Novel coronavirus 22


 二月初旬。



「短くなりましたよ?」

先輩、という滝岡に、悲壮な表情で永瀬が訴える。

「なってなーい!いや、にほんごとしていいにくいー!いやー!もっと、わかりやすいのがいいー!病名もSARS2じゃ、なんでダメなん?たきおかー!」

こどもがだだを捏ねるように、モニタ越しに訴える永瀬に、大きく肩を滝岡が落とす。

 無言で額を押さえて。

 リアクションだけでコメントを寄越さない滝岡に、永瀬がブーイングをあげる。

「えーひどーいー!おまえさんだって思うだろ?もっとわかりやすくしろよーって!第一、コロナウイルス症候群、コロナウイルスによる病気2019みたいな年さえつければそれでいーっていう安易な名前ってどうなのよ?他にもコロナウイルスはいるのよ?他のコロナウイルスの立場はどうなるの?新型コロナウイルスだけでコロナウイルス界は回ってるわけじゃないんだぜ?ヒト風邪ウイルスに、SARSにMERSに、ほらいっぱい」

「落ち着いてください、…――。ウイルス名は先輩のいう通り、SARS2に決まりましたでしょう」

「せーかくには、違うけどな?間に、コロナウイルスとかが入るの。いらなーい。別にさ、それならなんでウイルス名と疾患名が違うなんて面倒なことすんの?疾患名もSARS2でいいじゃん、SARS2で」

「それは紛らわしいでしょう?SARSとは違うわけですから」

「そうだけどー。でも、この略称、ぜっ、…たい、日本では流行らないっ!誰か略して、短くしてー!」

「…先輩…」

駄々を捏ね続ける永瀬に、滝岡がどう言葉をつぐべきか、と悩んでいると。

「それは確かに、略称が決まってくれれば、その方がたすかりますけどね?一応、そのコロナ何とかの正式略称も――いいにくいですが――あるようですから、…?」

「西野」

突然発言した西野に驚いて滝岡が視線を向けるのに、言葉を途切れさせて西野がモニタ越しに見返して。

「あ、すみません。入室したんですが、通知音オフになってましたか?」

「ああ、――こちらこそ、すまん。驚いた。音をいつも切ってるんでな。…先輩、いい加減にしてください。先輩待望の、公式機関が、先日来の新型コロナウイルスによる新興感染症の正式ウイルス名とそれによって引き起こされる症候群に対する疾病名を発表したんですよ?短くなっています、一応ですが。いいにくいくらい何です」

滝岡の説教に、永瀬がうろんな視線を返して、むっ、とくちを結ぶ。

「予言してもいいぞ?ぜっ、たい!日本ではこの名称定着しない。日本語の発音でいいにくいもん」

即座にモニタ内で頷きながら西野が同意する。

「それは僕も同意します。まだ、NCoVとか、無機質な名前の方がよかったですね。まだ長すぎます。まあ、別にコードは付けるからいいんですが」

いいながら、不機嫌に濱野との回線を別に開いている会話を画面の隅に確認しつついう西野に、滝岡が視線を向ける。

「おまえも不満なのか?今回の略称。どうしてだ?」

「…略称というか、ですね。そこの永瀬さんと同じ意見ですよ。どうして、こうわかりにくいというか、―――発生地を名称に入れろとはいいませんけど、病名ですか?それがウイルス名と同じじゃないのもわかりにくいですし、それに」

「それに?」

不思議そうに訊き直す滝岡に、大きくうなずいて。

「…濱野先輩とも話していたんですが、わかりにくいですよ。…それこそ、コロナウイルスによる病気、って、――肺炎でもないですし、そういう病気の特徴を入れずに、どうしてこういう曖昧な名称なんでしょうか?という」

不満そうにいう西野に、うーん、と滝岡が困る。

「そういわれてもな、…」

「逆に聞きますが、滝岡先生はどうして疑問を感じないんですか?肺炎とか、そういう特徴を一つもいれてないのは何故なんでしょう?」

西野の疑問に、滝岡が応えようとして。

 そこへ。

「おそらくですが、――それは、肺炎が主症状ではないからだと思います」

「神尾」

「神尾先生」

唐突に入ってきた声――画像はまだのままだが、―――アクセスしてきた神尾の言葉に、西野達が画面がつかないままの各自のモニタに映る一角をみる。

「神尾ちゃん?それどーいうこと?」

一同の気持ちを代弁するようにきく永瀬の声に、神尾が答える。

「はい、―――文字通り、それは肺炎だけが症状ではないからではないかと思います。この新型コロナウイルス――SARSCoV2が引き起こす病の名称がそうなったということは」

無言で、永瀬が灰色に四角く切り取られたままの神尾がアクセスしてきたことを示す画面を見つめる。

「…そうじゃないってか」

「――はい。ウイルスとしては、永瀬さんもおっしゃっていた通り、ウイルスを構成する遺伝子情報の殆どが同じであるということは、公開データをその後いくつかの機関が検証して、あるいは増殖に成功したことで、遺伝子構造を改めて解析したことでわかってきたことです」

神尾の言葉に永瀬がうなずく。

「うんうん、実質SARS2だよね?SARSの跡継ぎ。で?」

「ええ、――ですが、…違うのだと思います。急激に重症化する肺炎症状がSARSの時と同じように目立っていますが。死者の殆どに報告があるのは、その症状です。いまも、呼吸器症状が一番多く報告されていて、本来なら確かに、急性呼吸器症状といった言葉が、病名にも含まれていておかしくないはずです」

「うん?」

難しい顔で眉を寄せて首をひねる永瀬に、淡々と。

「それがそうならないというのは、おそらく、そうではない、からです。肺炎といった呼吸器症状だけでなく、―――――それがメインではない、ということです」

「これだけ、肺炎で亡くなられていてもか?」

神尾の言葉に落ち着いた声で滝岡が問う。

「――はい。調べていて、報告はまだ少ないですが、剖検で一部、本当に少ない報告ですが、湖北省以外の中国の病院から、中枢神経系からウイルスが発見されたというものがあります」

「――やばくないか?それ」

しずかに淡々という神尾の抑えた声に、永瀬が反射的にくちにする。

「先輩」

「――いや、ヤバいだろ、滝岡。中枢神経系?感染ルートは?症例は?どんな?」

矢継ぎ早にいう永瀬の声に、神尾が首を振りため息を吐いて応える。

「先から探しているんですが、症例としては一例だけしか見つかりません。解剖は一例のみ、――しかし、…」

画面がついていないことにも気付かずに、会議用のモニタを見ずに、ずっと手許のタブレットをみて論文を読みながら、幾つか手許に呼び出して次々と新しく見つけた論文をダウンロードしながらいう神尾に、滝岡が訊ねる。

「神尾。…聞こえているか?一例だが、解剖した例に中枢神経系にウイルスがいるのが発見されたということなんだな?」

「…はい、ええ、―――…しかし、――他には見つかりませんが、それに、他に報告されている症例をみていると、」

「ああ?」

滝岡の声に促されて、応えようとして無言で首を振りため息を。

「噂話や、真偽が不明なものもあります。中国国内からのデータは、かなり報告の数が少なくて、それらが果たして、どこまで、…信用できないということではなく、報告としてしっかりしているのかという点では疑いがあります。あるのは確かですが、…――」

「確かだが?神尾」

滝岡の声を聞きながら目を閉じる。

「滝岡さん、―――…。僕は、当初から、これが果たして肺炎が主症状なのか、本当に疑ってきました。ですから、バイアスがかかってる見方になってしまっているのかも知れませんが、―――…。ですが、これまでにみた症状の報告や、実際に現地から報告されている真偽不明の情報も含めると、――僕にはどうしても、やはりこれがSARSと同じ重症化する肺炎だけが主であるとは思えないんです。SARSの病態も、完全に解明されているわけではありませんが」

「重症化する肺炎、いま表に見えているその一番目立つ病態が主症状ではない、ということか」

滝岡の言葉に深くうなずく。

 その仕草がみえてないことに気付かないまま神尾が深く息を吐いて。

「肺炎が主症状とは思えません。そして、―――公式につけた名称が肺炎を、あるいは呼吸器症状をメインに入れていない、ということは」

「他の病気とかも入っていませんよ?具体的なのは」

言葉を挟む西野に、一つ神尾がうなずく。

 灰色の画面に、うなずく神尾の仕草はみえていないが。

「コロナウイルスによる疾病――そう呼ぶしかないような、曖昧模糊とした病名ですが。それは、確かにその通りなのではないでしょうか?重症肺炎が主ではなく、―――」

「呼吸器が主ではない、と」

滝岡の落ち着いた声。

「はい、肺炎ではなく、受容器が、このウイルスが取憑く受容体がある器官が肺であり、…――まだ確定ではありませんが、二種類程の受容体が候補としてあがっているようです。このウイルス――SARS2が取付く受容体と、それが発現している箇所が段々と判明してきています。そこから考えると、――…おそらく、やはり、このウイルスが特徴として引き起こす病態は、本当に主となるものは肺炎ではないんです。多様な病態をみせて、しかも、おそらくは重症肺炎を名称にさせないような、…――まだみえてはいませんが、何か他のものが」

 他のものがあるんです、と。

「他のものか」

「ええ、――滝岡さん、…これはおそらく、肺炎ではないんです。主となる――中心となる病態は、何か別のものです。結果として肺炎が目立ってはいますが、肺炎が主では無い―――それがおそらく、病名にも現れたものだと思います」

「未確定だけど、それを病名に出来ないくらい?ここまで肺炎が目立っているのに?」

永瀬の言葉に、しばし神尾が沈黙する。

 声もなく、―――唯。

「僕は、…―――何を見ているのか、まだわかっていません。」

しずかに、神尾の声を滝岡達がきいている。

それに気付いているのかどうか。

 独り言をいうように、神尾が。

「一体何をみているのか、…――――。多臓器不全もDICも、終末期に感染症等で起こる症状といえないことはないと思います。むしろ、治療法のない、確定していないウイルス性感染症に対して、対症療法を行っていく際には珍しくない症状です。ですが、…―――」

言葉が途切れて、沈黙が漂う。

 何かを探すように、神尾が。

「…ドイツの例を考えると、不顕性感染は確実にするでしょう。…症状の自覚のない上海からビジネスで訪れた女性と同席したドイツ人が同じ会議に出席しただけで感染しています。…――症状は、少なくとも高熱を出したりはしておらず、とても軽いものだった。その状態で感染力を持っているとしたら」

考えをそのままくちにするように、つぶやくように。

「無症状に近い状態で感染力があると仮定すると、都市封鎖を行った理由としても必然性がみえます。都市を封鎖するしかない。誰が感染しているか、SARSのように重症肺炎を発症してから始めて感染力が強くなるのなら、隔離で済みます。けれど、不顕性感染―――感染していると症状が出ていない状態で感染力があるとしたら、あるいは、はっきりとした症状――発熱等が出てくる前に感染力がすでにあるとしたら、都市を封鎖するしかないのは確実です。誰が感染しているのかわからないのだから、都市ごと封鎖するしかない」

 そして、と神尾が目を閉じる。

「いま、知られている致死率は、10-26%―――或いは、16%…―――。インフルエンザの最低でも十倍以上」

目を閉じたまま続ける。

「中国に封じ込めることが出来なかったら、…――もう、出来てはいませんが、――。渡航の制限は必要ないと国際機関がいってしまっていますからね、――旅客の制限はない」

絶望したその乾きが、声に。

「―――…制限、しなくてはいけなかった。…もう、何人、―――いえ、どれだけの人が死ぬのか、見当もつきません。パンデミックになる。…――どうして、…――――誰も止められなかったのか」

愕然と、茫然としながら神尾が言葉を綴る。

「どうして誰も、…―――。もう誰も止められない。」

「神尾」

 滝岡の声に、初めて目をひらく。

 虚ろに滝岡の映る画面をみようとして、―――――。

「滝岡さん?」

後ろを仰いで、停止したようにしてみる。

「…滝岡さん」

「寝るんだ、神尾。すまなかった、――…少し眠るんだ。」

「滝岡さん?」

リアルにその場にいる―――外科オフィスから、神尾のいる検査室へと移動してきたのだが――滝岡にまだどこか不思議そうにしている神尾に、肩に手をおいて。

「―――おやすみ」

「…――――」

かくり、と。滝岡の差し出した腕の中に、倒れるように眠りに落ちた神尾を受け止めて。

「…神尾ちゃん、大変だな」

「滝岡先生、神尾先生無事確保できました?」

モニタに映るそれぞれから声がして、滝岡が複雑な表情で見返す。そして、神尾が映像を繋ぎ忘れていた為に、その様子がみえないことに気付いて。

「大丈夫だ。一応、寝た。頭も打ってない。これから仮眠室に寝かせてくるから、西野。アクセスを切っておいてくれないか?」

「わかりました」

「たきおかー、かみおちゃん、ていねいにあつかえよー?ものすごく丈夫だけどな?」

「わかってます。第一、そうでなければアフリカやその他の現場に行って生き延びてきてはいないでしょう」

いってから、神尾が寝ているのを確認して屈み込むと。

 一息で、肩に担ぎ上げて、そのまま運び出す。

 ―――あまり、無理をさせてはいかんな。

 隣の仮眠室へ運んで寝かせても、まったく目を醒まさずに眠りに落ちている神尾をみて。

 いかんな、管理者失格だ。

 本当に、あまり無理をさせないようにしなくては、と思いながら。

 いかん、おれもねむい、…――――。

 寝顔をみているせいか、と。

 大きくあくびを手で押さえて。

 すまん、神尾。

 眠気に勝てずに。

 額を押さえると、丁度片側に寄せる形で寝かせた神尾の隣に空いているスペースに。

 目を閉じて、そのまま殆ど倒れ込むようにして滝岡が。

 次の瞬間には、白衣のまま――尤も、神尾もだが―――眠りに就いてしまっている滝岡。

 睡魔に勝てずに、何もかもいまは忘れて眠りに就いている神尾と滝岡の二人が発見されるのは翌朝のことである。



「おまえさんも反省しなきゃーだめよ?」

「…反省してます」

永瀬の言葉にうなだれていう滝岡に、神尾が慌てる。

「すみません、その、…僕のせいで」

「いや、おまえのせいじゃない。おれのせいだ。おれが管理者としておまえに働きすぎだといってやれなかった。おまえに休みをきちんととらせるのが、おれの仕事の一つだというのに」

「いえ、そんな、…――」

真面目に反省している滝岡に、困ったように見返す神尾。

 その二人と通路一つ挟んだテーブルで、ギョウザを酢で食べながら上機嫌でいる永瀬。

 早朝、滝岡総合病院の食堂には、まだ他には誰もいない。

「おごりって、うれしーい。おいしいな!」

「その、永瀬さん、…。そのギョウザ代は僕が」

「ダメだ、ここはけじめとしておれが支払う。…すみません、先輩」

「いいよーん。予感がして、おまえさんも倒れてるんじゃないかと思っていったら、その通りだったもんなー。おれが見つけて起してやらなかったら、おまえさんたち、始業時間が来ても休憩室で寝たまんまだったぞー。起こしにいってやったおれに感謝しろよー」

おごりってやっぱ、格別においしい、と実にうれしそうにギョウザをくちに運んでいる永瀬に滝岡が肩を落とす。

「すみません、…もう少し、自己管理に気をつけます」

「当然!ちゃんとしろよ?滝岡。先輩のいうことはきくもんだ」

「はい、…――」

おとなしく肩を落としてうなずいている滝岡に神尾が当惑して。

「すみません、滝岡さん、…」

「おまえは悪くない。おまえの仕事量に気をつけられなかったおれが悪い。おれ自身も、自分の健康管理が出来ないのではいかんな」

反省しながら、真面目に眉を寄せて考え込んでいる滝岡に神尾が困った顔でみる。

「それよりさ、神尾ちゃん。おれが命じた罰として、その滝岡おごりのわかめの酢の物、食べちゃいなさい。おれの命令だからね?」

「―――はい、ありがとうございます。永瀬さん、…」

困惑しながら、神尾が手許にあるわかめの酢の物――正確にいうと、わかめとタコの酢の物になる――に箸をつける。

「…おいしい、ですね」

「そうか、それはよかった。…食べよう」

「はい、…」

朝の食堂には、まだ永瀬と滝岡に神尾以外の姿はみられない。

 つまりは、休憩室で倒れ込んで寝ていた滝岡と神尾を、翌朝様子を見に来た永瀬が叩き起こして食堂に連れて来たのだが。

「しっかり食っておけよ?食うのは体力の基本だからな。食わないと動けん」

「確かに、その通りです」

うなずいて、いただきます、としっかり朝食の膳を食べ始めた滝岡。

同じく、まず先にその酢の物を食え、と強制的に膳に加えられた酢の物をくちにしながら、ありがたいですね、と神尾がしみじみとしている。

 確かに、寝不足はよくないですね、…―――。

寝ていないと思考も散漫になる。それでは、正確な分析などできない、…―――と。

 すっきりとした酢の物が、頭に活を入れてくれるようだ。

 酢の成分と、タコのタンパク質は、――――自律神経を整えるのにもいいですね。

 免疫力もあがりますから、と、永瀬さんの案外と世話好きでお節介な処をしばらく振りに実感することになりましたね、と反省しつつ。

ゆっくりと、食事を噛みしめる。

 こうして、食事がとれるというのは、有難いことですね、――――。

 しっかりと米をかみながら、次にみそ汁をのんで。

「有難い、ですね、…―――」

「そうだな」

神尾が思わず漏らした言葉に、滝岡が同意してうなずく。

 思わず視線を向けて、ちょっと情けない顔で苦笑する神尾に、滝岡も。

「食おう」

「はい」

 永瀬が、通路を挟んだ隣で一人楽しげに。

「ギョウザー、うん、うまいっ、最高っ」

 ギョウザにラー油を付けて、ほくほくと永瀬が箸を運んでいる。



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