Novel coronavirus 26
「それは数の問題になるのだよ。とても単純なね。多くの感染症は弱者といわれる高齢者やこどもが犠牲になることが多い。もし高齢者やこどもを切り捨てるというのなら、出入国制限をしないという選択肢もあっただろう。けれど、それは有り得なかった。それだけの話だ。それにまた、通常、人類の一部――社会の集団にある程度免疫のある病のふるまいが高齢者やこどもという弱者が重症化しやすいというものだとしても、それが免疫を人類すべてが持たない感染症に対して起こりうることの予測として採用するに適当であるとは限らない。通常、そうした既知の病が壮年や健康な若い個人に対して重篤な症状を引き起こさないのは、つまりはある程度の免疫があるからだという可能性もあるからだ。インフルエンザが流行しても、若い健康な個体であれば大抵は治癒して死亡する例は少ない。それは別の型のインフルエンザに過去に感染したことがあるからだという話がある。当初、情報がない中では、特にこれまでの感染症と同じように高齢者やこどもは確率的に危険だが、若者にとってはそうではない、と仮定するのは愚かな話だろう。尤も、そのインフルエンザでも現代でも人は死ぬのだがね。若くとも、ある程度の確率で人は死ぬのだ。そこで、感染する確率が問題になる。…――もし、この新興感染症の感染力が強ければ、…もし、人類の殆どが感染するようなことがあれば」
教授が言葉を切る。
そっと、それを。
「例えば、二十代の致死率が0.001%だとしよう。それはとても小さく思える。だが、もし一億人が感染したらどうだろうね?一億の内、二十代がそうだね、二十%だとしてみよう」
面白そうに教授が仮の数値をくちにする。ぼそり、とそれに一佐の、いい加減すぎる、という声が小さくきこえる。
「いいではないかね、わかりやすい。さて、一億人の二十%は?二千万人かね?その0.001%が重症化して死に至るとしよう」
明るくさえ聞こえる声で教授がいう。
「ざっと二万人が死ぬことになる。0.001%でしかないが。そして、それは理想的にICUが不足せず、全員に治療ができた場合の致死率だとしよう。二万人で済むだろうか?いっておくが、これは一番致死率が低い二十代と仮定しての話だ。例えば、致死率が六十代以上は重症化した場合、二割に達するとする。もし重症化率が二割としたら、―――一億人が感染して、人口比に六十代以上が三割いたとしよう。三千万が感染してその二割が重症化する。六百万人が重症化する。その二割だ。一二〇かね?百二十万人が死亡する。二〇代との比較にしては、重症化率を入れてしまって申し訳ないが。いずれにしても、とても単純なことだ。人類に、六百万人が重症化した際に入れるICUの準備はあるかね?」
「勿論、アイスランドの人口は一億人もない。けれど、比率でいえば同じようなものだとしても、それだけの人数が入れるICUの準備はない。また、その準備をすることも現実的ではない。何故なら、もし部屋と機械を揃えたとしても、人間が足りないからだ」
美しい山脈の威容を背景に教授が微笑む。
「それは何処の国でも同じことだがね。国により、福祉や医療を削り、経済に見合わないからといって病床削減を行うのが当然となっている国も多いが、―――医療は無駄だというね。わたしには理解しがたいことだが、――そうした国も存在するからね。経済というものが優先で、医療というのは何故か後回しにして削減しつづけても構わないものらしいよ。おそらく、そういう国では健康で働けなければ人間に価値は存在しないのだろうね。そういった人命に価値を微塵も認めない国もまた存在する」
尤も、と皮肉に教授が笑む。
「尤も、それが経済至上主義である現代社会では当然の流行であるのかもしれないね。人の命は何故か後回しなのだよ。ともあれ、アイスランドの人口は少ない。人命もとても貴重なのでね?この国では、人命を守る為に鎖国をすることにしたのだ。鎖国というか、それは日本的な表現だね。出入国制限を早期にかけることにしたのだよ。だからね。他に選択肢は無かった。ICUは無限に持てるものではない。少なくとも、車のように一家に一台というわけにはいかないからね?いや、車より多くなくては。家族一人ひとりに、一人に一台ICUというわけにはいかんのだ。一人に一台人工呼吸器とそれをケアする二人から四人のスタッフとその他の装置―――であるからには、結論はみえていた。封鎖するしかないのだよ。外の世界を隔離するしか、方法はなかったのだ」
教授があっさりと、淡々と結論を告げる。
「確かに、経済とかいう謎の仕組みはこれで傷つくだろう。けれど、これは大きな災害なのだよ。大災害が襲ってきて、例えばこれが地震で、何もかもが壊れてしまった。そうしたら、避難しないでいるのかね?もし、明日必ず地震が来ると知ったら、逃げないでいるのかね?その場に留まるかね?感染症も同じことだよ。そうして、完全な地震予知が難しいように、この感染症もどの程度の被害が起こるかは解らなかった。だが、地震予知よりは容易な点がある」
神尾が無言でうなずく。
「例え、未知の感染症であっても、広まっていく過程でその正体がみえてくることになる。少なくとも、それがヒトからヒトへ感染すること。そうして、初期とはいえ重症肺炎を引き起こすことは解っていた。肺は治らない。ある程度の修復はするが、後遺症が残ることも多い。そして、そのような後遺症が残る重症肺炎では、治療は長期に渡ることも多い。それは単純に治らないだけではなく、…――ある意味、常に治療を続けなければ生存できない状態になることも有り得るということだ。呼吸できなければ人は簡単に死ぬ。そして、肺炎はその呼吸に必要な肺を確実に傷つけてしまうのだからね。生命維持に常に機械の助けが必要となる人も多い。携行酸素というが、―――これがなく、その装置がなかった時代には、傷ついて酸素吸入を常に必要とする状態に肺がなってしまった場合には最後まで入院を続けるしか選択肢がない時代があったのだよ。そして、それはいまでも世界の多くでは単なる贅沢品となってしまうものでもあるのだ」
無言で一佐が教授の言葉を聞いている。
「どれだけの人が死ぬのか、ぼくに予想はできない。…わたしにはね。この感染症はこの地球上すべてに広がるだろう。おそらく、アマゾンの原生林の中にいても、世界とつながってしまっている現代では逃れることはできないだろう。南極にも北極にも、もう何処ともつながらずに生きている人類はいない。孤立した集団は人類にはいなくなってしまった」
教授が一佐を見返る。
無言で何かを託すようにして。
「わたしがいま知る限り、早期の鎖国に成功したのは台湾、アイスランド、そして、少し遅れたがNZ。その三ヶ国しかわたしは知らない。いずれも規模の小さな島国という特徴がある。あとは、そうだね。太平洋諸国の島国が、やはり同じように早期に出入国制限していたはずだ。きちんと調べていないのでね、すまないが」
そうして。
「感染の方法があきらかでなく、さらにいまだに人類は風邪の感染を防ぐ方法すら知らないのだからね。だとしたら、出来るのは単純なことでしかない。人と人の往来を禁止する。外の隔離を行うことだけが、その単純な方法なのだよ。」
「外の隔離か」
少しばかり面白そうに皮肉にいう一佐に教授が視線を向ける。
「外を、――つまり、外を感染源として隔離するのか。つまりは、感染症対策の基本だな?感染したヒトを隔離するのが基本だときいた」
「その通りだね。アイスランドでは、外の世界はすべて感染していると仮定して、感染者を隔離したのだよ。勿論、だから中に入る人に関しては隔離する。人類の行える対策など、百年前といくらも変わってはいないのだからね。発症の仕組みさえ理解しきれていない。発症していなくとも、不顕性感染がありうるのだから発熱などは頼りにならない。それは基本的なことだ。外から来た存在を隔離して発症するかどうかをみて大丈夫なら中に入れる。昔から人類がやってきたことだ」
そうだね、例えれば、と教授が首を傾げる。
「――日本でいうなら、境の神かね、…――道祖神だ。余所者を嫌い、田舎は閉鎖的だといわれるが、わたしにはそれは日本では昔から道祖神という存在があるように、境界の中、―――境の神に守られた集団の中へ、他所の集団から病を入れない為の知恵だったのではないかと思えている。感染症に対して治療法がなく、抗生物質も存在していなかった昔に感染症対策として行えたことは、無暗に異所へ移動しないこと、移動する者達と接触しないこと、そうして、もし他所から人を中に入れる際には、一時的な隔離―――それに類したしきたりと思われる記録もいまに残っている―――集団へ参加する為の通過儀礼として、そうしたものが行われていた形跡などもある――要は、発病する前の段階で隔離して、発病しないことを確認して仲間に入れていたのだ。それは、長い年月の間には意味のわからない唯の習慣として残っていたことだろうがね。それでも微かな記憶は残り、祭りや何か、伝承などとして残っていく。例えば、蘇民将来という伝説があるが」
「蘇民将来は、訪なう際に、そのしるしをつけて中に引きこもるものには疫病を与えないというものだ。そのしるしを持つものだけを訪問神が守る。―――伝承では、訪れた神を歓待したものに対して、その子孫だけを守るという約束がなされて、蘇民将来の子孫であるという印を家にかかげたものは許された。疫病にあわずに済むという言い伝えだね。つまりは、蘇民将来の伝説はある家が疫病の祟りから身を免れた。その際の事象に対して、理屈をつけたものであるともいえるのだ。もとより、蘇民将来の伝説における訪問神の性質は、―――
疫病神であり、祟り神であり、また守り神でもある二重性はとても興味深いものだがね。日本には、他にも多くの祟り神の伝説がある。どれも、その祟り神を祀り上げて、祟りがおきないようにと鎮める為のものだ。―――牛頭天皇、須佐之男命を祀る花鎮めの祭。茅の輪くぐり、―――無数に日本にある疫病を鎮める為の祭りは、共通項として、疫病の広がりと、その中で生き延びたものに対してしるしをあたえて守る。あるいは見えないものをその集団から払うといったものがある。蘇民将来に関しては、その由来といいしるしの件といい、疫病により免疫を得て生き残ったものの子孫という要素がみられるのではないかといった点でも興味深いが。――古代よりいまに残る蘭陵王の舞からしても、日本に残る呪術や神道の祓い清めの概念といい、残されている風習に長く感染症と闘ってきた歴史が刻まれているのではないかと思うことがあるのだがね」
そっと苦笑して、教授がいう。
「さて、随分と他所にそれてしまったね?わたしの答えがわかったかな?」
悪戯気に一佐をみていう教授に、あきれた顔で肩をすくめて一佐が応える。
「理解した。つまり、人類次第だということだな?」
「その通り。きみが胡乱なことをきくからだよ?随分と長くなった」
「気持ちよく話していただけだろうに。…」
「さてね」
教授が笑って肩をすくめる。そして、神尾をみて。
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