Novel coronavirus 25
「人類が滅ぶかもしれない、という予測は、簡単にこの感染症について考えた結果だ」
一佐に促されて、教授があっさりという。
「まず、人類はこの感染症について何もまだ知らない。その時点で解っている情報としては、重症肺炎を引き起こすという点だった。それが最初のデータだ。まず、SARSが疑われたことは知っていることと思う。だが、発見時点で既に重症者の存在する範囲が広かったという点が、SARSとは異なる点だった」
滝岡も神尾も無言で教授の言葉を聞いている。
「アイスランドの友人から連絡があってね。わたしもこの感染症について調べてみることになった。丁度、あれは十二月が始まってしばらくしてからのことだったね」
神尾が熱心に教授の言葉を聞いている。
「丁度、ジェイクも火星行の実験施設に移ったばかりで、わたしも暇だった。正確に何が起きているのかは、しばらく経ってもはっきりとはしなかったが、最初に引っ掛かってきたのはSNSだった。中国の医師達が警告を送りあっているもので、その時点でかなりの人数が重症肺炎――しかも、原因不明の重症肺炎として扱われていたのだよ。わたしは、おかしいと思った。アイスランドの友人と同じようにね」
「…―――」
沈黙して、拳を口許にあてて神尾がじっと教授の言葉を聞いている。
「――…わたしも、その友人からの連絡がなければ気づくことはなかっただろう。まず、それは公衆衛生上の報告として国際的な機関等にはまったく上がっていなかった。本来、此処で既に警告が公衆衛生関連機関に届いていなくてはいけなかったはずなのだがね?それはともかくとして、小さなコミュニティでの異変に関する報告だった。肺炎に関するCT画像などもあり、その分析はわたしにはできないので他に頼んだが、―――。おかしなことが起きていると危険を感じた」
「それで、あんたはすぐにアイスランドへと飛んだわけか。文字通り」
「その通りだよ。わたしは、アイスランドへと飛んだ。実際に、何が起きているか分析する為には、それに疑問を持つ人達と直接会話して、意見を交換した方がはやかったからね。アイスランドでは、この危険に非常に注目していた。何故なら、此処は島国だからだ」
「人口も少ないしな」
ぼそり、という一佐に教授が同意する。
「その通りだよ。アイスランドの人口は少ない。また、医療機関も水準は大変高いとはいえ、資源は限られている。もし、島民すべてが感染症にかかり、報告にあったように重症化することがあるとすれば、簡単に国すべてが滅ぶことも有り得るのだ。それは、単なる想像ではなく、単純な事実でしかない」
「―――――事実か」
「そうとも、事実だよ。アイスランドは島国だ。人口は少なく、緯度も高い。もし、南国のように国や施設が滅んでも生き延びられるかといえば、人工的な手段をなくしてこの島で生き延びることは難しい。この島で生き延びる為には、人は人工的な設備と手段をある程度保ちつつ生き延びる選択肢しか残されていない。それはつまり、ある程度の社会的秩序が保たれていなければ、国家として国民を保護することができなくなるということだ。この地は、人類が生き延びるにはかなり厳しい環境にあるのだからね。相互扶助が成り立たなければ、生き延びるのは難しい環境にある。」
「それで」
促す一佐に教授が淡々とつづける。
「とても単純な話だよ。この地は、感染症を流行させる訳にはいかんのだ。生き延びる為に必要な温度を保つ為には暖房が必要だが。その暖房を保つには、燃料を運ぶことが必要になるのだからね。もし、備蓄が無くなっても燃料が運ばれて来なければ、そこで死ぬことになる。とても単純な話だよ。――――だから、危機にも敏感になる」
無言で一佐が続きをうながす。
「わたしはこの感染症は危険だと思った。問題は、まず中国で既に複数の病院に患者がいると思われることだった。同じ集団、小集団の中で、あるいは、これまで中国、香港等で起きてきた、鳥インフルエンザによる家族間での限定的な感染のように、母集団が限られた感染とは思えなかった」
すべて推測だがね、と教授が付け加える。
「中国の医師達のコミュニティ、――SNSで警告が起きていたという時点で、それは単独の警告ではなかった。患者さんは複数発生しているように思えた。当時、それらの病院の地図上へのプロットを別の班にいたスタッフが行ってくれていた。…――患者の発生している病院は、一か所ではなかった」
神尾が僅かに眉を寄せる。
「別々の場所に患者がいた。―――…プロット班は、これは広がりがあるようだと報告してきた。わたしもその図を見たが、地図上にあきらかに異なる場所の病院が複数プロットされていた。…――確かにまだ、同じ地域ではあったが、これはおかしな話だった。…ヒトーヒト感染していない母集団が小さく家族間感染しかしていない例外事項とするには、広がりがありすぎたのだね」
痛ましいように神尾が眉を寄せる。無言の神尾に、滝岡もまた凝っと教授の言葉を聞いている。
「…難しい話だった。誰も直接中国に行ってみてきたものはいない。だが、こういうことは、直接確認してからでは遅いことが多いものだ。…正確な情報は入らない。中国から公式の報告は何処にもない。SARSの際のように隠蔽が行われるとしたら、それをまっていてはもとより遅すぎることになるだろう。あのときは、直接ベトナムに入った国際機関の医師が、本来の業務から外れて診察を行い、まったく新しい病だと発見をして世界に警告をした。その結果、かれは命を落としたのだがね。…その後、実際には中国でそれ以前に発生していた病だということが解った。中国が当初から隠蔽した為に、その病は世界に広がりかけたのだよ。それを忘れている国はない。あるいは、あるかもしれないがね。ともあれ、今回もまた同じことをしないとは限らない。既に、もう原因不明の重症肺炎が発生しているというのに、その時点で報告はまったくなされていなかったのだからね?信じて犠牲になるより、信じずにいて防御した方がいい。性悪説ではないが、国家に対して性善説を唱えるというのもおかしなものだからね?どの国も、その国の利益を常に一番に追及するものだ。この時点で、われわれは中国からの情報公開があることには期待せずに事態に備えることにした」
言葉をしばし切り、教授がとおくを見つめるようにする。
「そうすると、見えてくる事実は簡単なものになる。広域に広がりつつある原因不明の重症肺炎が存在している。いま世界は狭くなった。特に発生国である中国は世界中とのつながりがある。また、発生箇所にも注目した。同じ中国の中でも辺境ではなく、ハブともいうべき重点的な施設も多い都市で、各地方へのつながりも多く、また世界各国から直接の空港での乗り入れがある。…もし、例えば、一人の不顕性感染者が、感染したまま空港から飛び立てば、あっというまに世界に広がっていくだろう。SARSのときに起きたことと同じことだね。…違うのは」
教授が当時を思い出すようにわずかに首をひねる。
「わずかなことだが、…――SARSもヒトーヒト感染するという点ではかわりない。中国人達の医者のコミュニティでは、それはSARSではないかといわれていたのだが。…」
言葉を切り、あのとき感じた違和感を探すように教授が沈黙する。
「なんだろうね?わずかな違和感だ。あのときわたしは、僅かな違和感を感じていた。もしこれがSARSと同じような未知の重症肺炎を引き起こす病気だとしたら、――――」
言葉を切り、しばし沈黙する。
「―――…やはり、いい言葉がないね。そう、ほんの少し、だね。ほんの少しの違和感があったのだよ、…言葉にはできなかった。だから、そのままを伝えたのだね、友人達に。」
沈黙して一佐がきいている。
「あれをなんといえばいいか、―――…。当時しかし、わたしはそれほどの危機感は抱いていなかった。SARSではないかといわれている未知の感染症がある。発生国は中国、――感染症の生まれ故郷だ。古くはペストも、またこの大陸から現れたのではないかといわれている。人獣共通感染症に共通することだが、新しいといわれる感染症が人類の上に現れるとき、必ず、それを本来保持していた獣と人との接触がある。けれど、それだけで人類の間に劇的な流行が起こるわけではない。それには、人の間である程度流行が起こることが必要なのだ。小さな流行だね。そうして、ヒトを相手に変異していくうちに、爆発的な感染力をウイルスがその何処かで獲得する。つまりは、ある程度の人口の密集が必須条件になるというわけだ。この集団の規模が小さすぎては、コミュニティが全滅し、次につながらない。もし、人類に適応した感染症があったとしても、次に移ることが出来ずに死滅するだろう。その点、中国は理想的な環境になる。獣の間で増えていた感染症は、ヒトに移ってからも、新たな宿主を死滅させる前に、ヒトからヒトへと移ることが出来る。この適当な大きさの規模の集団もまた存在しなければ、ヒトへの感染症として爆発的な規模で増殖する前に滅ぶことになるだろう。あるいは、そうして人類全体に広がる前に死滅した、―――人類の小集団とともに死滅したウイルスは数多いのかもしれない」
あるいは、突然死滅していった過去の文明の中には、そうして増えた人類を足場として増えようとして、共倒れになったウイルスも数多いのかもしれないね、と教授が続けている。
「ジャングルの奥深く、突然、高度な文明まで至ったと思われる遺跡が忽然と発見されて、滅んだ原因が解らないままのことがあるがね。それらは、単純に人口が増え、それまでよりも動物の持つ感染症に接する機会が増えた結果、ヒトにもその感染症が足掛かりを得て、ある程度密集した生活形態を持つに至っていた人類へと広がり、その密集があだとなって感染症が広がり滅んだということになるのかもしれない。その集団が密であればあるほど、滅ぶ可能性は高いだろう。そして、ジャングルの中では元より感染源となるその獣とは共存している感染症と接する機会も増えるのだからね?あるいは、それはその獣にも病を引き起こすものであっておかしくはないが。人類がたやすくとらえることが出来る獲物として、病気が起きて弱った個体というのは有り得る話だろうからね。…そして、とらえた獲物を食べることで、病は広がった。―――…一番最初は、個体ですんでいたものが、人類が集団生活をとることが増えるにつれ、それは、多くの集団を滅ぼしていく原因となる。最初は、家族単位の小集団から、同じ村のように、社会を形成するようになると、その村が一つ亡びる。あるいは、それが都市といえる大きさになり、ついには、他地域との交易という手段を持つようになると。…――――それは、現代と同じように」
教授が遠くをみる。遥か昔、砂漠を行くキャラバンをみるように。
「遠くの土地と土地をつなぐものたちが現れ、一部の集団に生き残った感染症が、別の遠隔地に住む集団へと感染症を伝達することが起こるようになった。」
「悲劇はそうして起った。遠隔地から訪れた者達が、他の地に住む者達を滅ぼした。感染症を伝達することでね。渡来神などの疫病を伝える神の言い伝えは、こうした処から始まっているのではないかと考えることがある。渡来神が疫病を運んでくるのでそれを鎮める。日本でよくある疫病神を祀る為の祭祀は、異国――つまり、当時の日本人にとっては、海外である中国――疫病の発祥地として条件の大変整った隣国からのものが多く、それらは、奈良平安の昔から、異国から来たものとして理解されていた。日本にとり、海の向こうから病はやってくるものだった。その集団に免疫のない病が、免疫を持つ別の集団から運ばれてきて、凄惨な結果を残す。日本以外にも、スペイン艦隊が行く先で起こした一つの文明の滅亡や、或いは、ハワイ他、島国へとヨーロッパの人々が運び込んだ、島民が免疫を持たない病への感染による簡単すぎるほどに簡単に広まった感染と、島民達の絶滅は、残酷なくらいに繰り返されてきた」
「さて、もとに返るが、島国はそのようにして未知の感染症が入り込んだ場合、簡単に絶滅をしやすい条件にある。―――…現代でもそれは同じだ。免疫を持たない感染症が入り込んだ際に、島の集団がどうなるかについては、不幸な話だが、人類は既に多くの経験がある。ヨーロッパの人間が持ち込んだ感染症が、あっという間に太平洋の島々の住民たちを滅ぼした。では、現代では何が違うだろうか?」
淡々と。
「何が違うだろうか?免疫をその集団が持たない感染症が持ち込まれた際に、起きることは?島の住民達が全滅したときと何が異なるのだろうか?まず考えつくのは医療水準だ。確かに、医療は植民地が流行していた過去よりもはるかに進んではいるだろう。だが、未知の感染症が相手である場合どうだろうか?治療薬は存在するのか?」
教授が淡々とつづける。
「否、発見されたばかりの感染症に治療薬は存在しないだろう。では、薬はない。危険度はどうだろうか?過去に島民達が滅んだときには、治療薬がなく、熱を下げる薬もなかったろう。対症療法さえほとんど存在しなかった。では、現代はどうだろうか?」
「対症療法は存在する。いまも薬がなく、対症療法しかない病も多い。では、そのレベルが上がっているなら、それで対処できるのではないか?その病気に対してピンポイントに効く薬ではなくとも、症状に対して効果があり、救命することができればいいのではないか。――此処で危険度が問題になる。致死率といいかえてもいいものだ。それに、感染の広がる速度」
「危険度に関しては、既に重症肺炎が複数例報告されている点からしても、無視していいものとは思われない。さらに、治療薬がなく対症療法しかないということは、逆にいえば、どれほど対症療法が発達していようとも、その対症療法を施せる限界数を超えれば、簡単に死亡者が出るということにつながるということだ」
言葉を切り、教授が視線を伏せる。
僅かに悼むように。
「治療薬がないというのはそういうことだ。それは厳然とした事実でしかないのだよ。中国の医療技術はけして軽視していいものではない。既に遺伝子治療にまで足を踏み入れようとしている国での、都市と呼ばれる地域の医療レベルが低いわけはない。また実際に、中国の医師達の警告にあった治療に関する情報は、そのレベルの高さを示してもいた。…―――彼らは出来る限りのことをしていた。それでも、患者の治癒は遠くみえた」
教授は当時みたデータを思い返して、遠く息を吐くと、小さくくちにしていた。
「…わたしは、あのデータが間違っていてほしいとおもったものだ。…」
神尾が、同意するように同じく哀しみと嘆きを抱く瞳で、歯をわずかに噛み締める。
教授が、そっと見えない処でわずかに拳を握るのを知るように。
「いくつかのデータが集まり始めた。事は明白だった。アイスランドに出来ることは、鎖国しかない。これは当初から決定していたことだ。問題はそれをいつするか、それだけだった」
ことは、未知の感染症だからね、と教授がつづける。
「未知の感染症で治療薬がない。あるいは、治療法が確定していない。重症肺炎が起き、対症療法しか治療する方法がない。それは、ICUの数が救える患者の数を決めるということにつながる。重症肺炎の治療には、必ず人工呼吸器が必要になる。その管理が。だが、重症肺炎を引き起こす未知の感染症が上陸すれば、植民地時代に免疫のない島民が簡単に感染症にかかり全滅したように、現代でも同じことが起きるだろう。免疫がないというのはそういうことなのだよ。とても簡単なことなのだ。免疫を持たない以上、簡単に人は感染するだろう。そして、もし重症化した際にも治療薬は存在しない。その状態で重症肺炎が起きた場合、救える数はICUの数でしかない。―――では、アイスランドの島民すべてが感染した場合、島民全員が入れるICUはあるだろうか?」
微苦笑を零して、つらそうに教授が言葉にする。
「それはありえない。どれほど医療水準が高い国でも、人口と同じ数のICUを抱えている国は存在しない。通常は、それだけの数が必要ないからだ」
泣きそうにその表情がみえたのは錯覚だろうか。
「経済の水準とか、そういうことではない。それが必要とされれば、それは広まっているだろう。例えば車は、人口以上の数が普及していくことで知られている。便利なもので、必要とされていれば、あっという間に人口より上回ることもそれは有り得る。だが、ICUはそうではない。需要は通常はニッチで、必要となるときが少ない。或いは、必要となる数より少なくとも、その頻度がやはり少なければ、深刻な問題とはならない。例えば、経済問題でICUを必要とするが、利用できない、ということはあるが、―――。そこまで至る病が起きる頻度がある程度以下に抑えることができれば、―――それは残酷ではあるが、ある種の社会ではその社会制度の問題として社会的に許容されうるのだよ」
深い淵を覗き込むように暗いものを湛えた教授の視線。
「それでも、それは大きな問題にはならない。多くの場合、なぜそれが許容されるかといえば、それは社会制度の問題であるとして許される場合があるのは、――それが発生する割合が問題になるからだ」
とても残酷だがね、と教授が続ける。
「重症化してICUに入らなければならないようになる病に人がかかることは、通常、それほど多くはない。あるいは、ある程度の数があっても無視されているのだ。…その是非はおくとして、大きな社会問題化することがないのは、やはりその頻度によるのだよ。哀しい話ではあるがね」
しずかにいうと、深く息を吐く。
「つまりは、そういう問題だった。出入国制限をかけず、人が死ぬに任せる方法もある。出入国を続けることによる利益があるとするなら、それを優先するという話だね?もしくは、制限をかけるしかない。ヒト―ヒト感染する未知の感染症。重症化すれば重症肺炎――人工的な処置を行わなければ生命維持のできない状態となり、対症療法しか方法がなく、治療薬が存在しない感染症であり、免疫を持たない人類はすべて、簡単に感染するとしたら」
とても単純な問題なのだよ、と。
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