Novel coronavirus 16
「そうですね、…。僕も基本的な対策は変わらないと思います。本多さんがいわれている通り、人間の生物としての性質が極端に変わった訳ではない以上、空気呼吸をして、肺で酸素二酸化炭素のガス変換をしていることに変わりはありません。皮膚のように保護されていない粘膜が露出している箇所は主に目と口と鼻であり、この弱い部分が感染経路になること。感染した場合に、ウイルスが排出される可能性が高いのは、口と鼻、そして、便と尿ということも、生物として変わりは無い訳です」
深くうなずいて生物として感染に関わる弱点と、ウイルスを排出する経路についていう神尾に教授がうなずく。
「その点でいえば、感染症でよくいわれている基本的な対策が重要ということだろうね。感染源になるといわれているのは、トイレ、そこから出る下水。さらに、ドアノブなど人の手が多く触れるものは感染を広げる可能性が高い。接触については、そうしたことだろうね。日本では下水の管理は出来ていることだろうが、飲水に影響しないように、そこは用心しなくてはいけない。さらに、インフルエンザ等と同じように、飛沫を飛ばさない為にマスクをするということかね。これは、体外に露出している粘膜部分であり、感染に弱い身体の部分を守る為にも必要なことだ。それに、ウイルス排出箇所であることを考えれば、感染させないことの為にマスクをするのが大事だね。感染しない為の防御であるなら、もっと目の細かい、N95マスクなどが必要だが、あれは実用性が低いからね。あれを着けて日常生活をすることはできない」
「さっさと、宇宙服のような仕組みをもっと簡単に装着できて楽なものが発売されればいいんだがな」
教授の言葉が終わるかどうかというすぐに、本多一佐がさらり、と付け加える言葉に滝岡が笑む。
「それは、…――最近、こちらでも話題になりました。特に光が、常々、宇宙服の簡単なものを作れといっているようなんですが」
楽しげにいう滝岡に、本多一佐が興味を持った風に視線を送る。
「そうなのか?光さんというのは、確か、きみのいとこの、―――神代光氏か。ボストンでは世話になった」
珍しく穏やかに微笑んでいう本多の容貌が。しずかに整っているだけ普段は能面のように怖いといわれる印象を覆して優しげにみえるのを、映像が届かないいま誰もみてはいないが。
滝岡が、その雰囲気に対してか、こちらも穏やかに少しばかりうれしそうに応える。
「確か、光があちらで小児患者さんの手術をした際のことですね?承っています。あれから、術後はいかがですか?」
「ああ、…――随分と元気になっているよ。あちらからも感謝のビデオレターを送るといっている。実は、先日誕生日を迎えてね。祝いのカードが届いた。あれも、あの子と新しい誕生日を迎えられるとは思っていなかったから、とてもよろこんでいた。しばらくしたら、直接連絡が行くと思う」
穏やかに、何処か泣くのを――うれしくても零れるような涙を――こらえているように、笑みを僅かにのせて、本多一佐がいう。
「うれしいですね、…ありがとうございます。光に伝えます」
滝岡も感動と穏やかな微笑みに涙を僅かばかり堪えるようにして。
二人の間に流れるうれしみでしばし言葉にできないような沈黙に。
「それは、うれしいことだね。…神尾くん、我々は、忘れてはならない」
「…――教授?」
雪に輝く山脈を背に教授がしずかにくちにする。
「…忘れてはいけないよ。いつでも、人は生きているのだからね。この新興感染症だけが、人の持つ問題ではない。それがあってもなくても、人は生きていかねばならないのだよ。人には、そして、まだまだ未熟な点が多い。科学技術などというものも、あれのいうことではないが、けして、万能でも、また成熟しきったものでさえないのだ。いまだ人は、この太陽系の中でさえ、自在に動くことはできないのだからね?隣の惑星である火星まででさえ、まだ一歩も人類は足を踏み入れてはいないのだ。まだまだ、その程度の力でさえ手に入れてはいないのだよ」
教授の微笑みに、神尾が眩しいようにみる。
あるいは、その背に映る山脈の雪が眩しく白いように。
「神尾くん、パンデミックは起こる。その鳥羽口に我々はいるが、おそらく、それを防ぐことは人類にはできない。それが広がることを防ぐことなど出来ないのだよ。一度、出現したウイルスを、人類は完全に封じ込めることなどできる能力を持ちはしないのだからね」
「――――…はい」
噛みしめるように、言葉をきく神尾に。
そっと、本当に優しく、哀しむように。
「それは仕方の無いことなのだよ。いまの人類はその力を持たない。…だからといって将来、その方法を人類が開発せず持つこともないということではないのだよ。人は、月を目指した。そして、月に到着した。次は火星を目指している。火星にも着くだろう。」
後、幾らも経たない内にね、と確信をもって。
「人はこの地球だけに住む生命体では終わらないだろう。私は確信している。かならず、人類はこの地球から外へ出て、宇宙へと広がっていくだろう。人類の生存する舞台は、この惑星だけでなく、広がっていくのだよ。いまはまだその過程、人類は幼年期にいるにすぎないのだからね。ある物語の名称を借りればだが。世界は、確かにいまはまだ地球上とその成層圏を取り巻く月に届くかどうかの僅かな内部に限られているにすぎない。けれど、いつか人類は必ずに、その世界を銀河系へさらなる宇宙へと広げていくのだよ。そうしたときには、想像もつかない多くの未知の世界が人を待ち受けていることだろうね」
だからね、神尾くん、と。
「教授」
「だからね、神尾くん。忘れてはいけない。私達人類は、まだ小さな一歩を印したにすぎないのだ。地球上から、月にその一歩はいまも残されている。しかし、まだまだそれだけのことでしかない。いまだ人類の達成するべき行程は沢山残されているのだよ。私達はいま火星へと行く為のエンジンを開発している。ロケットに居住区も同じだ。ジェイク達は、その閉鎖空間の中で、いかにしてケンカをせずに火星までいって戻ってこられるか、心理調査の為の試験を行って閉鎖ブースに閉じ込められる実験を体験している。燃料も研究の最中だ。そして、きみにも以前訊いた通り感染症をどのように防ぐか、あるいは持ち込まないか。そうして、宇宙線の影響で人の肌や腸内に棲む微生物などが変異して病原性を持たないかどうか。そうした議論も並行して行われている。知らないこと、解らないことが我々にはあまりにも多い。だが、…――人はね、まだまだ学んでいる最中の生き物なのだ。挑戦しこれから先により良い方法を見つけ出す為に、まだまだ学んでいる最中の生き物なのだよ。人というのはね」
「学びの途中、…――ですか」
涙を堪えることができずに、神尾がつぶやく。
それに、きこえてくる気配には気付かぬふりをして。
「世界はね、神尾くん。人にとっていまだに広い。人類にとってこの世界はいまだ地球上だけを生息圏としてるとはいえ、それでもまだまだ充分に広いのだよ。」
教授の言葉を神尾がしずかにきく。
涙が、無言であふれそうになっているのを。
「――世界は広いのだよ、神尾くん。この感染症という災難は大きな災厄として人類を一時暗闇に落とし込むだろう。それでもね、神尾くん」
「はい」
泣きそうな、それでも。
「おそろしい災厄は、これまでも幾度となく人類を襲ってきたのだよ。その度に、人類は強くなって蘇ってきた。あるいは感染症に対してすらね。遺伝子に情報が書き加わり、あるいはつい最近になって手を洗い清潔な水を飲み顔を洗う。そうした単純なことが効果を持つということを学んできたりもした。人はね、確かに愚かだが愚かなだけの存在でもないのだよ」
「――教授」
苦しいように、それでも微笑む神尾に向けて。
「神尾くん。世界には、確かに愚かとしか思えないようなことも起こる。それでも、人類は、それを乗り越えていくだろう。多くの人が亡くなり、傷付くだろう。恐ろしいことがいま起こり始めている。けして、それを変えることはできない。最早、始まってしまったのだ。終わりのときが始まるという人もいるだろう。けれどね、神尾くん」
「――はい」
そっと、眸を伏せて。しずかに。
「私は、―――…痛いとおもう。多くの人々が亡くなり、まるでそれは終わらないようにもみえる。どれだけの人々の命が失われるのか、それは私には解らない。だがね、神尾くん」
そっと眸を伏せて、何かを見つめるようにして。
「それでもね、明けない夜は無いのだよ。…けして、明けない夜はないのだ。…その希望がどれほど遠く不可能に思えるときがあってもね、けして、明けぬときはない」
闇夜が永遠に続くと思えるときがあっても、と。
「夜が深いときに、明日は陽が射すと告げることには勇気がいる。それを信じることには、力がいるだろう。それでもね、それでも、夜は明けるのだよ」
教授の優しい言葉に神尾が少し目を閉じて。
「闇がいかに深くとも、明けぬ夜はないと」
「確かなことだよ。地球は自転しているからね?太陽は、いつかは昇るのだよ。確実にね」
何処か悪戯気にいう教授に、神尾が笑う。
「…教授」
「違うかね?そして、世界の何処かで、必ず陽は昇っているのだよ。きみの周りが闇に包まれているように思えるときでも、必ず、何処かで夜があけているのだ。世界はそうして、闇から抜け出していくのだよ」
「抜け出しますか」
穏やかな滝岡の声がそっというのに。
教授がうなずいて。
「そうだとも。人類は必ず闇を抜け出す。私は確信している。けして、あきらめる必要はない。明日は必ずくるのだからね」
穏やかに明るい確信をもってくちにする教授の表情に神尾が苦笑して息をつく。
「…そうですね、――本当に」
「明日はくるのだよ、どんなときにでもね」
そうして、人類は進んでいくのだよ、と。
まだまだ、とても幼い人類だけれどね、という教授の言葉に。
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