Novel coronavirus 19

「えーと、うん。おれはね?」

「いま、最後の方を確認しました。録画音声を自動的に文字化してくれているのはたすかりますね」

「うん、はいてくー。自動配信のときにもう字幕ついてるもんね。テキストだけ後で確認もできるから楽だよな。文字情報でみるひとも楽、音声だけできくこともできる」

「そうですね。…というわけですから、…―――あんたも、やる必要があるみたいですよ?PCR検査用のサンプル採取。試験スケジュールに組み込まれてますよ。今回配信の添付資料」

「―――資料だけ配付されても絶対に読まないもんなあ…。げろげろ。だから、瀬川ちゃん、おれはね?やりたくないってー」

「おれだって、あんたにテストされたくないです」

「…――――おれと試験スケジュール一緒なの?瀬川ちゃん?」

無言でタブレットで開いている試験スケジュールに瀬川が視線を落とす。

「…ご、ごめん!ごめん、瀬川ちゃんっ、…!瀬川ちゃんがおれの犠牲にならないように頼んでみるからっ!」

「…――――すでに犠牲にはなってるとおもいますが、…」

「瀬川ちゃん?」

ぼそり、と言い捨てる瀬川に首を捻る永瀬を捨てて、ぼそりと瀬川が呟く。

「それでも生配信でみたり、ホールにいってみてしまうひともいるのは何故でしょうね」

 参加は義務でないのに、と呟く瀬川に、突然応えが。

「心理学的に、LIVE配信や映像付の画面での配信は、文字情報だけよりも伝達が良いという話もあるようですが。」

「―――滝岡先生」

 いつのまに、と。

 先程までタブレットに配信画面の中にみていた滝岡が生身でそこにいるのに、瀬川が驚いて無言で見つめる。

 その驚き振りに、戸惑って滝岡が見返す。

「すみません、突然お邪魔して、瀬川さん」

「おれにはいわないのー?ねー、ねー、たきおかー」

「…先輩」

 あきれた目線で滝岡が見るのに。

「だって、おれおまえのせんぱいだしー」

「…先日、育てた憶えはないといわれましたが」

「根に持つっ、暗いっ!滝岡、おまえ根本的に暗いっ!」

「知ってます。処で、先輩」

真顔でいう滝岡に、永瀬が眉を寄せる。

「どーしたんだ?悪い予感がするんだけど」

む、と見返す永瀬に滝岡が淡々という。

「…本多一佐が、この病院を見学したいといってきたのですが」

「―――――げっ、…」

 思わずくちもとを手でおさえて驚いた目で見返す永瀬に。

 ―――本多一佐?

 首を捻る瀬川に、真顔の滝岡。

 そして、げ、と凍りついたままの永瀬。

 かくして、――――。




 滝岡総合病院外科オフィス。

 姿勢の良い自衛官の制服姿と、だらんとした白衣姿の二人が並んで互いに視線を向けて動きを止めている。

「久し振りだな、永瀬」

「――――…永遠にあえなくてよかったぞ?本多」

能面のように整った容姿、とよく表現される本多一佐と、蒼白い顔に無精ひげにもじゃもじゃ頭と顔色の悪さは天下一品の集中治療室専門医永瀬。

 実に仲の悪さを表情に出さない本多と、思い切り顔に出している永瀬の二人をみて、滝岡が僅かに溜息を吐く。

 あきらめた視線に、隣で神尾が不思議そうに見つめる。

「…その、本多一佐は確か、秀一さんの上司でしたよね?」

「上司のときもある。いまは外れているが、基本的に一応、あれも空自だからな、…。勿論、同じ空自の本多一佐は上官というか、上司だ。直接でなくとも大体はな」

「―――そう、なんですか?」

不思議そうにみている神尾に、滝岡が視線を向ける。

「それで、少しは良いのか?」

「え?あ――、はい。ご心配おかけしています。すみません。僕はどうも、このウイルスに関して、ナーバスになりすぎていて、…少しずつ情報も集まってきているんですが。西野さんのお陰で、論文や噂話も集めやすいですからね」

「それはよかった。おまえも、西野も、あまり無理はしないでくれ。一秒でも惜しいと思う気持ちはよくわかるが」

「―――…滝岡さん」

神尾が微苦笑を零して、そっと、ご心配おかけしています、という。

それに、滝岡が微笑んで。

「おまえが無理をしないでいてくれたらいい。身体を保つのも仕事だ。患者さん達がきたときに、おまえが倒れていては、誰も助けられないからな?」

穏やかに微笑んでいう滝岡にうなずく。

「そうですね、…はい。確かに、その通りです。いつでも、その通りですね」

少しばかりくるしいものを思い出すように微笑んで、僅かに視線を伏せる神尾に滝岡が何もいわずに。

「―――でさ、おれって、なんでよばれたの?滝岡。こいつに?用件話そうとしないんだけど」

唐突に、永瀬が本多を指さして、滝岡を振り向いて文句をいってくるのに驚いて見返す。

「ああ、…先輩」

「ああ、先輩、じゃない。もう、忘れてたな?」

 おれと、これのこと、と本多をさしていう永瀬に滝岡が向き直る。

「すみません、…忘れていたわけでは。といいますか、本多一佐。ご用件をお伺いしていないのだが?」

「それは伝えたはずだ。きみと、永瀬、それに神尾先生にお会いしたいとお伝えしたが」

「…―――神尾ちゃんにだけ、先生つけるんだ、…」

冷淡にもみえる整った容貌でくちにする本多に、永瀬がちゃちゃをいれる。

それに、冷たい視線を本多が送って。

「尤も、何故お逢いしたいのかについては伝えていない。そのことになるかとは思うが」

滝岡に向き直りくちにする本多に、ひとつうなずく。

「その通りです。ご用件は何になりますか?ここにいらしたのは」

 本多一佐の制服姿を、神尾が興味深そうにみる。

「いま仕事のお時間なんですか?」

本多が質問した神尾に視線を向ける。しばし、じっと見つめて。

 居心地の悪くなりそうな感情のみえない本多の視線にも、好奇心を隠さずにみている神尾の瞳に、ふと和んだように本多が僅かに微笑む。

「え、…?いま、―――…?」

 驚いてその本多の表情に永瀬が絶句して動けずに。

 柔らかく微笑むと印象のかわる本多の整った容貌に、思わず永瀬が身体を固くしたまま引いている。

 何とも器用な永瀬のようすを、ちら、とみて滝岡が。

「それで、ご用件は何ですか?」

「勤務中になるので、用件については答えられない」

「――――」

困ったように本多をみる滝岡に。

「こちらからの質問に答えてほしい。用件ではないな。その意図については答えることができないが、質問に答えてほしいというのが用件になるか」

言い直す本多に、滝岡が苦笑する。

「…――わかりました。…神尾、かまわないか?」

「別に、その、――答えられることでしたら」

「先輩は?」

「――おれに、なにかききたいことなんてあるの?こいつが?」

いやそうに額にしわをよせていう永瀬に本多が顔を向ける。

 能面のように白く整った容貌に感情の色をのせずに。

「そちらの担当になることもあるときいているのでね。実際に答えられるかどうかはしらないが」

「―――…一方的にケンカ売るの得意だよな?まったく?」

あごを突き出していう永瀬に、滝岡があきれてくちを出す。

「先輩、わかっているなら、買わないでください」

「…購入禁止?」

「そもそも、金額は解っているんですか?予算は?」

「やめとく、…」

こどもに言い聞かせるようにする滝岡と、こどもがすねたようにして横を向く永瀬と。二人に視線を向けず、本多が何処か柔らかい視線を神尾に向ける。

「はい?僕ですか?」

「神尾先生。この感染症には、どのような対策が必要だと思われますか?」

端的に問う本多に、神尾が緊張して見返す。




「滝岡」

「…はい、本多一佐」

永瀬と神尾、そして滝岡にも。

 滝岡総合病院がいま備えようとしている巨大な正体のみえない感染症――新型コロナウイルスと仮称されている新興感染症に対しての質問を幾つかした本多を、敷地の外へと。

 誰もいない病院内の緑地――芝生と樹々が敷地と外界を仕切る公園のように設けられている――の遊歩道を歩いて。

 隣を何もいわずに歩く本多に、短く滝岡が応える。

 そのまましばし遊歩道を行くと。

 青空を仰ぐ美しさに白く咲く花が揺れて、歩道が途切れる場所へと着く。

 病院と外の境に立ち止まり、足を留めて。

 送るのは此処までだと決めている滝岡の動きに、本多が一歩だけ前に進み、その姿を振り仰ぐ。

 本多の無言に、穏やかに滝岡が見返す。

「―――――…」

 それなり、挨拶を返すこともなく、視線を切るように外すと踵を返し前に向かっていく本多一佐を。滝岡が、暫し佇んでその場で見送る。

 そちらに、本多の方に――街に続く外へと一歩踏み出すことはせず、滝岡もまた病院へと踵を返す。




「何しにきたんだ、結局」

 永瀬が、本多を送りにいった滝岡に、手持ち無沙汰にソファにぐでんとなって懐いていうのは、滝岡総合病院外科オフィス。

 その白いソファを置いた休憩コーナーがなにか懐かしいですね、と思いながら、実に久し振りに珈琲をマグに入れて手にして神尾は思ってなどいたりするのだが。

「…――直接お会いするのって、もしかして、久し振りですね?永瀬さん」

「…ああ?でもさ、いつも、割とこうよ?おれ、集中治療室勤務だし、顔出せないことも多いしさ?不規則だしー、しごとー、…と、滝岡、戻ったのか。どうだった?あのあれが本当は何の用事でここへきたか聞き出せたか?」

「…―――先輩、…あの本多一佐がくちを割るわけがないでしょう。無理なことを期待されても困ります」

「まあ、見当はつくけどさ?あいつ、多分、…―――今度、封鎖都市から帰ってくる邦人保護の防疫処置の指揮を執るな。表立ってじゃないだろうが」

不意に真顔になって淡々という永瀬に、神尾が驚いて視線を向ける。

「そうなんですか?」

びっくりして見つめる神尾に、滝岡が苦笑する。

「まあ、多分そうだろうな。秀一が同行から外されたといっていたろう。あちらに行くのでなければ、おそらくこちらで準備することになる。…話をきいたわけではないが。でなくて、用もないのに、ここまできて感染防御の方法や、基本の遣り方についてきいたりはしない」

「まあ、確かにそういったことを聞かれていましたが、…そう、なんですか?でもどうして?」

神尾の言葉に、永瀬が伸びを。

「うん?あいつとしたら、おれはともかく、神尾ちゃんの意見を聞きたかったんだろう。」

「…僕の、ですか?」

「専門家の意見だな。忌憚のない」

「うんうん、神尾ちゃん、忌憚なさすぎだものね?…人類滅んじゃうかもしれないとか、不顕性感染あるかもとかさ?まだ全然しょーことか無かったりするのにー」

棒読みで最後の方を伸ばしていう永瀬に、あきれながら滝岡が一つ訂正を入れる。

「…――それは、神尾の意見でもありますが、その方針で動くことに決定したのは私ですよ?」

神尾の責任ではありません、と続けていう滝岡をじっと永瀬が半分あきれたようにみつめて。

「…そ、だから、おまえさんにも会いたかったんだろうな、あのあれ、能面野郎はな?」

「本多一佐ですか?」

能面という言葉に、滝岡が眉を寄せながら考えてくちにする。

「そうそう、あいつって、昔っから、かわいげないっていうか、鉄仮面っていうか、能面やろうなんだよなー…、ってわけで、神尾ちゃんの意見とかは、ある意味極端にみえるじゃん。それを容認しているおまえさんも、どうなの?ってことで、見に来たんだと思うぞ?あいつ」

勝手に推測して、勝手に結論出しちゃうけどな?と伸びをして左右に身体を動かしながら永瀬がいう。

「…そういうことですか」

腑に落ちる顔をしてひとつうなずく滝岡。

 のびをしながら、永瀬がそんな滝岡をあきれてみる。

「推測だから、責任はとらねーぞ?」

「わかりました。まあ、確かにあやしいでしょうからね」

深くうなずいている滝岡に、神尾が思わず驚いた顔でみて。

「怪しいって、そうですか?まあその、そうですけど、…確かに、あやしいですよね、…」

深い黒瞳を瞠って、思わずくちもとをおさえていう神尾に滝岡が振り向いて苦笑する。

「まあ、そうだ。最大限に備えるのは必要なことだが、もし、という仮定だけで動いているのも確かなことだからな。何が必要で、必要でないのか、それすら、確実な情報が存在しない。何れ、判明するにしても、いまは最大限の出来ることをするしかないが、―――」

滝岡の言葉に神尾がうなずく。

「僕でさえ、不安になりますからね。…滝岡さんは、僕のとんでもない予測に対して、予想以上に対策をとってくれますから」

「だろう?…神尾が不安になるくらいだから、世間からみれば、うちのとっている対策はおそらくやり過ぎにみえるんでしょう。何をしているのかと思われても当然かと」

落ち着いた口調で、どこか楽しげにくちにしている滝岡にあきれた視線を永瀬が送る。

「まあな?…――だから、おそらく対応しなくてはいけない立場になったか、それに助言する位置にいるあいつが、おまえさんたちがどのくらいまともか、見に来たってわけだろう」

「…――まともか、ですか、…そうですね、…」

反省しながらいう神尾に、滝岡が平然とうなずいている。

「まあ、そういうことでしょうね」

「おまえさんね?――まあな、…推測だぞ、すいそく」

「知ってます」

即座にうなずく滝岡に永瀬がおもわず眉を寄せる。

 それに苦笑して。

「実際、あやしいと本人も思っていますよ。――その通りでしょうね。何処まで対策をとればいいのか。それはいまの時点では不明です。とればとるだけいいとはいいながら、その対策には限度もある。必要性のある対策かどうか」

苦笑して、多少自虐的にか、くちにしている滝岡に、もう幾度目になるのかあきれたためいきを吐いて永瀬が。

「おまえさんと、光ちゃんが対策に限度があると知ってたとはおもわなかった、…」

本当かよ?それ?と疑わしいまなざしで見つめる永瀬に、苦笑して滝岡がいう。

「先輩、当然です。一応、限度はこれでも設けていますよ?先輩もご存じでしょう?光に本気で限度無くやらせていたら、…―――」

永瀬の言葉に応えて、思わず想像しかけて滝岡が沈痛な面持ちとなって瞳を閉じた。

 沈黙したままの滝岡に、反省して永瀬がよびかける。

「…――わるかった、滝岡。おれがわるかったからーかえってこーい」

「…すみません」

不真面目な永瀬の呼びかけに滝岡が目をひらいてあくまで真面目に応える。

 それに、頭をかいて。

「いや、おれもわるい。光ちゃんに限度無くやらせてたら、マジで地球レベルじゃなくて宇宙にまで飛び出すよな、…忘れてたわ」

天を仰ぐ永瀬に深く滝岡が同意する。

「それは教授に任せたい処ですね」

しみじみと実感のこもる言葉でいう滝岡に、神尾が訊ねる。

 宇宙って?と思いながら。

「教授というのは、先日の、―――?」

「ああ、おまえも知っているだろう?教授の現在の勤め先の一つはNASAだからな。そこで火星行きのプロジェクトを牽引している一人が教授だ」

「――そういえば、――確か、…人類火星移住計画でしたね、たしか、…」

 以前、教授と会ったときを思い起こして、神尾が半ば茫然としながらくちにする。

 滝岡がそれにうなずいて。しみじみと、遠くをみて。

「いまはまだ火星に人類を送り込んで往復させることが当面の目標だとかおっしゃっていた―――数年前の話だが、…」

 滝岡の言葉に、神尾も遠い記憶を呼び起こすようにして、当時の教授との会話を思い出す。

「…ききました。本当の目標は、少なくともこの太陽系から人類が銀河系を住処にする為の足がかりをつくることだとおっしゃっていましたからね、…」

 ――どうして、いまだに人類は地球上だけを住処としているというのかね?

と、…。

スケールが大きすぎて、実感がゼロだった教授から当時聞いた話を思い出しながら、思わず滝岡と同じく遠くをみてしまって神尾がいう。

人類を襲っているパンデミック――におそらくなるだろうと思われる――その感染爆発の始まりにいて。その場所からながめるには随分と遠すぎる話で。

 当時もいまも教授のお話には実感が全然もてませんでしたけど、…。僕はどうも、地球上のことくらいにしか意識が向かなくて、―――。

 しみじみと、宇宙を目指す人のスケールにはついていけませんよね、僕は、と。

 本気で反省している神尾に、何を思っているのか滝岡が深くうなずく。

「その通りだ。教授のお話では、人類はこの地球というゆりかごにいつまでも住んでいるだけではいけないという話だからな。…人類には、この地球を脱して、生命として宇宙に広がって、生存圏を広げる義務があるんだそうだ」

滝岡もまた遠くをおもわずみながらいうのに、幾度も永瀬が大きくうなずく。

「光ちゃんと教授って、スケールが似てるよな、…」

「やめてください」

即反応していう滝岡に、永瀬が難しい顔で。

 ―――こいつも、自覚ねーんだよなあ、…。

こいつって、自分が普通だとおもってるもんね、と。

おれみたいな普通の医者には、思い切り理解できねーことかんがえてるもんなあ、と永瀬が腕組みしながらしみじみ哀れみの目で滝岡を見ながらいう。

「でもさ、光ちゃんの目標は、医者のいらない世界よ?人類全体が、医者がいらない、病気になる前に予防できる、誰もが健康に人生楽しめる社会の構築が、あの子の目標なんだぞ?」

 眉を大きく寄せてみる永瀬の哀れみの視線に、滝岡が当然のように深くうなずく。

「おれの目標でもありますけどね。勿論、おれたちが生きている内には叶わないでしょうが」

あっさりいう滝岡に永瀬が天を仰ぐ。

しみじみと。

「やっぱ、そーなんだよな、…おまえさんも一見ふつーなのに、なあ、…」

「なんですか?それは?」

本当に当惑して永瀬をみる滝岡に、永瀬が真面目に腕組みしたまま首を振る。

「いーの、一般人の感性に、おまえたちいとこ同士が理解できないだけだから。なんでまた、こうなんだろうな?おまえさんたち、医者でしょ?」

「はい、そうですが?」

不思議そうに理解していない滝岡が見る。

「でもって、目標は医者のいらない社会なわけだよな?」

「はい、当然ですが」

病気にならないのが一番ですからね、といって、不思議そうにみる滝岡に永瀬ががっくりと肩を落とす。

「まあね、…いくらなんでも、おまえさんたちの思考がごくふつーの一般人な医者のおれに理解できると思っちゃいけなかった」

「…――もしかして、それは本気でおっしゃっているんですか?」

深い疑念を持って訊ねる滝岡に、永瀬が顔をあげてみる。

「当たり前じゃん?おれなんて、ふつーの医者代表よ?何なら、医者じゃないふつーのごく平均的な一般人の代表つとめてもいいくらいだもんね!」

 当然、とえらそうに腕組みして言い切る永瀬に、疲れた顔で滝岡が見返す。

「…先輩が、ですか?」

「…――永瀬さんが、ですか?」

滝岡の疑念に、神尾までもがくちにするのに傷付いて永瀬が見返す。

「――えー?神尾ちゃん。おれってふつーじゃん?…傷付くんだけど」

割と真顔でいう永瀬に、一歩引いて滝岡が見返す。

「…正気でいってますか、先輩…?」

 む、と真面目にむっとしてみせて永瀬が。

「勿論じゃん?おれ、ごくふつーの医者よ?別に、集中治療室から無事に患者さん出せればそれでいーだけで、全然っ、医者がいらない社会をめざす!とかいったりしないもーん。極ふつーだしっ」

主張する永瀬に、疲れた顔で見返して滝岡が返す。

「…光を基準にされても、…おれがいうのもあれですが、光と比較してまともだという判断はどうかと思いますが」

「おまえさん。先輩のいうことに文句あんの?」

真剣に永瀬を見つめていう滝岡に。

む、とみあげる永瀬。

「その、…少し、どうかと」

困ったように、滝岡が永瀬に対して極真剣に続けている。

「実をいうと、普通とか、一般的なという概念が理解できているとは言い難いんですが」

「…―――自覚あるんだな?」

「あります」

そこはきっぱり言い切る滝岡に、がっくりと永瀬が肩を落とす。

「…それならさー、おれのこと、一般人代表とみてくれてもいいじゃーん」

別に一般人がどーいうものか理解できてないんだろー?とソファに懐いていう永瀬に、滝岡が首を捻る。

 極々真面目に。

「しかし、実際、理解できていないことに関して、その判断を肯定していいものでしょうか?」

本気で、基準がよくわかりませんから、と真剣に真面目にいっている滝岡に、永瀬が脱力する。

ぐてーっと。脱力して、もういいけどさ、おれ、と天井をあおいでいってみせて。

「おまえさんってさあー」

「はい」

極々真面目でかなり真剣な滝岡を見あげて。それから、首をめぐらせて神尾をみつけて。

「いーけどさ、神尾ちゃん」

「は、はい、僕ですか?」

驚いて、完全に二人の問答を見つめていた神尾がいう。

傍観者としてつい観察していた神尾に、永瀬が淡々と。

「つまり、神尾ちゃんとしては、対策で現在打てる処は全部打ったの?多少落ち着いてるみたいだけど?」

「ああ、それですか、…――」

 沈んでいるのか、それでも落ち着いた視線で永瀬を神尾が見る。

「僕の、…――出来る範囲で、いまできることは終わりました。これ以上、いま出来ることはありません」

穏やかにいう神尾に、永瀬が無言でみつめる。

 それに、静かに微笑んで。

 あきらめと、焦りを何処か深くに持ちながらも。

「――検査体制は整えました。――一日約三千件程――しかも最大でしかありませんが、…――。実際には、二千件程になるでしょう。結果までに、時間もかかりますが、いま出来るそれが最善です。…後は、出来ることは、患者さんが来たときに対応することしかありません。…西野さんの協力も得て治療法など、最新の情報を常に収集出来るようにしてもらいました。更新されていく最善の治療法を、いまも追いかけています。――常にそれを、最善を尽くしながら対応していくしかありません」

 しずかに、あきらめを飼いながら。

 そっと、神尾が微苦笑を零しながら付け加える。

「尤も、論文検索には人力もいまだに必要ですけどね?AIだけに任せておく訳にもいきませんから。―――それに、ネットワークに乗らない情報に関しては、いままで通り集めていくしかないものもあります。それに」

これまで集めた情報を思い返すようにして、神尾が視線を伏せて。

 静かにくちにする神尾を、永瀬と滝岡がみている。

「やるだけのことをやるしかありません。これから、どうなるのか、―――」

中国の一都市から始まった感染爆発は、周辺の地域を巻き込み、他の都市へと広がっている。その国境を越えて既に患者は各国で確認されてきており、最早どの国で感染が広がり始めてもおかしくない地点にいる。

 世界に、この感染症は広まっていく。

 最早、それを避けることはできない。

 防疫の初期段階は既に終了してしまったと。

 ――予測という段階はすぎて、…――――――。

 坂を転がり落ちるのを、見ているのに止められない。…

 滝岡が、神尾の名をしずかに呼ぶ。

「神尾」

「…僕は、――最早、各国にこの感染症が広まるのを防ぐ機会は残念ながら失われたと思っています。それが出来た機会は、最早失われました」

 落ち着いて何処か見える神尾を、痛ましげに滝岡が見つめる。

 それから、少し滝岡が苦笑してみせて。

「そうだな。…おまえは、本多一佐にもいっていたが」

「ええ、…――最早、世界に広がることを防ぐ機会は失われました。そのことは、もう考えても仕方がありません」

 本多一佐が来た際に説明していた神尾の表情を思い返して、滝岡が気遣うような、…――言葉でなく唯見守る視線で、そう言い切る神尾を見つめる。

 その滝岡に、淡々と腹が据わったように見返して神尾が軽く微笑む。

「仕方が無いことです」

「――そうか、…」

滝岡が僅かに目を細めて、視線を伏せて。

 そっと、おだやかに。

「怖いな、確かに」

「…―――滝岡さん」

痛みを、言葉にせずに佇んでいる滝岡に、神尾が落ち着いた視線を向けて。

 それに気付いて、滝岡が顔をあげて苦笑する。

「こわいのは確かだ。――…まだ、患者さん一人さえ診ていないのになにを、といわれるだろうが」

少しばかり、揶揄するように呟くように問う滝岡に。

「いえ、そんなことはありません」

「――――神尾」

微苦笑を零してみる滝岡にうなずいて。

「未知の感染症―――新興感染症を前にしたときには、いつでも怖いものです。――致命率も、感染経路も、何もかもわからない。何より、―――」

 神尾が一度言葉を切る。

「…――治療法がわからない。地図が、羅針盤がない。これがどれほど怖いことか。…」

「…神尾」

 はっきりと、ひとつ神尾がうなずく。

 滝岡をみて、しっかりと。

「…治療法がないということが、一番怖いことです。どう治療していいのか、まったくわからない。何が悪化の原因なのか、…――どうしたら、なおせるのか地図がない」

 それが一番こわいことです、という神尾に。

 深く静かに夜の底に潜むものが。

 恐怖の正体、―――。

「そうだな。…その通りだ」

 どうすれば、治療できるのか。

 救命するための、大切なポイントは何処にあるのか?

 知らないまま投げ出された航海ほど、おそろしいものはない。

 おぼれるまま海に命綱さえなく投げ出されたような。

「…患者さん達を、―――どうすれば救えるのか」

「それがわからないのは、一番怖いことです」

 真顔で言い切る神尾に、滝岡が微苦笑して幾度もうなずく。

「そうだな、…。それが本当に怖い」

 そして、ふと視線をやって。

 永瀬が、いつのまにか、ぐーぐーと休憩用のソファに平気でまた寝転がってねむっているのに滝岡があきれて。

「まあ、…いいか。…―神尾」

「はい?」

滝岡が穏やかな視線を向けて。

「俺達も寝るか。休んでおこう。体力は必要だ」

「――そうですね。…そうです」

 神尾も、寝転んで腹を出して寝ている永瀬に、半ば感心して微苦笑を。

 僕も、…――――。

 言葉にできずに、何処か、平和な永瀬の寝顔に苦笑して。

「――はい」

 痛みは、言葉にできない。

 世界は、―――――。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る