Novel coronavirus 7
「何これ?」
いって、永瀬が注目して読み始めるのに、顔をあげないまま光がきく。
「永瀬先生、何見つけた?」
「…いや、小児のデータないのなーと思ってみてたんだけど、…。なんで?基礎疾患の中に糖尿病とか心臓血管系あるのは理解できるけどさ、…通常どんな感染症でもハイリスクだろ?」
「…うん?だから、なんだ。はっきりいえ」
「ほら、これ。いまなげたからみといて」
「わかった。これが、…―――西野さん、この箇所をマーキングしておいてくれないか?」
光がタブレットに落とした論文をみながら、ラインを引いていく。
「わかりました」
それを西野が記録していく。
神尾が黙々と新しい論文を読んでいく姿。
滝岡は横道にそれすぎる永瀬の発言や、何かを軌道に戻すように発言しつつ、同じく西野の集めた情報を確認していっている。
そんなかれらの姿を。
休憩室の壁に背をもたれさせて、実にやる気の無い鉄板の無表情のまま瀬川が、タブレットに屈み込んでいる永瀬を醒めた目でみる。
―――マルチタスクな人達だなあ、…。
時折、無駄としか思えない会話を交わしながら、よくわからない情報交換をしつつ、さらに論文を読み込んでいきながら、各自気になる処をマーキングして、西野の元で集積していっている姿をみながら。
特に永瀬の一番無駄口を続けながら、手許のタブレットを高速としかいえない速度で読み込んでいる――英文のままで、流石に中国語系の言葉は、英語翻訳されているようだが――丸まった背を冷ややかにみて。
「―――…おれ、ぜったい無理」
医者にならなくてよかった、と淡々と無表情でアイスバーをくちにしながら。
ちら、と時計をあおぐ。
――当直になる前に、休憩時間の内にラリアットでもかまして休ませておかないと。
淡々と考えながら、瀬川がたらりと長い足を伸ばして永瀬の後ろで休んでいる。
そして。
「瀬川さん」
滝岡が時計を見て、瀬川に声を掛ける。
「あ、…?」
永瀬の背後から、瀬川のワザがきれいに決まる。
無音で沈没した永瀬に。
「おやすみなさい」
「…じゃあ」
滝岡が丁寧にあいさつするのに、瀬川がぶっきらぼうにいって接続を切る。
西野が、思わずくちもとに手をあてて、それを見守る。
「――――…」
そういえば、遅番の当直でしたか?と、永瀬と瀬川のスケジュールを目の端で確認して。
ちら、と滝岡が映る画面をみる。
当の滝岡は、西野がまとめた永瀬他がマーキングした論文等の要点に目を通しているが。
「ええと、その、…」
「神尾、おまえもだ。寝るぞ?」
「…――――」
西野が、思わず検査室と外科オフィスは離れているのにどうするんだろう?と見ていると。
滝岡が、手許のタブレットにあるボタンを押す。
「え?」
西野が目を瞠る前で。
「おやすみ」
滝岡の声が、神尾が読んでいるタブレットから響く、と。
「――――神尾さん、…」
西野が目を丸くしている前で、ぱたり、と。
まるで糸が切れたようにして、タブレットを置いたデスクに突っ伏す神尾。
「…一体、どうやって?」
「効くな、やはり。おまえの声に、睡眠周波数でも出てるだろう」
「光、…人を謎の装置のようにいうな」
神尾が眠っている検査室に、音声が届かないようにカットしながら西野が驚きつつ、本当にぴくりともしない神尾のようすを観察する。
「本気で、寝てますね、…。どうやってです?」
「―――自己暗示みたいなものだそうだ。こいつが以前から睡眠周波数を周囲に出してる疑惑については知ってるだろう?」
「…光さん、…――滝岡先生」
答えにつまる西野に、滝岡が溜息を。
「いや、かまわん。おれが自動睡眠枕だの、いるだけで睡眠装置だの、なんだのは昔からいわれなれてるからな?」
「えーと、すみません。ごぞんじでしたか、…。しかし、…いまのは、声だけで、…」
「西野」
「あ、すみません」
思わず思っていたことをくちに出してしまって西野が謝る。それに、どう反応していいかわからない顔をして。
「かまわんが、…。神尾にいわせると、条件反射だそうだ。…」
複雑な表情でいう滝岡に、西野がコメントに困って視線をそらし、光が明るく言い切る。
「神尾先生は、この処ずっとほとんど寝ずに情報収集してるからな?あとは分析と、―――」
真顔になって光が滝岡を見返す。
「検査に関して、いまも調整中だな?」
光の質問に滝岡も訊ねる。
「そちらの方からは手に入りそうか?CDC」
「…――向こうと話はしている。タイ当局と話もした。検査に関しては、香港とタイは同じ方式を採用しているようだ。…試薬がいるな」
「日本は、確か方式が違うんだな」
「感度はいいらしいけどな。タイや香港より時間がかかる。…その辺りの調整も、神尾先生には難しい処だろう」
突っ伏して寝ている神尾の姿を光がみながらいう。
「そうだな、…どこを見ているか解れば、うちでもできないことはない」
呟くようにいう滝岡に、光がうなずく。
「そうだな。装置としては、いまうちにあるもので出来るだろう?」
光の問いに滝岡がうなずく。
「元々、基礎研究の為に神尾にシーケンスとPCR検査に関する装置は入れてもらってあるからな。通常検査用とは別に用意があるから、多少は何とかなる。装置もレンタルで新しいものを仕入れることもできるが、その機器の選定もあるからな」
「神尾さんに金に糸目はつけさせるなよ?神尾さんのベストと思う機器を仕入れさせるんだ。そういうことで悩ませるな」
「わかっている。尤も、ある程度費用に関しては制限がある方が考えやすいそうだが」
「そこは悩んでもらうしかないな。多少の費用を惜しんで、必要な事が出来なかったでは済まない。費用なぞ、後で何とでもなる」
言切る光に滝岡が苦笑して。
「そうした点も含めて、神尾にテストしてもらっている。だから、最近はそのテストと、新しい情報を集めるのとで、…あまり寝ていない」
「だから、自動睡眠装置が効いたな?」
心配そうにいう滝岡に、かるく光がいうのに眉を寄せて。
「あのな?…まったく、いってないでおまえもねろ。ったく、光、手術は三日後か?」
「こちらに無事到着できればだが。…幸か不幸か、日本の空港は閉鎖していないからな、…到着待ちだ」
「通常なら、一か月、――せめて数週間は余裕をもってくるものだが」
懸念を示す滝岡に光が軽く溜息を。
「仕方がない。色々とすでに影響は出始めているということだ。検査装置に関しては、改めて神尾先生にきいておいてくれ。自動化した装置なら、寄付で賄えるかもしれない」
「それは助かるな」
費用面で悩むというならな、とあっさり光がいうのに滝岡が感謝する。
それに無言でうなずきながら、手術予定を確認しつつ光がいう。
「試験を兼ねる。前から頼まれてるんだ。そろそろ国内でも売りに出したいとかいってた…―――渡りに船だ。できるだけリソースをかけよう。他の手配に関してはいま入れておいた。後は頼む。明日以降はもう触れない」
光の言葉に滝岡が微笑む。
「解っている。後は任せてくれ。三日後の手術に集中してほしい」
「勿論だ。明日は打ち合わせに入るからな。頼んだぞ?」
「透析装置の追加は入れてくれたな?」
「…おまえ、な?」
眉を寄せる光に、滝岡が笑う。
「お互い様ということだ」
「ふん!」
いって、光の画面が唐突に落ちる。予告さえなく真っ暗になった画面に、おもわず楽し気に滝岡がみて。
「さて、西野。できるだけ夜更かしはしないでくれ」
両手を組んでのびをして、滝岡がいうのに、肩をすくめる。
「これから宵っ張りの濱野先輩と打ち合わせですからねえ、…まあ、病院のシステムは回るようにしてありますから。明日から三日、僕は休暇ですから、夜更かしも朝寝もし放題ですよ」
「奥さんに怒られないようにしろよ、…」
眼鏡の端をかけなおして、楽し気に西野が笑う。
「ダメですよ。うちのおくさん、漫画家なんですよ?あっちの方が生活は不規則です。―…一番まともなのは、娘たちですから」
「…確か、お嬢さんたちが、自分達で朝食を作って、御二人の分も用意してくれているんだよな?」
感心と信じられないという気持ちと驚き他がない混ざった滝岡の言葉に、にっこりと笑う。
「うちは、親がしっかりしない分、こどもがちゃんとしてますからね。育児支援ロボット、いーさのお陰でもありますけど、…えーと、先輩?あ、おきてましたか?じゃあ、…」
途中から滝岡をおいて、どうやら接続したらしい先の先輩――プログラム、つまりはコンピュータ関係とその分野に詳しくない辺りがくくってしまう実に広い守備範囲の中での先輩になるのだが――濱野という西野の先輩と話出したのをみて滝岡が少し苦笑して。
さて、と肩をほぐして。
寝るか。
明日予定されている手術は二件。
まだ、定期スケジュールに入れている手術予定は変更されていない。
手術予定を延期、あるいは、―――そうしはじめている患者さん達もいるのだが。
…いつまで、普通に手術ができるか、―――。
ふと考えて天井を仰いでから。
そして、席を立ち白いソファが置かれた休憩コーナーに行くと、一つをフラットにして。
「…―――」
すとん、と。
横になり目を閉じた瞬間、見事に眠りに。
特技、入眠。
実際に、ほぼ瞬間的に睡眠に入れる特技を持つ滝岡総合病院院長代理であり、外科医でもある滝岡正義。
その見事な睡眠力が周囲に影響を及ぼして、安眠まくらだの、自動睡眠装置だのといわれている滝岡だが。
明日の仕事の為に、瞬時に睡眠に入れる特技を活用して、深い眠りに入っている滝岡がいた。
「神尾先生って、いつねてんの?」
「いま寝たようですよ?滝岡先生の声で睡眠が自動化できてるみたいです」
「…滝岡先生なら、ありだな」
うん、とうなずいているのは、濱野。
自宅をサーバービルにして、その地下室に寝起きしている変人として、この業界では有名な濱野が、密かに(というよりは大っぴらに)滝岡のファンなのは公然の秘密だが。
その濱野と画面越しに対面しながら、西野がAIに調整を入れつつ問いかけている。
「で、これどう思います?その神尾先生のチェックを参考にして重み付けしたデータなんですが…論文の自動抽出にはつかえますか?」
「うーん、まあ、それもいいけど引用とか数値単純にして、いままで通り、数量を基準にして引き出した方がいいかも。有用性の重み付けに関しては、これ難しすぎるし、…しかし、論文増えてく速度すごいね」
濱野の言葉に、チェックしている論文――相手方サーバに負荷をできるだけかけないようにして、クロールして――つまり、インターネットに公開された論文等を見つけては集積していっているのだが。
無数の論文が、既に上がり始めている。
「代表的な科学雑誌とかが、いつもは有料なのを、無料で公開してるそうです。その上、いつもなら載せるのに査読という、載せても大丈夫な論文かどうか、雑誌側が判断する割と厳しい前段階があるそうなんですが、いまはしてないということです」
「へえ、…大盤振る舞いだねえ、…と、…だから、こんなに論文が沢山あがってるのな?それで、重み付け――おれらで、この無数の論文から、有効ってーか、有用な論文を自動的に検出できないか依頼がきてるわけだ」
「…ええ、通常でしたら、先輩がいわれる通り、論文の引用数とかでみるそうですけど。…神尾先生の嗅覚ってすごいですね。…この状況でも引用の多いというか、見られてる数の多いものは必ずみてますね。それに、…」
データに重み付け――つまり、集めたデータを自動的にAIに判断させる為に、何が重要かと教える学習をさせているのだが。
その参考データとして、神尾のチェックした論文を基本学習させて、という作業を行っている濱野と西野だが。
「人間の処理能力ってばかにならんのよ」
もじゃもじゃの頭の中に埋もれそうな黒縁眼鏡をすこしあげて、画面を見直して濱野がいう。
「AIの一番の問題は深層学習させた結果が、どーしてそうなるのか、論理的に説明できないことだっていわれるだろ?結論は確かに正しい、例えば、こないだやった病理さんたちに協力してもらった画像解析とかさ?過学習ともいわれるけど、教師データが正しければ、教え子も正しい。答えを導き出す、とかいわれてたが」
「学習させなくても、何故か正しい結果を最終的に取り出したりしちゃったりしたのがありましたね、…」
「そうそう、あれね?学習データ揃えるのが大変とかいってたけど、実はいらないんじゃという、…けど、それならそれで、じゃあ、その正答性は誰がどうやって担保すんの?というね。それを判定するのが、…―――」
ぼそぼそと濱野が応え、西野が何か少し呟いて。
お互い業務領域の話題などをやりとりしていたが。
しばらくして、沈黙が支配する。
お互いにキーボードを操作しているらしい微かな音が響き、お互いにみている画面――プログラムが流れていく画面に、追加や修正、あるいは、別の画面を開いて何かしたりとしながら――には、お互いの作業テーブルと同時に、相手の作業が別画面で流れている大画面を前に。
うつむいて作業に没頭している濱野のもじゃもじゃ頭は、ぴくりとも動いていない。
白い壁面を大きくとって、その壁面に投影されたデータが流れていくのをみているのかいないのか。
背景になる場所を選ばなくても、四方が白い壁面で構成されている濱野のサーバルームを壁の向こうにした地下室には、静かにキーボードを操作する音だけが響いていく。
西野の部屋は、専用の作業室になっているが。
こちらは大きな解像度の高いモニタを壁面に置いて、それに向かって作業をしている。
しばし、音が微かに響き、声はまったくなく西野と濱野の作業が続いていく。
流れていく英文に似た文字――プログラムのようだが――が移り変わる画面もあれば、幾つか開いている画面の中には、世界地図に似た表示が、幾つかある画面のどれかと連動しているのだろう、西野が何か打ち込む度に、表示が変更されていく。
「どうでしょう?感染状況地図。以前、神尾先生にリクエストされて作ったので、今回もつくってみたんですが」
「へーえ、いいんじゃないか?タイと、香港?…―――ドイツでも出てんの?」
黒縁眼鏡の向こうに見える眠そうな瞳を向けて、少し手をとめてみてマグをとってくちにしながら濱野がいう。
西野も、地図の修正を少ししながら、手許のペリエ――ライムフレーバー――をつかむ。
少しくちにして、息を吐いて。
「こんなの、いらないに越したことないんですけどね。…はい、二、三人にはなるみたいです」
「…―――やだなあ、…。うちのヘレンちゃんは、ドイツにも友達がいるんだけど」
濱野の言葉に西野が眉をしかめる。
「また、AIの名前変えたんですか?この間は、ジャスミンだったと思いますけど?」
「いーじゃん、バージョンかわるんだし。ヘレン、AIの友達がドイツにいるんだってー。どうなるのかなあ」
「…実際に会うわけじゃないでしょう?」
「そうだけど。開発は人間よ?一応、多分ね」
「…まだ、AIがAIを作る話はきいてませんけど」
「まあね?AIの結論をどうジャッジするか、過程を省いた正しい結論、をどうみるかについて、まだコンセンサスできてないからねー。でもまあ、倫理とか、そういうこくさいてきなごういー、とかをムシして、何処かの誰かが、いっちゃった研究するのは、いつの時代でもアリガチな話じゃん」
「…淡々ととんでもないことをさらりといいますね、…。こんなときにその話題ですか?」
「…――中国の都市が封鎖されて、未知の疫病が、――ってときにか?」
「ええ、…すでに滝岡先生達は、準備に入ってますけどね」
画面の西野を、ちら、と濱野がみる。ちなみに、大写しになっているのは幾つかの小さな窓に流れているプログラムや何かで、その左隅に西野の顔が映っている。
「…正直、西野ちゃんもまだ実感ないだろ?日本に患者さん、確かまだ一人だし」
「国境封鎖もしていなくて、…――中国の都市封鎖には驚きましたけどね。寝耳に水というか。…経済が最優先の国でしょう?そこで、なんというか、もっと見栄とか、そういうの大事にする国というイメージあったんですが」
ペリエをもう一口飲んで、西野が沈黙する。それにうなずいて。
「危機感っていうのが、よくわからんよね。おれなんか、…おれら、情報が流れるように整備するのはプロだけどな」
「…ですね。でも、濱野先輩のご専門は、いまはセキュリティとAI育成でしょう?」
「勿論、メインはAI育成です。画像解析に関しては一定おわったしね。――――その地図は脇においといて、メインしあげねーと時間ねーぞ?」
「すみません、ちょっと改良するのですんだので、つい。これでは?」
「うーん?」
眼鏡をかけ直して、濱野が画面を拡大して見直す。
プログラムを上下に流して、片手――左手で何かいくつかのコマンドを打ち込む。
「西野くん」
「はい」
「どう?――それから、これ、穴を探してるやつがいるよ?心当たりある?」
「…ないです、―――リサーチかけてますから、どこかの気にさわりましたかね?」
「…安全対策している?とりあえず、塞いでおこう。…ジャスミン、レイルバードに伝言をもたせて」
「かしこまりました。レイルバードに伝言をもたせます」
「よろしく。ありがとう。…っと、お土産持たせて、おもてなしはきちんとしておかなきゃな?」
「…先輩、―――ジャスミンですか?ヘレンじゃなかったんですか?」
「…ん?あ、――うん?ジャスミン、動向分析を頼む、―――こういう防衛関係はジャスミンの方が得意なんだよ。ヘレンは生まれたばかりだからね?得意なのは別の分野だ、―――こういうこと」
「あ、これですか、…。ここだけではないんですか?ネットワーク全体に攻撃を仕掛けている?」
「たまにあるけどねえ、…最近、こっちの方からが増えてるね。攻撃が一斉に行われてるのは、この一ヶ月――いや、一月二日以降から、十四日で、その前の平均的な二週間の五倍だよ」
「…五倍ですか?」
「方面を限れば、…さらに十一.五倍」
「…何が起きてるんです?」
「少し危機感おぼえてきた?」
「…はい、完全に。集中している先はどこです?」
「それがねえ、…―――普段は割としずかな辺りなんだ。最初、見当がつかなかった」
「教えてください、――…って、あ」
西野がみている画面の右上隅に白い背景の四角い窓が開いていたが。
その画面に流れていたネットワーク模式図が、突然、展開して集中した先をみせる。
展開した先でみえるのは、攻撃を受けている接続先名、その機関名、部署、それに、―――。
「あ、そういえば、こういう抽出図式展開がとくいなんだよ、ヘレンは」
にっこり自慢する濱野にうろんな視線を向けて西野がいう。
「そうなんですね?――と、研究班、研究室リスト、―――――ワクチン生産のとか、実験室に、薬系の会社ですか、これは?」
「そうなの。別にセキュリティ頼まれちゃいないけどさ?うちの方にもくるから面倒なんで、ついでにまとめて退治しておいた。これは一月十二日の再現データ」
「…―――ありがとうございます。…つまり、どうして、しかし?」
「免疫の研究室とか、製薬会社に、公衆衛生とか、よくわからない分野もある。国際機関もあるし、各国機関――政府系機関がどんな分野でも狙われるのはいつものことだけど、これは異常よ?しかも、ジャンルが偏ってる」
「――医療、保健省、――衛生省――保健衛生を担う機関ですか。各国の」
西野が茫然とリストを読んでいく。
「そ、西野君も、少しは危機感感じた?先は、まだあんまりといってたけど?」
「これが、それ絡みでしたら、…感じますね。この動きは妙ですよ。――先輩の出してるデータですから、信じますが、本当にこれだけの?」
「西野くん、そういいながらいま裏とってるでしょ」
「それはもう、…性分ですから。しかし、これが一月初旬から?二日でしたか?」
「そう。露骨にね?どこからとはいわないけど、…――本当に見事に増えてるんだわ。個人のアカウント凍結もこの頃一気に行われている」
「―――そうですか」
西野が沈黙する。
「凍り付いちゃった?」
「正直にいえば、…神尾先生達のいうウイルス、――新しい肺炎、SARSだか、なんだかというのが中国で流行していて、というのには、危機感というか実感がまるでないんですが」
「地方の流行だもんな?他の国で起きてる」
「そう、ですが、これは、…―――」
「これ、日本のサーバなんて、まるごと情報抜かれてる動きしてるのまであるからね?尤も、あまりデータがないのか、公的機関は狙われてなくて、主に大学だけど」
日本地図をみて、西野が眉をしかめる。
「九州ですか?攻撃が集中してるの?」
「あそこ、ほとんど公開データだけだから、あまり意味ないとは思うけどね?」
「それと、…こちらは関東の大学ですか」
「そう、日本で最初に確か伝染病の研究所だかができたとこ。その大学かな?間違ってたらごめん。自衛隊の、防衛何とかの医学系の大学だっけ?あれは、きちんと防御してるみたいね?」
「してなかったら恥ずかしすぎますよ、…先輩、確かセキュリティの相談受けてたでしょう?」
「守秘義務があるから、はなしませーん」
「…まったく」
西野が天を仰いでため息を。
「いいんですけど。…北里、かな、…それに、…―――民間と、半公的機関の研究所系も攻撃を受けてますね」
「US他の比じゃないけどね?」
「先輩、何で他所のまでつぶしてるんです?」
「先にもいったけど、ハブとかおれのシマ通るんだもん。うっとおしいったらありゃしない。通行量増えたら、トラフィック捗りすぎてこまるのよ」
西野が濱野の言葉に無言でうなずく。
「うっとおしいんですものね」
「そうそう。道はクリーンで誰でも自由に通れるのが一番。余計な集団はいりません」
きっぱり、腕組みをしていう濱野に、一応うなずきながら西野がスクリーンに投影されているリストをみていく。
「…危機感おぼえますね」
「だろ?」
「はい」
短くいって、無言になる。
攻撃開始したのが何処か――例えば、どの国からきているか――などについては、素性を隠す細工が標準でもちろん行われている為に、特定はできない。
しかし、これだけの量で行われているサイバー攻撃。
つまり、インターネットの世界で、企業秘密を盗み出す為に行われている攻撃などが常に一定量あるのは、もう常識のようなものだが。
これだけの量が。
「どこかが、意思をもって攻撃を大量に同時発注したから、こうなってるわけだ」
「自動的に、もう時限処置をしてやってるんでしょうけど、―――怖いですね」
「そう、これだけなりふり構わない攻撃は久し振りにみた」
「…―――初めてじゃないんですか?」
思わず、画面の隅においている先輩の画像をみて西野がいうのに。
濱野が、きょとん、とした顔を向ける。
「うーん、…出所は違うけど、トレンドはあるからね。…前に、か、…一番近いのは、911のときかな?」
濱野の言葉に西野が首を傾げる。
「あの、歴史の?アメリカが攻撃を受けたんですよね?テロで?」
「歴史って、…西野ちゃん、生まれてるでしょ」
あきれた濱野の言葉に、さらに首を傾げる。
「―――僕生まれてたでしょうか?」
「生まれてるだろ、さすがに。多分、きっとだけど」
濱野がもじゃもじゃ髪と黒縁眼鏡にうもれている中から眉をあげて西野をみなおす。
「…生まれてるよね?」
「リアルタイムで見た記憶がないのは確かですね」
「子供さんだったのかあ、…そうだよね、うん」
「興味のある子供もいたと思うんですが」
「きみの所の娘さん達みたいな?」
「あれはませてますけど、彼女たちの興味はこっちにはないです。残念ながら」
「あ、じゃあ、奥さんのあれ?漫画家の方?」
「それもなくて、…―――」
西野が言葉を切り、しみじみと家庭生活を振り返る。
「両親の背中をみて育ったので、まともに料理や花、生活を整える、とかいうのに興味があるみたいで、―――――…」
「にしのくんと、あのかのじょから、そういうまともな御子さんが生まれるの?」
「僕も、遺伝子の奇跡だと思ってます。…なんでしたっけ、――あこがれの女性、―――」
しみじみと肩を落として、西野がつぶやく。
「―――片づけをきちんとして、生活をととのえるのが、――あこがれの生き方で、尊敬しているんだそうです」
しみじみ、つい涙を目の端にうかべて、くっ、とすこしくちびるをかむ西野に。
「…おまえさんも大変だなあ、…。まあ、いいんじゃないか?きれいな生活をおかげでおくれてるんだろ?」
「きれいに整理整頓されたデスクで生きていくことになる日がくるなんて、思ってもいませんでした」
「まあでも、元々まだおまえさんのは片付いてた方だから」
「―――――…」
西野が無言で綺麗に整理整頓された周辺を見廻す。白を基調にしたレイアウトとインテリアは、確かに建売を買った際についてきたものだが。
――――きれいに整理整頓してくれますからね、…。
それが、いつからか西野が勤務から帰ってきても散らかしきれずにきれいな環境をたもっているのは、娘たちのたまもので。
娘たち二人が、手をつないで部屋にやってきて、片づけを始める姿は実にかわいらしいのだが。…
―――ちょっと、すこし、もうちょっとちらかっていたころが、すこしなつかしいかな、…。
いつ背景込みでモニタに映して先方に――いまは濱野に対してだが――流れても恥ずかしくないデジタルライフができるインテリアのすっきりとした部屋に座ってしみじみと。
その西野を前にうなずいて。
「ま、そういうことだ。つまり、以前アメリカが攻撃されたテロと同じか、それ以上の攻撃が行われている、ということだ。裏でね」
「サイバーセキュリティとかいっても、一般の人達には関係ないですからね、…。この攻撃はしかし怖いですね。…―――実感があります」
「ふつーのひとたちに実感ないことにかけては、これも一緒だよな。まだ、新型肺炎とかいう方が、こわくて実感あるかもしれん」
「それはそうですね。病気は、眼に見えませんけど、病気に罹って大変な目にあう人達、―――人間の動きは目にみえますから」
いいながら、リストを目で追い、追試ではないが、濱野のいう攻撃を別方面から確認する為に流していたプログラムの結果をアナログに印刷された紙で受け取る。
プリンタから流れてきた印字された結果を手にしてみながら西野が。
「…よかった。病院は無事ですね」
「おまえさん、いの一番に確認するとこがそこ?」
「…僕の仕事は、滝岡総合病院全体のセキュリティも預かるシステム管理ですからね?公式には」
「…公式にはそうだけど。」
濱野のあきれている声に構わず確認を続ける。
「…世界中が攻撃されてんのよ?」
「でも、足許を守ることができなくては、何もできないでしょう?確かに、この攻撃は空から絨毯爆撃されてるようなものですけどね」
「淡々というなあ、…。もう。西野ちゃんは、元々、セキュリティ畑じゃないもんね」
すねて手許に引き寄せたタブレットに別の情報を確認しながらいう濱野にうなずく。
「もちろんです。僕の専門は人工知能で、―――解析言語で、人工知能をエレガントにあれだけ簡潔な言語を開発して作成した滝岡先生に惚れてこの病院で働くことにしたんですからね?公衆衛生に賭ける滝岡先生たちのお仕事に協力させていただいているんです」
滝岡総合病院のシステム。
コンピュータを用いたネットワークは当然だが。
患者さん達の情報があるカルテや、治療記録他、大切な情報を守ることが西野の仕事の一つでもある。
その為に、いま一月から始まっているという、世界中の保健衛生――つまり、感染症に関する医療関係や創薬分野といった、研究機関、公的民間を問わずに行われている攻撃。
けして、これも目に見えないインターネットという世界の中で、気づかなければ誰も知らずに終わってしまう情報を盗む為の攻撃等を。
その被害を、かれが守る滝岡総合病院では受けていないことを確認して。
「よかった」
息を吐いて、西野がいう。
それに。
「あんまり、でもよくないの見つけたぞ?なにこれ?」
「――え?」
「神尾先生の処じゃないか?」
これ?という濱野に新しく立ち上がった警告画面、―――その攻撃にさらされている箇所を確認して。
「ですね。…―――殺しますか?」
「…そうだな、――」
アクセスする動きの中で異常を検知したジャスミンが警告を出して、それをヘレンが可視化。さらに、攻撃の内容を示す攻撃プログラムの流れていく画面を別に開いて。
スクリーンの中で三つの画面を同時にみながら、西野が。
「神尾先生のユニットが攻撃されてる、…と」
「どうする?」
「自然にみえるように、――――妨害起こせませんか?」
「停電、オーバーフロー、寝落ち、どれがいい?」
濱野の提案に即答する。
「寝落ちでお願いします」
「――りょーかい」
にっこり、濱野が笑んで。
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