Novel coronavirus 15

 アイスランド。

 一月。


「久し振りだね、秀一くん、あのときはお世話になった」

教授が画面に現れてあいさつするのに、画面を調整しながら、秀一が応える。

画面に映る教授の背景は、美しい巨大な氷河を頂いた山脈と薄い青空だ。

「いえ、こちらこそ、あのときはお世話になりました、―――…すみません、こちらの調整がうまくいかなくて。あれ?画面でないな、…。」

音声だけが出て、画面が映らない秀一に教授が微笑む。

「いいではないかね?電話しているようなものだよ。こうして、複数が会話できるというのも、しかし、おもしろいものだね」

楽しんでいるのが伝わってくる教授の言葉に、秀一が恐縮する。

「ええと、――僕の方からの画像はあきらめてください、…あとで、直ったら、――――。にいさん、参加してる?」

秀一の呼びかけに滝岡が首を傾げる。

「多分、これでいいと思うが。西野がいないから、実はよくわからないんだ。すまない」

「…僕は入れているようだと、思うんですが」

滝岡の声に続いて神尾がいう声が届いて、教授が微笑む。

 痩せて鶴のような眼鏡を掛けた教授は、いつもとかわらないきちんとしたスーツ姿で。茶のツイードも白いシャツにネクタイも以前とあまり変わらない姿で、楽しそうに滝岡達の会話を聞いている。

「本当に面白いものだね。こちらからの画像はそちらに映っているのかね?秀一くん達。」

「はい、こちらからは見えています。お久し振りですね、教授。秀一がいつもお世話になっています」

穏やかに微笑んで礼をいう滝岡に、教授が面白そうに。

「それはよかった。こちらから、やはり君達の画像は一つもみえていないが、これもいいのではないかね?」

美しい氷雪をいただく山脈と美しい薄青の空。

 美しい空を背景にいう教授に、滝岡が苦笑する。

「そちらは良く晴れていますね。こちらの背景は病院の壁ですから、なくてもいいかもしれません」

「ああ、良い天気だからね。外は無論寒いが、中は快適だよ。こちらに来る度に思うが、空気がやはり澄んでいるね」

教授の言葉に滝岡がうなずく。

「そうでしょうね。行ったことはありませんが、いつか、一度はそちらへ行ってみたいものです。そちらはいかがですか?状況は?」

「ああ、こちらは、何も変わってはいないね。昨年には既に協議していたから、今年に入ってすぐに準備を確認して、島国だからできる国境封鎖を行って、外からの出入りを禁じてね。いまは感染した人を見つけて、捜査している処だよ。それにあわせて、確率的に感染がどこで広がるのかを調べる為に、ランダムに検査要請連絡と、それによって判明した箇所への指導と隔離、追跡調査等を行っている処だ。粛々と、という処かね」

いつも少し楽しそうに何事もいうのが教授の話し方だが、いまも少しばかり面白がっているようにあっさりという対策に滝岡が驚く。

「そうですか、…参考になりますね。確か、感染者の発見は一桁?」

「まだそうなるね。だが、此処は島国だ。医療は高度だが、住民も少ないからね。新型コロナウイルスの正体がわかっていない以上、過剰であろうと、まず国境封鎖は必要なことだからね」

穏やかに微笑んでいう教授に滝岡が感心する。

「確かに、それが出来るのなら一番ですね。しかし、今回、教授がそちらにおられるのは偶然なんですか?」

「何かね?――ああ、私がいまアイスランドにいることかね。滝岡くん」

「はい。その通りです。いま、そちらで行われている対策には関わっておられるんですか?」

滝岡の問いに教授が微笑む。

「いや、そうではないよ。彼女達は常に賢明だからね。私も多少相談には乗ったが、今回の政策には関係はない。こちらへ来たのは、単にいつもの調査のついでだよ。珪藻のね」

「相変わらず、珪藻お好きなのはかわらないんですね?」

教授の言葉に秀一がくちを挟むのに、微苦笑を返して。

「勿論だとも。私の一番の愛は珪藻に注がれているからね?皆、間違うのだが、私の専門は珪藻だよ」

微笑んでいう教授に、秀一が天を仰ぐ。

 滝岡もしばし沈黙して。

「ええ、はい、そうは聞いています」

「滝岡くん。まあ、いいがね?しかし、神尾さんかね。こういう処で会うとは思ってもいなかったね?いるかね?神尾さんは?」

「あ、おります、…――います、神尾です。以前、一度だけお会いしたことが?確か、アメリカで?」

「そうそう、そうだよ。よく憶えているね?ヒューストンでお逢いしたことがあるはずだよ。あれは、五月の夕方だったかね?一緒にジェイクのバカがいたかと思うが」

「――――…お名前までは憶えていませんが、確か、宇宙飛行士の方が一人いらっしゃったかと。…それに、NASAの微生物学者でリン・ストーン博士が同席していたかと」

「ジェイクは忘れられているかね。まあ、あれは単なる飛行士だからね?」

面白そうに此処にいないジェイクをからかう発言をして、教授が人が悪そうに笑む。

「確か、あのときは火星に微生物がいた場合にどうするかと、逆に地球から持ち込まれる微生物をどのように防ぐとかという話だったね。隔離と検疫についても、火星から帰還した宇宙飛行士達をどのように安全に連れ戻した後に検疫するかという話だったかね」

教授の言葉に少し思い出すように首を傾げて。

神尾が当時教授達と交わした会話を思い出しながらくちにする。

「そうでしたね、…。興味深かったのは、NASAでも月に人を送ったときと同じように、隔離検疫を火星から帰還した場合にも行おうとしていたことです。その場合、長期に渡る宇宙飛行の影響から、重力に再適応する為の訓練等をどのように安全に行うか。あるいは、検疫として設ける必要のある期間は一体どれだけに設定すれば充分なのか、―――。不明点が多く、それに、火星からの持ち込みだけでなく、―――特に印象に残っているのは、地球上から飛行士達が持ち込んだ人体と同居している微生物達を、どのようにみるかという点でしたね」

神尾が、少しくちを閉じて考えるようにして続ける。

「――…体表や体内に同居している微生物が、長期の宇宙線にさらされることとなる火星への飛行において、変異して、――何かを引き起こす病原体として変異してしまわないかどうかについて」

当時を思い出すのか、どこか生き生きとした表情でいう神尾に、教授が画面に映らないまでも伝わる声の調子に楽し気にうなずく。

「そうだったね。NASAは割と真剣に考えていて、いまもだが、――…微生物の持ち込みということに関しては、環境汚染も含めて厳重に制限を設けようとしている。だがしかし、人間は生物だからね?全身を殺菌することはできない。その点も含めて、きみとの会話は楽しかった記憶があるよ、神尾くん」

「ありがとうございます。―――…火星行の計画は進んでるんですか?」

訊ねる神尾に、教授がうなずく。

「勿論だとも。NASAは計画を変えていない。いまは、すでにジェイク他候補となる宇宙飛行士に訓練をさせている処だ。あれはまた、この地球上ではあるが、環境隔離実験に入っている。だから、地球上の何処よりも安全に待避しているというわけだ」

楽し気にいう教授に少しあきれながら神尾がみる。

「…はい、その、―――つまり、火星への飛行に備えた隔離実験に入っているんですね?あのとき、一緒にお話した宇宙飛行士の方が」

「その通りだよ。外とはインターネットで繋がっていて、状況は知らせているようだがね?今回の隔離は一ヶ月だから、まだ流行している最中に帰ってくることになるかもしれんが」

「…流行、―――教授」

教授の言葉に、神尾が真顔になって質問する。

「…教授のお考えでは、どう思われますか?この新型コロナウイルスですが、中国での―――いまの都市封鎖から幾つかの省をまとめての封鎖に、移動禁止、他、―――…。これで、パンデミックが防げると思われますか?」

何処か必死な面持ちでいう神尾に、教授が考えるように腕組みをする。

「それはね、―――…。私より、いまアイスランドで彼女達が取り組んでいる政策の見方の方が参考になるだろう。…私は、他に鎖国政策といってもいい、こうした政策をいまの時点で取っている国を他に一つしかしらないのだが」

「アイスランドに、それに、台湾ですね?」

神尾の確認に教授がうなずく。

「それに、あわせて太平洋上他、幾つかの人口の少ない島々でも、外国からの渡航を禁止して、自国民でも帰国を禁じている国があるときいています」

滝岡の言葉にうなずく。

「そうだね。その通りだ、―――。幾つかの小さな島々では、早期に観光客等を含めて島への出入りを禁じる声明を出したね。あれらの国々では、一度侵入を許せば病院も含めて医療を行うことも難しくなることが解っているからね。…――島への流行病の侵入が、住民を殆どといっていいほど感染させて沢山の人が亡くなってしまうということは、歴史の中でも繰り返されてきたことだからね。…―――かれらが敏感に反応して、外国との出入りを禁じても当然というものだろう」

教授の言葉に神尾がため息を吐く。

「それらの島々よりは大きくて面積もありますが、台湾、NZ、そして、いまおられるアイスランドも島国ですね。一〇〇万単位の人口がある点が違いますが」

「そうだね、神尾くん。それだけの差だが、大陸のある程度移動できる地域とは比べるべくもない狭さでもあるという点が大きいね、政策の決定には。閉じられた環境の中では、やはり感染症は広がりやすい。逆に、閉じた島国であれば外からの流入を防ぐことで一定の効果がみられる可能性も高いということだね。神尾くん、確かに輸出入等いまの世界で孤立して、あるいは独立してその中だけで生きていくことができる場所は最早無いといってもいい。けれど、一定の条件下であれば、島国は特に防疫という点であれば、外からの出入りを閉じることで流入を防ぐことに関しては有利なのだよ」

「はい、―――」

物思わし気な表情でいう神尾に、教授が苦笑して。

「神尾くん、日本と比べているのかもしれないが、…―――そもそも、日本には危機感がないだろう?それで、いまアイスランドや台湾で行っている強い政策をとることは殆ど無理というものだよ。あきらめたまえ」

「―――き、教授、…―――」

思わず教授の言葉に絶句する神尾に同情したように声が掛かる。

「すまんな、…―――うちの兄が。こいつのいうことは非常識な上に、とんでもなく聞く相手の感情や立場、その他にも完全に配慮しないから、許してやってくれ」

 突然響いたアクセスしてきているはずのない人物の声に。

「―――何をいっておるのだね、きみは。というか、何故きみが?どうして混ざっておるのだ」

「…――ぼくの上司でーす、…。すみません、呼んでないんですけど、入ってきました、…―――なんでアクセスしてきたんですか?本多一佐?」

突然割り込んできた声の主に、教授と秀一が続けて問いただす。

 それに、平然とした落ち着いた声が。

「いいだろう。おまえの使用している機器が、アイスランドにアクセスしていたのでな。おそらく、この兄貴のバカが出てくるだろうと思って割り込んだ。…処で、何を話している?」

「うわー、公私混同―!監視―!アクセス勝手に割り込まないでください。行儀悪いですよ?一佐?」

「すまないね、秀一くん、…。こいつは、昔からこうしたことでは行儀悪くて仕方ないものでね、―――と、神尾くん、滝岡くん、すまないね、どうしようか?」

「ええと、――私は構いませんが、―――もしかして本多一佐ですか?滝岡です。秀一がいつもお世話になっております」

滝岡が訊くと本多一佐が応える。

「私だ」

さらりといって、それから。

僅かに間をおいて、どうやら個人回線で秀一が他にみえないようにチャットで会話を仕掛けてきたのを容赦なく読み上げる。

「―――あまりいわないでください…?鷹城。いつも思うが、こうしてこそこそと会話をしてくるのは無駄というものだと思うぞ?おれが公表するからな」

 冷淡に言い切る本多一佐に。

 秀一がみえない画面の向こうで肩を大きく落とす。

「―――一佐、…――いいんですけど。にいさん、その、…僕はいつも一佐に全っ然、世話にはなっていませんからね?迷惑なら沢山かけられてますけど!」

「上司に向かっていう言葉か?それが」

淡々という本多に、秀一が睨む――といっても、その場にいない上に画像も出ていないから、完全に気分だが――むっと、くちをつぐんで。

「あのですね?一佐、――――そもそも、――どうしてアクセスしてきたんですか?」

「単に監視だ。兄貴のような危険人物と会話するなら、聞いておくのも仕事の内だからな」

「…――あの、この会話全部記録してるとかいわないでしょうね?私用ですよね?一佐?」

「記録はしているが、公式ではないな。報告義務はない」

「――――出ていってください、といいたいんですけど、…――にいさん、その、神尾さん?」

「はい?」

思わず展開に驚いてきいてしまっていた神尾に、秀一が謝る。

「…どうしましょう?その、…こんなデバガメが、…その」

情けない顔でいう秀一の画像は伝わっていないが。

 少し考えて、神尾がくちにする。

「僕は、…別に構いませんが、―――…教授、どうされますか?」

「そうですね、――教授のお気持ちは?」

神尾と滝岡の問い掛けに。

沈黙していた教授が、こほん、と咳をしてみせて。

「…いや、すまんね。この行儀の悪い弟が、このような本当に行儀の悪いことをして」

「そうはいうが、こうして姿を現わしているんだぞ?一応、礼儀を守っているといってほしいが」

無言で盗聴していることもできたからな、と。

淡々と平然としていう一佐に教授があきれた顔でいう。

「きみはね、…――いつも思うが、その基準が完全に世間からずれた思考回路でよくこれまで無事に生き延びてこられたものだよ。ずうずうしいのと、かなり平均以上に図太いのがその秘訣だろうが」

「尤もだ。勿論、確かに図太いが、それは兄貴程ではないがな?ともあれ、ここで部下曰く、おれの行為は出歯亀らしいから、そういうのがいると知った上で会話してくれればいい」

平然と言い切る本多一佐に、多少の疲れを秀一が憶えて肩を落とす。

「…僕のストレスを増やす行動を取らないでください、一佐―――…まったく、一佐付きですけど、いいですか?」

 秀一の言葉に教授が慨嘆する。

「茶菓子とかならともかくねえ、…おまえも、来るならくると、先に秀一君とかに話を通しておくものだよ。それが非常識というのだ」

「リアルタイムではあるが、場所を同じにしているわけではないからな。お茶菓子を持ち込む必然性がない」

教授の喩えに対して、解っているのかいないのか不明な発言をする一佐に、大きく教授が眉を寄せる。

「―――いいから、もう発言するのはやめたまえ、きみは」

「兄貴の発言があまりに非常識でなければ、あいさつせずに通すことも考えたのだがな」

「―――聞いていることを知らせないままで、ですか、…それよりは、その」

遠くをみる神尾に、滝岡がため息を。

それから、意を決したように。

「本多一佐。先のご発言ですが、それほど教授の発言は非常識でしたか?」

訊ねる滝岡に、思わず、――にいさんってタフ、…と秀一が目を剥いている。

 ―――本多一佐に対して、物怖じせずにこうした発言ができるって、にいさんだよね、…と。完全に自身のことは棚にあげて秀一が聞いていると。

 本多一佐が、あっさりと。

「そうだな。つまりは、日本政府のやりようが手ぬるいというのだろう?鎖国のような政策が取れず、検疫もまともに対象を選定できているとは言い難い。先方側が出国規制をかけなければ、日本への感染可能性のある入国者が大量に続いていたことだろうからな?防疫は専門外だが、みていて、国境を守る気が無いようにみえる危険な状態だとは思っていた」

「――発言、大丈夫ですか?秀一さんの上司ということは、自衛隊の方ですよね?」

思わず心配して神尾がいうのに、本多が平然と応える。

「いま此処での発言は、個人として私的に行っている。当然ながら、個人的感想だ。政策や、日本政府の方針に対して、公人として行っている発言ではない」

「…――結構まずいような気もしますけど、一佐、…いいんですけどね?」

秀一の発言に本多が平然と応える。

「構わないだろう。それと、任務に応えることとは別だ」

「―――鉄の神経とか鉄仮面って常々いわれてますけど、…本当に」

がっくりと肩を落としている秀一の様子は見えていないのだが。

教授が、僅かに同情する視線をみせて秀一にいう。

「弟がすまないね。…いつも思うのだが、これの非常識な発言は、許してやってくれというのも難しいものだが」

「そちらこそだろう。いつも常々、そちらの非常識な発言には困っている。行動にも、より、だが」

教授の発言に強調して返す本多一佐に滝岡が天を仰いで。

「つまり、――神尾、続けてくれ」

「ええと、その、…はい」

困惑して滝岡の発言を受けて、神尾がしばし言葉を選んでから。

「その、つまり、すべて個人的発言ですね?」

「当然だ。何かを批判する権利は失われていない。公人としての発言なら、許されないがな。それで、兄貴の無遠慮な発言については謝る。兄は、貴方がこの日本での防疫状況を憂えていることに対して、できることはないのだから、せめて気にするなといっているわけだ」

「―――そこまで翻訳しなくともね、…」

複雑な表情で教授が本多一佐のいうことに困った顔を。

「違うのか?神尾さんは、この新興感染症――新型コロナウイルスという病が広がることに対して、それも、この日本において被害が広がることを憂慮しているのだろう。まだ、数名の感染者確認だが、当の封鎖都市からの帰還者も計画されている。どうにもそれらの計画がずさんに見えても、専門家だから仕方あるまい」

「…帰還の計画があるんですか?」

「―――ええと、…はい。もう実はこっそり発表になってるんでいっちゃいますけど、僕は先方に行く管理官の一人です」

「――秀一さん?」

驚愕する神尾に、秀一の声があっさりと告げる。

「飛行機で、先方の受け入れ体勢が整い次第、こちらに邦人希望者を連れ帰ります。ニュースにもなったかと思いますが」

「いつ行くんだ?」

滝岡の問いに秀一が肩を竦める。

「さあ、先方が整い次第。軍事利用ではないというのを納得させるのに時間がかかってますね」

「検疫官でなくて、秀一さんが行くんですか?」

「いえ、検疫官達も行きます。僕はサポートですね。翻訳とか、何とか。あまり、一般の人達を行かせる訳にもいかないので。…といっても、どうも飛行機自体は民間のものを飛ばすので、乗務員さんとかも行きそうなので、どうなるか解らないんですが」

「鷹城。おまえの同行は決定事項ではないだろう。先方がナーバスだから、本来、自分が飛ぶ予定も組んでいたが、実行にならなかったくらいだ。おそらく、通訳に関しても、おまえは外されるぞ?」

「そうなんですか?まだ聞いてませんけど」

「まだいってないからな」

「…そういえば、僕の上司でしたね、一佐」

「そういうことだ、鷹城」

「―――ええと、つまり、秀一さんは行かずに済むということですか?」

秀一と本多の会話に、神尾が思わずくちにするのに二人が同時に視線を向ける。視線というか、沈黙の視線だが。

 画像は伝わらないが、思い切り伝わる気配に神尾が戸惑う。

 圧力があるような沈黙に。

「ええと、…すみません、その?」

「神尾、…心配してくれるのはいいが、――そんなに心配か?行くのが」

滝岡の言葉に神尾が戸惑って沈黙する。

それに、教授がとりなすように。

「いや、それは解らないではないがね?滝岡くん。滝岡くんは心配でもくちに出さないのかもしれないがね。それに、私もこれが同じく自衛隊だから慣れてはいるが、他からみれば、危険な任務に就くというのは心配になるものだろう。滝岡くんも、ある程度は心配だろうに」

「――いえ、…その点に関しては。確かに、向こうの状況は解りませんが、…何れにしてもいかないのか、今回は?」

「それ知りませんでしたけど、可能性は聞いてましたけどね?本来なら、邦人保護に飛ぶなら、民間機より自衛隊から飛ばした方がいいんですけど、――あちらがナーバスですから」

「そういうことだ。中国側は、アメリカ等の申し出にも拒否感を見せている。軍用機を空港に、というよりも、公式に領空を飛行させること自体が問題なんだろう。何でもできてしまうからな」

「…―――まあそうですけど、…――。ついでにレーダーとか計測器とか直接領空を飛べれば、自国民保護のついでに色々するだろうと考えるのが自然ですものね、…。しかし、まあ、僕も中国語は得意じゃないですから、今回は助かったかな。通訳には、もしかして、外務官の方とか?」

「その辺りだ。すでに先方で従事している人員が割かれるようだ。本来なら、業務が立て込んでいるから、少しでも負担は減らしたい処だがな。自衛官であるおまえが行って、余計な詮索を先方がすれば、さらに負担も増えるということだ」

「…困りましたねえ、…。僕なんて、平凡な分析官なのに」

「それって、一番来てほしくないタイプの人じゃないですか?」

二人の会話に、素朴な疑問をくちにする神尾に、滝岡が額に手を当てる。

「…――神尾、…」

「あ、すみません」

「だが、まあしかし、そういうものかね?秀一君が向こうに行くというのも、本来なら通訳を期待するというよりも、それはついでで、先方の事情を直接その目でみて解析することが期待された役割ではなかったのかね?」

滝岡と神尾の会話を面白そうに聞いて、教授が楽しそうにくちを挟む。

 それに、秀一が肩をすくめて。

「どーでしょう?いずれにしても、外されましたから?」

「いっていなさい。さて、神尾君」

「…はい」

教授が微笑んでいう。

「きみの質問に関してだが、私個人としては、この感染症はパンデミックを引き起こしていると思っている」

「…未来ではありませんか」

「すでにね。確かに、まだ各国で確認されている例は少ない。しかし、既に死者も出ている。さらにいうなら、シンガポール、タイ、日本といった東アジア領域だけでなく、ヨーロッパ各国ですでに確認されている状況だ。フランスでは、集団で十数名近くが確認されるかもしれないという話もある」

「―――…はい」

緊張した面持ちで教授を見返す神尾に、そっと微笑んで。

 美しい山脈を振り向いて眺め、教授がくちにする。

 青空が美しく。

「アイスランドでは、先にもいったとおり、政府として十二月から中国の状況を注視していた。その結論として、一月には既に方針を実行に移している。防疫と隔離、その為には中国からの旅客を禁止して、さらに他のヨーロッパ各国、いってしまえば世界中からの入国を当面制限して、この疫病が入ることを前提に、対策を取っている。中国で発生しているとはいえ、既に時間が相当経っているからね?中国からヨーロッパ各国への旅客も多い。移動が既に起きている以上、中国以外の国々からの旅客からも、すでに感染する危険があるという前提だよ」

「―――中国以外から、もですか」

神尾の言葉に教授がうなずく。

「もちろんね。すでにドイツでも感染者が出ているのだよ?アイスランドからすればすぐ近くだ。ビジネスを含めて、中国からの旅客が既にいる以上、その何処かで感染が起きていないと仮定する方が愚かだよ」

簡単にいう教授に、神尾が力が抜けたようにため息をつく。

「…そうですね、…―――ええ、そうです」

「そういえば、滝岡くんは、神尾くんの助言も入れて、一月から病院全体で感染防御を始めているのだったね?市中感染が起きている前提で?」

教授が訊ねるのに、滝岡がうなずく。

「ええ、その通りです。大きく、――つまりは、過大に構えておいて、後から不要だと解れば防御を解く方が被害が少なくて済みます。問題は、実際には過大に構えたつもりでも、不足であったときですが。教授、あなたの見解では、どのような防疫を、感染症防御の処置を普段の生活ではとればいいと思われているでしょう?」

滝岡の質問に少し考えるようにして。

「そうだね、私が考える防御は簡単なものだ。とてもね」

白雪と氷を頂く山の鮮やかな光が青空に映える。

 教授がそれらを眺めて、穏やかに。

「単純すぎて申し訳ないくらいだがね。マスクをして、手を洗う。百年ほど前の対策と何もかわらないよ。人混みをさけ、運動をして栄養をとり、―――良く寝て、よく笑うことかね?」

楽しげに振り向いていう教授に、本多一佐があきれた声を掛ける。

「もう少し、近代的な――近代にはこの百年程が入るとかいいそうだが――あるいは、現代的な対策の取り方はないのか?科学は進歩しているんだろう?」

「きみがそれをいうかね?普段、科学の進歩など一ミリも信じていない人物だろうに。百年経とうが、二百年経とうが人類の進歩など、その程度のものだと常々いっているだろうに」

「そんなことはいっていない。数百年経とうと、あるいは数千年経とうと人間の本質など変わらないといっているだけだ。そもそも、ホモサピエンスが生まれて、まだそれほども経っていないだろうに。生物として、地球上でそれほど周囲から掛け離れたものになっている訳ではないのだから、その程度の時間で何か変化があるというものでもあるまい」

本多一佐の言い切りに、秀一が頭を抱える。

「…―――知ってたけど、…知ってたけど。お兄さんである教授より変人ってどうなんだろう、…―――」

「秀一くん、さりげなくいま、私に対してかなり説明を必要とするコメントを入れなかったかね?」

呟く秀一に反応して教授が質問する。それに、本多一佐が遮って。

「つまりは、兄貴の方が変人だと思っていたということだろう。当然だが」

「…きみね、それはつまり、いま私より、きみの方が変人かもしれないと秀一くんが認識を改めたということになるかと思うのだが?」

「それはどうだろうな?だがまあ、おれのことを変人と思っていないとしたら、それは、…――本当に分析官か?訊いてもいいか?おまえの分析は信用できるのか?鷹城」

「…―――精度については、いまもう自信はありません、…一佐。…いえ、その、僕の認識不足でした。…お兄さんの教授の方が、まだ解りやすい変人のような気がします」

「…わかりにくいかな?」

真剣に本気で首を傾げているような本多一佐の気配に秀一ががっくりと机に突っ伏す。

 もういいや、…画像が映っても構わないから、…。

一佐って、本多一佐って、知ってたけど、…と、つかれはてている秀一をおいて。

 あっさりと。

「それで、つまり対策としては基本的なことを守るということですね?飛沫感染と接触感染を抑える」

その間の会話がなかったように確認する滝岡に、にーさんて、…タフ、と秀一が虚ろな目線で考える。

 ――にいさんって、考えてみれば、神尾さんとか、永瀬さんとか、ヘンな人達に鍛えられてるもんね、…うん。

 それにしても、一佐や教授と話していて平気だなんて、と。

 しみじみしている秀一を知ってか知らずか。

 神尾が滝岡の言葉に続けている。

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