Novel coronavirus 17
教授との会話が終わって、息を吐いて神尾が椅子に身体を預けて、苦笑しながら、もう一度息を吐く。
――以前にも、とんでもない人だと思いましたが。…
数年前、教授と直に会って話した際には。
その壮大な目標と――尤も、教授本人にいわせれば、直近の小さな目標ということになるらしいが――目指すものを見据えて動かない、あきらめない強さとそのタフな精神の明るさに目が眩んだものだったが。
――いまも、何ていうか、…――。
どちらかといわなくとも、ネガティブな方であることに自信のある性格の自身からしてみると。
――とんでもない人ですね、やはり、―――――。
そして、いつ会っても、あるいは今日のように会話しても、強い信念に支えられたその力を、こちらまでわけてもらえたような、そんな気持ちになる。
――秀一さんに感謝しないといけませんね。…
滝岡を通して、秀一から、いまアイスランドにいる教授との対話をセッティングされたという連絡が来たときには。どうしてだろう、と思ったものだが。
――おまえも、一度会ったことがあるそうだ。
そう、滝岡から聞いたときには、あまり意味が解っていなかったが。
――…僕の為ですね、どう考えても。
情けないなあ、と少しばかり椅子に身体を預けて。だらけた格好で力を抜いて天をながめて。
「…――ありがとうございます。」
涙が、あふれてくるのを。
とめどなくあふれてくるのを、とめずに神尾はしばし動かずにいた。
幾人も、幾人も、…この厄災で人が死んでいくのを止めることができない。…―――
それがわかっているのに、とめる力がない。
当たり前すぎる、一個人の、―――――。
無力な。
わかっているのに、止めることができない。
涙が頬を伝うのを。
落ちていくなみだを、神尾は留めることをせずに、天を仰ぎ。
唯、――泣いていた。…
世界に、この災厄が広がっていくのがみえているのに。
なにもできずに、…―――。
「…神尾くんは、大丈夫かね?」
「おれに訊くな。」
教授の言葉に、あっさり切り捨てる本多一佐に、眉を寄せて見つめ返す。
「…酷くあっさりというものだね。まったく、きみは。少しは、慰めるとか、大丈夫だと思うとか、その類いのことはいえないのかね?」
「保証できないことをいってどうする。そもそも、おれは、滝岡になら多少の面識はあるが、あの神尾先生とかにはないぞ?」
「―――いいのだがね、…。きみにいう方が間違っていた」
「当然だ。で?」
「で、というのは?」
秀一がセッティングした対話が終わり。
個人回線を別に開いた通話で、あらためて兄弟――という事実がどうにも座りが悪いものだね、と教授は思うのだが――が、今度は互いに顔のみえる状態でモニタ越しに対話しているのだが。
教授が眉を寄せてあきれた顔でいう。
「で、というものだよ。きみは、何の目的があって、先程は無理矢理邪魔をしてきたのだね?さらにいうなら珍しくもこうして会話しようなどと」
「確かにな。実をいうと、あの神尾という先生に興味があった。滝岡の部下になるという点もだが。どうおもった?」
「神尾くんをかね?人物について?」
「そうだ」
あきれを隠さずにまじまじと本多教授――名字は同じになる――が、本多一佐を見つめる。
「きみが、人物像について人に訊くのかね?」
「いけないか?」
「――天変地異が起こりそうだ。…いや、すでに起こっているというべきかね?」
「きさまな、…。腹に据えかねていることが常々あるんだが、いっていいか?」
「いいたまえ、どうぞ?」
ふう、と本多一佐が息を吐く。
横を向いて。
「あんたは本当にな、…第一、長男のくせに、何故、跡を継がない!形だけでもいいから結婚して、うちの娘を一人養子にして跡を継げというんだ。まったく」
「そういう形ばかりのことをしてどうするというのだね。…跡はきみが継げばよかろう。すでに子供も三人もいるのだから。かわいそうだが、一人に婿養子を迎えて跡を継がせればよかろう。家を出た私に跡を継がせようとしているのは、きみくらいのものだよ」
「当然だ。あんたは長男なんだぞ?まったく、…――家族会議にも、冠婚葬祭にも、一族の行事も全部出ずに、人に押し付けて世界中を好きにふらついて歩くなどと。まったく」
憤懣やるかたない、といった風をまったく隠さずにいってくちを結ぶ一佐に教授が笑う。
「すまんね、私は昔から好きなことをやりたくてね。弟がいるのだから、押し付けて好きに生きるのは長男の特権だろう」
「…―――間違っている。日本では、基本的に本来、家は長男が継ぐものなんだ。本来、我慢するのは長男のはずだろう。順序を守れ。いつかは考えを改めてもらうからな」
いまだに本気でいっている一佐に、ある意味感心しながら教授が見つめて。
「きみは、…しつこいねえ、…」
「あんたの弟だからな。で?」
「で、とは?」
とぼける教授に一佐が続ける。
「勿論、神尾氏のことだ」
「しつこいねえ、…。それに、それだけではなかろう?」
「わかっているなら、さっさと吐け」
「―――言葉使いが美しくないね。なおしたまえ」
「知るか。で?」
胡散臭いものを見る目付きで一佐が教授を斜めに見据える。
それに対して。
「神尾くんの人物評価かね、…。どうせ自分で決めるくせに」
「いいだろう、吐け」
「――まったくね、…きみの教育をした憶えはないが」
「当然だな。で?」
ふう、と教授が溜息を吐く。
「要は、大袈裟すぎないかということかね?かれの危惧しているパンデミック――この新興感染症が、地球上に広がるかどうかということがね?」
応えない一佐に、天を仰いで。
「…かれは確かに、繊細でとてもナーバスな処があるがね。…基本的に、本来は随分とタフな人物であるとはきいているよ」
「他人の評価はいい、あんたのだ」
ちら、と嫌そうに教授がみる。
「きみはね、…。私に、かれのタフさについては解らないが。ある程度図太くなければ、アフリカでエボラ出血熱の対策で現地対応するなどということはできなかったろうからね。いまは、研究機関も出て、滝岡くんの処で働いているようだが」
「そこだ。何故、高度医療が難しい地域でエボラ等の対策をしていた人物が、いま日本で働いている?」
「さてね。きいた限りでは、日本の防疫に危機感を憶えて、戻ってきたらしいが。それこそ、聞いた話だよ。人からね?」
「―――…どう思う」
一佐の視線に、考えるようにする。
「かれは本気だろうね。だとしても、かれはいま対策を進言出来るような立場にはない。地道に基礎研究を続けているようだが。これまでのように、国際的な組織に直接足場を置いていない状態でこの危機を迎えたことに対しては、――焦ってもいるだろうね」
「焦っているか」
「そうでなくてはおかしいのだよ。本来、感染症の公衆衛生に関して、少しでも関心を持っている人物ならね、…。あきらかに、人類が下手をすると実際に滅ぶかもしれない状況を目の当たりにしているのだから」
淡々という教授を一佐が見直す。
「あんたもそういうのか。―――本気か、それは」
「どれがだね?」
間を置いて一佐が訊ねる。
「先は、随分と希望を持たせることを神尾先生に向けて話していたが?」
それに少し微笑んで、教授が視線を伏せる。
「きみだって、わかっていたろうに。いや、神尾くんにさえ、解っていただろうがね」
何処をみるのか。教授が顔をあげて、しずかに何かを見据えるようにして。
「あれは、私にいいきかせていたのだよ。絶望はたやすい。とても簡単なことだ。そして、いまは夜でも、必ず夜は明けると、…―――――」
そっと、教授が目をとじて。
「私自身に、いいきかせていたのだよ。神尾くんに向けてとしながらね。…――世界は、暗闇に落ちる。底に落ちているときの苦しさは、想像を絶するだろう。夜が明けるなどと、世界の何処かで夜が明けているなどということは、何処までが、その夜の唯中にある人達にとり、希望になどなるというものかね?」
「…―――」
無言でいる一佐に向けてか、それとも。
「苦しい夜に、必ず夜は明けるといわれても、―――何を、…信じられるものか。恐ろしい闇の最中にあるときに」
それでもね、と。
「それでもね、――信じなくてはならないときがあるのだ。…夜が明けることを、くるしくても、明日があるということを。…信じられなくても、信じるしかないときがくるということをね」
「―――あんたはな、…。彼女に、なぐさめてもらえばどうだ。…また、振られたのか?」
眉を寄せて、淡々と能面のように整った容姿でいう一佐に。
心なしか肩を落とし、遠くをみる教授に肩をすくめる。
「わるかったな。…あんたも、この危機に彼女のいるアイスランドにまで行くけなげさをもっているくせに、―――…いまだにふられつづけているんだからな?」
いいかげん、あきらめたらどうだ、という一佐に遠くをみる。
「…いい友達だからね、いまも、…」
しみじみと氷雪の山脈をみる教授の背中に、一佐があきれた視線を送る。
「がんばれよ」
「ありがとう、…」
モニタに背を向けて、教授がしみじみと遠く空を眺めていう。
「まあ、それでも神尾くんは滝岡くんの協力を得ているからね。神尾くんの人物とか、判断について知りたいのなら、秀一くんに頼んで滝岡くんと直に会うことだ。きみも元々知り合いでもあるだろう?最近のかれを知りたかったら、会ってみることだ。かれも光くんも相当に変人だが、…―――あの二人は、本当にタフだからね。特に滝岡くんは、一見普通にみえるが、光くんに劣らないほどの変人だよ。何しろ、いまの日本で、誰にいわれなくても病院全体を感染防御して、さらに、市中感染が広がっている前提で対処を続けようとしている。光くんから聞いた話では、既に取り壊し前の病棟を利用して、再生して専用病棟にしようとしているのだからね」
「―――来ると思っているわけか」
まあ、両方が変人なわけだが、と光と滝岡についていう教授に、ぼそりと一佐がくちにする。それに、教授が沈黙して。しばし、考えるように一佐もさらに聞かず、唯しばらく、遠くアイスランドの空を眺めるようにして。
離れていながら、同じ遠い空を見つめて。
「兄貴」
「なにかね?」
しばしときを於いて、一佐がゆっくりとくちにする。
「あんたのような伯父でも、顔をみないでいると寂しいという姪もいるんだ。それに、あんたが顔を出さないでいると、長老やら何やらがとてもうるさい。…どうせ、いつもアメリカだの何処だのとうろついて回っていていつかないんだがな」
「うむ?」
「出入国規制があるということは、しばらく顔は出せないということだろう。日本に戻るのはいつだ?」
「さてね。しばらく、こちらで過ごすことにはしているが」
「―――…あまり、そちらに迷惑をかけるなよ」
「わかっている。…いや、多分だがね。あちらに迷惑をかけるのは、彼女達も想定内という処だろう。いかにも、私はいつも予想外のとんでもないことをしでかすようだからね?」
「…――――まあ、余程のことが無い限り、そこから出ないでいる限りは、危険も少ないだろう、…あんたのことだから、予測はできないがな」
最後に溜息を吐く一佐に、否定せずに教授が空の遙か遠くを仰ぐ。
「うむ。必然性があれば、どうしようもないものだからね。だがしかし、いくら私でもしばらくは大人しくしているだろう。…少なくとも、感染症は確かに専門外だからね?大丈夫だとは思うよ」
「―――…本人さえ先のみえない保証はしてくれなくともいい。…」
「すまんね」
「いい、…。どうして、本人さえ予測できないとんでもないことに、いつもあんたは巻き込まれるんだか。…その度に、対処するよう呼ばれる身にもなってくれ」
「…そうはしたいのだがね?」
「―――おやすみ。忠告は受け取る。滝岡に直に会ってみよう」
「それがいい。きみが求めているヒントも、かれに会えば解るだろう」
「――――…」
それを、いま通信が切れる間際にいうか?と。
本多一佐が眉を寄せて、険しい顔でモニタの灰色になった画面を眺める。
――まったく、どうせ見抜かれているとは思っていたが。いつもながらに気分の良いものではないな、まったく、と。
腹を立てながら、遠くアイスランドにいる兄の顔を思い返し、面白くない顔で首を振って。一佐は通話に使用していた機器を仕舞うと、暗幕に覆われた部屋を出ていた。
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