰かが悪い。自分が苦しい思いをしているのは、すべて、自分以外の誰かのせい。とにかく、自分は悪くない。悪いのは、常に他人。


そしてこの日、彼女が授業を終え、キャンパスを歩いている時、私と薫くんが連れ立って歩いているのを目撃した。彼女の目には、私と薫くんが、仲睦まじい恋人同士に見えていた。


彼女は、私と薫くんの後ろをつけるような形で、一定の距離を置いて、マンションまで歩く。


そして、彼女は、私と薫くんが、マンションのオートロックを抜け、一緒にエレベータに乗るのを見届けた。


その時、彼女の胸のうちに、ある感情が湧き上がった。


憎悪。


「自分がこんなにツラいのに、あの隣人があんなに幸せそうにしているなんて、ズルイ。そうだ、自分がこんなに惨めな思いをしているのは、あの隣人が悪いのだ。あんな、見せつけるようにイチャイチャして。なんてひどい。そんなひどい人は、何をされても文句は言えないハズ。そう、自業自得だ」


傍から見れば完全に狂っているけど、彼女にとっては、自分を正当化する完璧な理屈。残念ながら、世の中には一定数いるんだよね、自分の思い込みで世界を塗りつぶしちゃって、全く話の通じない人。


そんなわけで、こんなにも些細なことが、彼女の中で、最後のきっかけになってしまった。


彼女は、実に手際よく、計画を実行に移した。私に対する、明確な悪意とともに。


ガス漏れを起こし、発火装置をセットして、自分は十分な量の睡眠薬を服用して、ベッドに横になった。眠りに落ちる間際、彼女は、笑みさえ浮かべていた。


そのベッドと壁を挟んで隣り合う位置に、私の座っていたソファーがあった。


私は、リビングの窓の方向である南側を向いて、つまり、身体の右側を壁の方向に向け、ソファーの上で、膝を抱え、体育座りをしていた。


そして、薫くんが帰ってからおよそ10分ほど経ったとき、彼女の部屋に最適な量のガスが溜まったことを感知した発火装置が、着火した。


彼女の願いは、成就した。


ほんと、迷惑な話だよね。


でもこれは、すべて、私には知る由もないことだった。



その瞬間のことは、全く覚えていない。


意識を取り戻した時、私は、ソファーがあったはずの場所から3~4メートルほど離れた、寝室の床に転がっていた。


床に積んでいたハズのR18指定の同人誌が、バラバラになって、あちこちに散らばっている。


なんてこった。なかなか手に入らないレア物の同人誌も結構いっぱいあるのに。


これだけ集めるのに、どれだけ苦労したと思ってるのよ。


あぁ、でも、それどころじゃないかも。


全身が、信じられないほど痛い。痛すぎて、身体が動かせない。


右目が、ものすごく痛いな。というか、痛すぎて、目を開けることすらできない。これ、ひょっとして、右の眼球、潰れちゃってない? まいったな。薫くんは、私の右側を歩くことが多いのに。これじゃ、一緒に歩いているとき、薫くんの横顔を見ることができなくなっちゃうじゃないか。困ったな。


右手も、ものすごく痛いな。無事な左目で、右手の状態を確認しようとしたけれど、そこには何もなかった。あちゃー。右手、肘から先がないじゃん。まいったな。8月5日には、薫くんに浴衣を着せてあげなきゃいけないのに。これじゃ、薫くんに着付けをしてあげることができなくなっちゃうじゃないか。困ったな。


右足も、ものすごく痛いな。あれ? 右足の脛辺りの骨、ポッキリいっちゃってない? まいったな。これから薫くんと一緒にあっちこっちのストリートピアノを巡って、いっぱい「うさぎちゃんねる」の動画を撮らなきゃいけないのに。これじゃ、薫くんとロケハンに行けなくなっちゃうじゃないか。困ったな。


全身が、ものすごく痛いな。呼吸するだけで痛い。こりゃ、肋骨が何本か折れちゃってるな。他は、大丈夫かな? まいったな。あんまり大丈夫じゃないな。ちょっと、折れてるところ、数えてみようか。いち、にい、さん……うーん、自分で認識できるだけで、肋骨や右足含めて、6箇所くらいは骨折してるな。こりゃ、動けないや。これじゃ、来週からの前期試験受けるの、どう考えても無理だな。いきなり留年かぁ。薫くんと一緒に卒業するの、無理になっちゃった。困ったな。


あぁ、これ、かなりの確率で、私、このまま死んじゃいそうだな。仮に助かったとしても、それはそれで、その後の人生、結構なハードモードになっちゃうなぁ。右目と右腕がなくなっちゃってるし。全身、あちこち骨折してるし。コレ、また歩けるようになるのかなぁ。困ったな。


とにかく、ちょっとでも生存確率上げとかなきゃな。とりあえず、失血死しないように、右手の出血を抑えなきゃ。幸い、左手は動くみたい。右腕の上腕を、ぎゅっ。うー、痛ったい。折れてるところをぎゅっとしてるんだから、当然だよね。でも、止血しないと死んじゃうかもしれないし、しょうがないよね。がまん、がまん。


あぁ、でも、本当に、全身が痛い。ちょっと正気を保っているのがキツくなってきた。こんなに痛いなら、意識なんて戻らなかった方が良かったのに。とっとと、もう一回気絶しないかな。ホントに痛い。



でも。


何が起こったのかさっぱりわからないけど、薫くんが帰った後でよかった。


薫くんが、これに巻き込まれないで、本当によかった。


私が最後に記憶している時間で考えても、少なくとも、薫くんが帰ってから10分くらいは経っていたはず。


身体は動かないし、右目は見えないけど、左目で見える範囲だけでも分かる。


多分、爆発が起きたのは私の隣の部屋で、物理的な被害が大きいのは、爆発があった部屋の両隣だけ。


リビングの隣室側の壁はキレイに吹っ飛んでるけど、こちらの寝室の反対の隣室側の壁は全然壊れてなさそうだし、火の手も見当たらない。


多分、時間的に駅くらいまでは移動していただろうから、薫くんには、きっと被害は及んでない。


なら、まあ、いいか。


あーあ、薫くんと、もっともっと一緒の時間を過ごしたかったな。


もしここで死んじゃったら、薫くんにもう会えないのかぁ。


ああ、それはほんと、嫌だなぁ。


もう一度、薫くんに会いたいなぁ。


でも、最後に「亜依」って呼んでくれたのは嬉しかったなぁ。


こんなに身体中が痛いのに、「亜依」って呼んでくれた時のことを思い出すと、すごく幸せな気分になれるよ。


それだけで、とても救われた気持ちになれる。


いまなら、はっきり分かるよ。


大好きだよ、薫くん。


私、薫くんのことが、大好きだよ。


たった3か月半くらいだったけど、薫くんと過ごせて、私は本当に幸せだったよ。


それだけで、生まれてきた甲斐があったって、心から思える。


ありがとう、薫くん。


一緒に動画作ることができなくて、本当にごめんね。


ひょっとしたら、私、このまま死んじゃうかもしれないけど、もしそうなったとしても、これからの薫くんの幸せを祈っている。


ずっとずっと、祈っているよ。


こんな目に遭っちゃうなんて、きっと私はすごくツイていないんだろうなぁ。


でも、こんなツイてないときですら、思い出すと幸せな気持ちになれるくらい好きになった人がいる。


それって、結構ラッキーなことじゃない?


多分、プラスマイナス全部均したら、薫くんに会えた分だけ、きっと、私の人生プラスだな。


うん、間違いない。


ホント、私は、幸せ……者……だなぁ……。



そこで、ようやく私は意識を失い、全身の苦痛から解放された。

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