Novel coronavirus 3


 一月十二日

  滝岡総合病院


「神尾、どうした?」

「…いえ、その。年末にお話ししていた感染症の件なんですが、―――」

口籠もる神尾に滝岡が首を傾げる。

「年末からずっとおまえが情報を集めている感染症だな?中国での診断未確定の?」

「はい、―――」

タブレットを操作して、思わしくない表情でいう神尾に、手許の書類を置いて滝岡が向き直る。外科オフィスのデスクで、医療秘書でもある西野から渡された申請書類等を確認していた手を止めて。

「どうした。…何が気になる?」

外科オフィスの一角にある給湯エリアの前でマグにお湯を入れたまま忘れて、ぼんやりとタブレットを操作しながら神尾が顔を向ける。

 顔色の悪い、どこかぼんやりとした神尾に滝岡が眉をしかめる。

「過剰勤務か?…おまえ、ちゃんとねてるのか?確かに、年末年始は忙しくてすまなかったが」

「いえ、…あの子も無事退院しましたしね。ほっとしました。そうではなくて」

「気になるのか?中国の感染症?どうする?調査に行くか?」

「―――って、中国ですか?」

驚いて目を見開く神尾が、どうやら目が醒めたようなのに滝岡が笑む。

「…あの、人が悪いですよ?」

「おまえが行きたいなら仕方ないが」

面白そうにみていう滝岡に神尾が少し溜息を吐く。

「…そういって、以前も鳥インフルの調査に行かせてくれましたね?」

「おまえが調査したい病に取り憑かれると、病院にいても役に立たないからな」

しみじみとうなずく滝岡に神尾が天井を眺める。

「…――――」

「反論は?」

「あるわけないでしょう、…」

「で、中国、行くのか?」

「無理です」

「…何故?」

不思議そうに滝岡が即答した神尾を見返す。

 それに、天井をしばらく見つめていた神尾が視線を戻して。

「どうも、…ダメそうです」

「どうして?」

中国に調査だろう?といって不思議そうにみる滝岡に。

 しばし間をおいて、神尾がゆっくりと。

「中国からの報告がきているのはご存じですよね?」

「ああ、…らしいな。西野からきいてる。一応、空港で検疫をしているそうだが。詳しい条件等はきいていないな、すまない」

「いえ、それは構いません。その条件というのも何というか、…」

「確か、中国でその未確定肺炎が流行している地域から来た人だけを、発熱か何かでスクリーニングしてるとかきいているが」

「その通りです。一地方だけからの、しかも発熱といっても」

「――不思議なんだが、その中国の一地方からだけの旅客をチェックしてつかまるものなのか?中国国内での移動もあると思うんだが。せめて、中国からの旅客すべてをチェックしないといけないんじゃないか?」

本当に不思議そうにいう滝岡に、神尾がしみじみと無言で見返す。

「…―――――」

それに。

「つまり、それでは無理なんだな?防疫は」

「…―――はい、…。それと、その」

「不顕性感染だな。…つまりは、発熱していない患者さんがいれば、検疫は擦り抜ける」

「サーモグラフィで調べていたとしても、高熱を出しているかどうかしかわかりません」

「…確かにな。発症前の患者さんや、症状が出ないまま感染させる力のある患者さんはつかまえられないだろう」

いってから、滝岡が軽く眉を寄せて神尾を見る。

「それは、以前から議論していたな?おまえも、それをどうしたらいいかと悩んでいた。…――それだけじゃないのか」

穏やかに問う滝岡に、ぼんやりと何かを脳裏に追いかけているように神尾が答える。

「何かがへんなんです。…保健省の会見などでも、あるいは、中国から届いているデータでも、…今回、SARSの時と違って、ある程度、中国は情報開示をしているようにみえます。…その、――今回の診断未確定の肺炎、…その原因となっているウイルスを特定したとして、ゲノム情報の開示までしてるんですよ」

思わしくない表情でぼんやりとしたまま宙を見ているようにしていう神尾の言葉に滝岡が驚く。

「…―――UNKOWNじゃなくて、…もうウイルス構造が解ってるというのか?」

「はい、NCoV――新しい型のコロナウイルスだろうと」

「―――SARSも確かにコロナウイルス系統だが、…確定したのか?」

「もう未確定ではないということですね。診断未確定ではなく、新しい未知のウイルスが原因の重症肺炎で、…――重症肺炎の原因は、その未知のコロナウイルスだと解析した結果を公表してるんです」

「…――妙だな。十二月三十日だったろう?おまえが気が付いたのは」

「はい、…。尤も、後から、十二月初めにはある程度話題になっていたようなんですが。十一月にはペストも発生していたようですから、…――」

「いや、だが、それはおかしいだろう。そんなに早く解るものか?十二月として、いや、十一月なら有り得るのか?まるで、最初から知っていたみたいに早いな」

疑念をあらわにする滝岡に神尾がうなずく。

「いまの処、中国からの情報では、ヒト―ヒト感染しない、動物からおそらく移ったウイルスで、そうした動物と濃厚接触した地方市場でだけ局地的な流行が見られると。これまで知られていない重症化する肺炎で、治療法はまだない。…ということなんですが」

「ヒトーヒト感染はするだろう。だって、隔離してるんだろう?」

神尾の言葉に首をかしげて、不思議そうにいう滝岡に歯切れ悪く神尾がいう。

「…―――鳥インフルエンザでも、隔離はするでしょうから、…―――」

「確かに、高病原性鳥インフルエンザの場合、相当に濃い接触をしないと感染はしなくても、隔離もするだろうが、…――重症が七人だろう?判明している感染者数は?」

「はい――いまは確か四十一人です」

「四十一人が全て、鳥インフルのように濃厚接触していたというのか?全員が?動物か何かとの濃厚接触?それに、…家族内感染?――絶対無いことはないだろうが、…。難しくないか?関係性は解っているのか?」

「いえ、詳細までは。…発生したといわれる市場関係が多いとはいわれていますが、―――」

「疑っているんだな?」

もどかしいように言葉を濁らせる神尾に、まっすぐ正面からみて滝岡がいう。

正面から滝岡に見られて神尾が詰まる。

「現地報告ですから、…実際に確認するまでは、どんな感染症でもその報告内容は疑うのが基本です。見えていない情報があるときがありますから、―――あるいは、複数の情報源をあわせて考えるんですが、…今回は、その」

言い淀む神尾に、滝岡がうなずく。

「つまり、情報源が少ないから、実際に何が起こっているのかは不明という訳だな?」

「――いえ、…はい」

「歯切れが悪いな。どうした?小集団として、見つかっている同じ感染症と思われる集団がいる。この場合、原因となるウイルスが本当に同定されているとして、それらが検査され同定されている数として、既に四十一人というわけだ」

 席から立ち、言葉にしながら考えを纏めているような滝岡に、神尾が真摯な視線を向ける。

 滝岡が歩きながら思考を纏めるように話し続ける。

「もし、これらの集団に関係性がなかった場合、―――閉じた集団でない場合には、他に感染を見逃されているある程度の人数があると考える方が自然じゃないのか?」

真っ直ぐに見据えられて神尾が言葉に詰まる。何処か、泣きそうな神尾の表情に僅かに眉を寄せ、滝岡が続ける。

「情報は少ない。どうして、ヒトーヒト感染しないと言い切れる?むしろ、この小集団の発生は、――尤も、元の単位自体が集団でさえない孤発例ばかりかもしれない。集団の性質に関して情報はみえていない訳だ。…全員が同じ村で発生地が他の地域から遠く離れている、という訳ではないんだろう?」

「はい、その通りです。発生地は、都市部にある市場で、人の出入りが多い場所のようです」

神尾の言葉に滝岡がしばし考え込む。

「中国は人口が多い。全ての動態が把握できるような環境ではないと考えた方がいいだろう。人口の多い都市部で発生した未知の感染症で、重症肺炎が既に七名発生していて、  御一人が亡くなられた。…既に、解っているだけで四十一名の方が感染している」

滝岡が沈黙してしばし、動くのを忘れたようにしている。

「…その、滝岡さん?」

「…神尾」

「はい」

「ヒトヒト感染を否定する要素はないな。むしろ、補強されているといっていい状況にみえる。…神尾、しないわけがないだろう。というか、する前提で考えなくてはいけないんじゃないか?神尾」

厳しい視線を向けて滝岡がいうのに、困り果てたような表情を神尾がする。

「…そう、何ですよね、…。そうなんです。…ですが、どうも」

「…神尾?」

神尾が、応えられずにくちびるをかむ。

「どうした?もしかして、…――おまえ、――そういえば、知り合いとかにも聞くとこの間いっていたが、…。何かあるのか?もしかして、対策は、ヒトーヒト感染しない前提で行われてるのか、まさか、検疫とかも?」

「―――…そのようです、はい」

驚いたようにいう滝岡に、暗く言い淀んでから神尾がくちにしていた。何かをためらうように、困惑と何処か哀しみを持つような表情で。

「…情報を、鵜呑みにしているようで、…まだ、それだけならいいんですが」

「まだまし?何が起こってる?…すまん、情報収集を任せていて。ニュースくらいしかチェックしてないが、…実際には何が起こってるんだ?集団感染が起きていると思われる新興感染症対策をするのに、…ヒトーヒト感染の可能性を排除している?何の証拠があって?」

訝しげに続ける滝岡に、神尾が一つ目を閉じてため息を吐く。

「…滝岡さん」

無言で見返す滝岡に、目を開いて、何かを哀しむように見返して。

「対策、―――間違った方針で立てられているかもしれません」

それ以上言葉を持てずにいる神尾を、正面からしばらくながめて。

「…そうか、神尾」

「滝岡さん、…」

「わかった」

「え?」

首を傾げる神尾に、軽く滝岡が微笑んでみせる。

悩んでいる風の神尾に視線をおいてから、滝岡がきっぱりと。

「神尾。では、日本での市中感染の事を考えないといけないな?」

「…え?市中感染ですか?」

驚いて見返す神尾に、滝岡がうなずいていた。





「市中感染だ。神尾、もし、ヒトーヒト感染をしない前提でいるとしたら、――そうでなくともだが、検疫は擦り抜けて入ってくると思った方がいい。違うか?」

「…はい。」

蒼い顔で神尾が、はっきりした口調で続ける滝岡を見返す。

「だとしたら、知らない内に患者さんが、あるいはまったく健康な人が保菌していて、不顕性感染者として入ってきていると思った方がいい。そして、ヒトーヒト感染する以上、市中ではすでにある程度は広がっていると考えた方がいいだろう。市中感染がすでに起こっている前提でものを考えた方がいい」

「すでに、ですか」

滝岡のはっきりとした物言いに神尾が呑まれたようにして茫然と繰り返す。

 それに、明るいくらいの瞳で、滝岡が不思議そうに問い返す。

「既に、だ。違うのか?神尾」

「そこまでは、…考えていませんでした。そうですね、そう、…」

眉を寄せて顔色がさらに悪くなる神尾に、滝岡が困ったように見返す。

「神尾、どうした?対策しなくてはいけないと思うんだが、…?」

首を傾げる滝岡に、ふう、と息を吐いて神尾がお湯を入れたマグを手にくちにする。

「座って良いですか?」

「もちろんだが、…。座ってくれ、ほら」

元々、外科オフィスの休憩コーナーは出入り自由で好きに座ろうが眠りこけようが構わない、いささかフリーダムな場所になっている。外科だけでなく、むしろこの休憩室には、いまいるように感染症専門医の神尾がいたり、あるいは集中治療室専門医師の永瀬が腹を出して寝ていることも多いのだが。

 滝岡が指し示すソファではなく、神尾が視線を置く椅子に気付いて。

「座ってくれ。西野の椅子だが、構わんだろう。使って良い。で、どうした?」

「ありがとうございます」

いいながら、神尾が西野のデスクから椅子を引っ張り、座って滝岡に向き直る。

「どうした?」

「…―――滝岡さん」

「ああ…?」

訝しげに見る滝岡にうなずく。

「中国が本当の事をいってるとは思えません」

神尾が真剣にいうのに滝岡が沈黙する。

 しばし、二人の間に沈黙の天使が踊って。

 しばらくしてから、滝岡がゆっくりとくちをひらいた。

 少しばかり笑んで。

「それは当たり前じゃないのか?」

「…――滝岡さん、そんな、…――」

 さらりという滝岡に神尾が思わず絶句する。

 それにまったく構わず。

「百歩譲って、ウイルスのゲノムデータは本物だったとしよう。オープンにすれば、ある程度検証はされるから、偽物のデータを出してもすぐにわかってしまう。だから、それはないとしても、実際にそのゲノムデータが本当にいま中国のその都市――だけだとしてだが、――に流行を始めたといわれているウイルスのデータとも限らない」

「…根が暗いですね、滝岡さん、…」

中国側が確定したとして国際的に公表したウイルスのゲノムデータまで、本物かどうか検証しなくては解らない、という滝岡の発言に。

しみじみと、普段は温厚で怒った処をみたことがないといわれる落ち着いた滝岡の表情を見返して神尾がいう。

 それに、驚いたようにして。

「何をいってるんだ。別に暗い訳じゃないと思うぞ?単に最悪の事態を考えるようにしているだけなんだが。それに、研究とかなら、検証せずに肯定しないのが普通だろう?」

 暗いか?と首を傾げてから。不本意だというように、少しばかり顔に出していってみせる滝岡に神尾が苦笑する。

「それはそうですが、…。そうですね。どうも、わからないことが多くて」

「わからないこととは?」

神尾が首を振る。

「保健省とかは、どうも、中国のデータを鵜呑みにしているみたいで、…。何ていうんでしょうか。確かに、今回、中国はデータを出しているようにみえます。患者の経過等も公表していますし、先日は、―――」

「初めての死者を発表したな?御一人、亡くなられた」

いたましい顔をしていう滝岡にひとつうなずいて。

「そうです。…死者を隠していないというのも、…――SARSの時は、最初は死者を隠して、それが拡大に繋がり、多くの死者が出ましたからね、…―――。あのとき、中国側の対応が、そこで隠蔽せずに国際的に情報開示してくれていれば、…―――それは、本当にそう思います」

「亡くなった方が大勢出たからな。最初から情報を出していてくれれば、違っていたはずだ」

「そうです。中国側もその反省があり、CDCに似た組織を立ち上げて、ウイルスや感染症研究機関を作り、情報を開示する姿勢を今回も示してきました。…きたように、みえます」

思わしげな表情で俯く神尾に、明るく滝岡がいう。

「なら、情報開示されていない前提で動けばいいだろう」

「…あっさりしてますね、―――」

驚いてみる神尾に、滝岡が首を傾げる。

「つまり、おまえが悩んでいるのは、上がってきているデータがどこまで真実か解らないということだろう?だったら、最悪を想定して動けばいいだけのことじゃないか?」

何が難しいんだ?とあっさりいう滝岡に神尾が少しあきれる。

「――――思い切り、いいですね。…いつもですが」

「外科医だからな。思い切らんと動けん。患者さんは待ってくれないしな。…ちょっと待て、光を呼ぶ。構わんな?」

滝岡が神尾の言葉を肯定して。

「え?光さんを?…でもいま、時間外ですよ?夜間当直の時間なのに?」

つまり、夜間――当直時間に仕事をしたりとしながら、お互いに呼び出しをまっていながら会話をしていた訳だが。

 滝岡が、タブレットを操作して、光を呼び出す。

「構わん。確かにあいつは一度寝たらよほどでないと起きないが、コールすれば確実に起きる」

「え?あの?寝てる処を起さなくても、―――コールって、緊急コールですか?病院の?それは起きるでしょうけど、…怒られますよ?滝岡さん?」

あわてている神尾に構わず、滝岡があっさりとコールを示す画面を操作して。

「―――…なんだ?呼び出し?患者さんに何かあったのかっ?」

滝岡が神尾にも見えるように立てたタブレットの画面に起き出した光の寝癖のついた髪を同情してながめながら、神尾が謝る。

「すみません、…光さん、…」

「なんだ?神尾さん?つまり、感染症の患者さんか?急変か?何があった?」

矢継ぎ早にいう光に神尾が視線を逸らす。

穏やかに何事もないように、そこに滝岡が。

「すまん。これから大勢の患者さんが急変する可能性があるから呼んだ。危機管理を相談したい」

「―――なんだって?おおぜいの患者さんが急変する可能性?なにか?集団感染して、一気に患者さんが急変する可能性があるのか?急変って、重症化はどのレベルだ?」

光が口早に真顔になって問う。

「神尾」

「――そうですね、死因は多臓器不全、DIC、呼吸不全、重症肺炎がいまの処主な症状にみえますが、死亡の原因としては、――」

口籠もりながらいう神尾に、きっぱりと光がいう。

「つまり、人工呼吸器や、もっと高度な管理を必要とする程度ということだな?生死の、―――危篤状態で、急性期管理をする必要がある患者さんということか?」

「…まだ、わかりません、が…」

口籠もる神尾を画面から光が一瞥する。

「神尾先生は専門家だ」

きっぱりとした光の口調に神尾が見直す。

「はい」

「専門家は意見を顕すのに慎重でいい」

「―――…は、はい」

茫然と見返している神尾に光が一人腕組みしてうなずいて。

「当然だな、その見解は慎重に確認しないといえないだろう。別に神尾さんはそれでいい。正義」

名を呼ぶいとこに穏やかな視線を滝岡が向ける。

「ああ?」

「―――事情はわかった。患者さんが大量に急変する可能性がある感染症が広がるかもしれないんだな?」

光の言葉にあわてて神尾がいう。

「――あの、まだそう言い切れは、――…」

それに光がきっぱりという。

「しなくていい。それは、神尾さんが後から、確実に専門家としての意見をくれればいい。正義、緊急事態計画の策定が必要だな」

「その通りだ。起してすまなかっった」

さらり、と微笑んでいう滝岡に、きっぱりと光がいう。

「呼ばれなければ怒る。さて、院長には連絡したか?あれは普段はさぼってばかりだが、こういうときには役に立つぞ?」

「まだ呼び出しはかけていない。ここである程度まとめてから連絡しようと思う」

「そうだな。じいさんを夜中に起しては申し訳ない。どこまでやる?」

「とりあえずは、救急の入口制御を行いたいと思うんだが」

「救急だけか?あまいだろう。外来もだ」

「―――確かにな、大変な手続きになるが」

「なるな。手間がかかる。―――どうやる?」

「そうだな、…―――神尾、一般的な感染症対策の一番の基本は何だ?」

「基本、ですか?」

しばし考えて神尾がくちにする。

「…そうですね、隔離。発見と隔離ですね。原始的ですが」

「原始的なのは悪くない。電気がなくてもできるってことだろう?」

「――――でんき、ですか?」

突然の光の発言に戸惑って神尾が目を瞠る。

その前で、光の発言にも動じず滝岡がうなずいている。

「…滝岡さん?」

頼りない声で思わずくちにした神尾には応えず、滝岡がいう。

「そうだな。非常用発電の燃料が尽きたときのことも考えておかないとな」

「薪に関しては山にある程度用意はある。疎開する準備も出来ているしな。だが、当面は高度医療を保持する必要がある。そこを考えることだ」

「…――たきぎ、…――そかい、って、なにをかんがえているんです、…?」

茫然とくちにする神尾に構わず、滝岡がいとこにうなずく。

「確かに。電気がある状態が保持できているに越したことはない。井戸に動力が必要なのが痛いな」

「あれはな。ディーゼルが必要な深さだから仕方ない。ある程度は燃料を補給することで動かせるだろう。非常用電源は三重化と改めて補充と点検を行おう」

「だな。計画に組み込んでおく」

いいながら、壁面スクリーンが作動して、夜間用の光度で滝岡が作成した計画表が表示されていくのに神尾がくちをひらきかけてとじる。

「あの?」

「救急は第一級防護計画を発動する!問題は一般病床と外来だが」

光の宣言に、一覧表に確かに第一級防護計画の文字とエリア――救急となっているのに神尾が言葉を無くす。

 どうやら、非常時における滝岡総合病院での対応を時系列で記した表のようだが。

 図式をみながら、滝岡がつぶやく。

「外来エリア――玄関、だが」

「うん、正義?」

淡々と滝岡が表に入力する。

同時に、対応する病院平面図のエリアが。

「外はレッドゾーンと考えよう。外来から来る人はすべて感染者として対応する」

「…――滝岡さん?」

平面図に外来エリアと記された箇所の背景色が赤くなる。

 別の画面が同時に映し出されて、階層構造を現した病院全体図でも赤いエリアが表示される。

 リストへの滝岡の記入が進むと同時に平面図等に色が加わっていく。

救急エリアの入口は赤、中はイエロー。

救急から内部に入る廊下はグリーン。

「た、滝岡さん?」

「こんな処かな。外来患者さんの来る玄関は混在する。仕訳はホールでやろう」

「他に場所もないしな。いくつか場所を区切って、申請ゾーン、記録、記帳、振り分けとルートをしぼろう」

「それがいいな。いまとやっていることはかわらないが、―――。透明な区切りで通過するゲートを設けて、…エアもほしいんだが?」

滝岡の言葉に光が眉を寄せてにらむ。

「エア?仮設置でか?」

「恒久型にする時間はないだろう?」

「そんなものあったか、…わかった、作らせる」

「頼む。さて、と、…どうした?神尾?」

思わず振り向いた滝岡に白湯をくちに運び、神尾が首を振る。

「…その、なにをしてるんです?」

不思議そうに滝岡が見返す。

「おまえが引っ掛かる感染症があるというからな。どうも、市中感染を既に考えた方がよさそうな雰囲気だ」

「その、あの、…―――」

 真剣に向き合って言う滝岡に思わず神尾がつまる。

 それに、光が。

「いじめるなよ、正義。感染症の専門家が、確定もしてないことにうなずけるわけないだろ。おまえ、外科医だからって、感染症専門医をいじめちゃいけないぞ?」

光の物言いに滝岡が眉を寄せる。

「あのな?別にいじめていないぞ?重症化する肺炎を伴う感染症で感染力が不明、現地調査できない未知の感染症が発生していて、それが隣国になる。国交がある国相手なら、感染者がすでに日本に入ってきている可能性はあるだろう」

「うん?それで?」

 滝岡の言葉に光が淡々とうなずく。

「だとしたら、発生報告を待っていては遅い。既に、日本国内で市中感染が広まり始めている前提で動いた方がいい。それだけのことだが」

「――だから、イジメだ」

「何故だ」

 感染者が日本で発生した報告を待って動くのでは遅い、と。

 既に感染が市中で広がっている前提で動く必要があると、実に当然だとばかりにいう滝岡に光が続けていうのに滝岡が眉を寄せる。

 それに、諭すようにゆっくりと。

「だから、いじめだ。神尾さんはまだ何となく危険を感じてる勘状態だろう?」

「…―――」

無言で幾度も神尾がうなずく。それに光もうなずいて、きっぱりと。

滝岡に向いて、きっぱり言い切る。

「勘でいったことで、いきなり対策を練られたらいじめだろう」

「だから、なんでだ、…?光」

 いじめ?といって納得しない滝岡に光がゆっくりという。

「おまえ、此処に神尾さんを参加させてるだろう?」

「まあ、そうだが?神尾の話から始まったからな」

当然だろう、と不思議そうにいう滝岡に大きくうなずく。

大人がこどもにさとすようにゆっくりと。

「だから、神尾さんの意見を求めるだろう?」

「勿論だ。神尾がいってることは信頼性があるからな。それで?」

「だからだ、…まったく、正義。神尾さんが責任を感じるだろう」

子供に諭すような口調でいう光に、びっくりした顔で滝岡が神尾を振り返る。

「そうなのか?」

「…ええと、その、」

困惑している神尾に構わず光が言い切る。

「当人が気付いていなくてもそうだとも!俺達が対策を組んで動き出す。その基本は、おまえが神尾さんから聞いた意見だ。普通責任を感じるだろう」

「…どうしてだ?意見を聞いたとしても、それで動いたとしても俺達の責任だろう?神尾に責任はないぞ?」

本心から不思議そうにいう滝岡に、光がため息を吐く。

 普段、子供っぽさや何かを滝岡にたしなめられている光を見慣れている神尾が、その光景にも茫然としていると。

 不意に、滝岡がくるりと振り向いて神尾に向き直り、びっくりした神尾が椅子の背に身体を思い切り引く。

「…すまん、神尾」

「…――――――」

思い切り頭を下げる滝岡に、びっくりしてみていると。

「最初にはっきりいっておくべきだった。これから、おまえの意見を参考にして対策を立てるが、おまえに一切責任はない。それだけは明言しておく。最初にいわなかったのがわるかった。すまなかった」

「――いえ、あの、そういう、…」

わけでは、という神尾の声が小さく飲み込まれる。

「当然だが、この病院の対応を決めるのは、俺や光だけじゃない。皆の意見をきく。そうして方針を決めるが、その責任を取るのはおれだ。私が責任を取る。この病院の責任者だからな。」

「まあ、本来は院長とこいつと俺だけどな」

あっさりといって光が伸びをする。

「まあ、救急外来防護計画と、外来防護計画は以前からやってみたかった奴だしな。院内清浄区域を設けるのは、実は夢の一つだ!」

しみじみ、いきなり腕を組んで光が言い出すのに、表に何か怖いみたくないリストを付け加えながら滝岡があっさり同意する。

「確かにな。手術室は当然だが、院内全体、入院患者さん達がいる棟も当然だが、すべての院内エリアを清浄化して、感染の危険がない区域にするのは夢だな」

しみじみ、同意してうなずいている滝岡に、そっと離れながら神尾が思う。

 この御二人って、…―――――。

確かに、院内感染は病院の悪夢だ。そして、病院内が清浄である、―――つまりは、院内感染などがけして起きない清浄な空間であってほしい、というのは病院に勤めるものの夢ではあるだろう。

 だがしかし。

 ――普段は、かなり飛んだ思考をされる光さんを、常識人的にみえないこともない滝岡さんが止めたりしてるのが、みられるんですが、…――――。

 いや、その滝岡も確かに普通ではない、とは思ってはいたのだが。

 光が明るい声で元気よくいう。

「この際、それに挑戦する良い機会だと思わないか?目指せ!院内清浄化計画達成!」

「スローガンにいいな。入れておこう」

「…――――」

滝岡が同意して、壁面スクリーンに表示されている――光が大好きな特撮――のキャラクターに扮して、入院している子供達の前で医師達が演じる劇がこの病院ではある―――の、先日クリスマス公演で貼られていたポスターを利用して、滝岡がヒーロー達の吹き出し台詞にそのスローガンを入れているのを神尾がみてしまって。

 ―――この人達、…―――――。

 ふさけてはいないのだ、これでも。

 何処までも大真面目で。

 その上。

「てあらいでちきゅうをまもれ!きみもヒーローだ!」

 なんだか、五色の仮面を被ったヒーロー達――ちなみに、光は中央の赤いヒーローをクリスマスで演じた。滝岡は青の予定だったが、当直と手術があるといって逃れ、―――。

 ――僕はまた、ホワイトを演じることになりそうな気がしますね…。

昨年逃げ損ねた神尾は、一員としてホワイトナイト―――聞くだに恥ずかしいのだが――の着ぐるみを着て舞台に上がることになった。ちなみに、いつもうまく逃れている滝岡はずるいと神尾は思っている。

 滝岡が選択したポスター図案に、光がノリノリで台詞を入力している。

「いくぞ!かんせんよぼうだ!マスクマン!マスク戦隊とかがいいかな、今回は」

「―――…」

計画を勝手に進めている滝岡と――着々と、何やら費用とか手間とか色々考えるのもこわい計画表を滝岡が作成していっている。――ノリノリで院内掲示されることになるポスター等に台詞を入れて、他にも何か始めている光に。

 ――滝岡さんに相談したときは、何だか真っ暗だったはずなんですが、…。

 実際、この感染症の正体がどうにもつかめなくて、そのつかめないこと自体が恐ろしい気がして身動きも取れないように感じていた神尾だったのだが。

「…――ヒーローで手洗い作戦ですか?」

神尾がちょっと天井を見つめて泣きそうになる。

 滝岡総合病院は、二つの主な棟から成り立っている。

 一つは、一般外来を中心とした手術と入院を請け負う通常の総合病院。

 もう一つは、光の専門とする小児外科を中心とした、特殊な病気にも対応する小児専門病棟だ。それに、産婦人科と新生児外来を中心とした棟が併設されている。

 クリスマスに劇が行われるのは、その小児専門病棟に入院している子供達の為だ。

 尤も、滝岡にいわせれば、光がやりたいから、子供達に付き合ってもらっているということらしいのだが。

 ――光さんらしい、というか、…。

 そして。

 当直の静かな夜に、滝岡が進めているのは。





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