人間、みたいな
土砂降りの雨の中、冬の山中を歩いている。
雨に濡れた大地はぬかるんでいて、注意しなければすぐに足をとられてしまいそうだ。
パステルカラーのコートはとても丈夫な作りで、雨水が染み出てくることは無かった。歩くたびにぬかるみから泥が撥ねるので、コートの裾に付かないように注意しながら進む。
あの日、かつて生活を共にした老人を中心にできた集落が今も残っていなければ、誰にも助けられずに草木の中で朽ち果てていただろう。僕は幸運だった。
やがて、開けた場所に出る。コートと同じ色の花々が咲くこの地は、息を飲むほどに美しかった。
この場所も百数年のうちに随分と変わったものだ。
僕が知っているのは、黄色と桃色、空色の花がそれぞれ一本ずつしか咲いていないとても寂しい場所だった。それが、籠いっぱいに摘んでもなんの変化も見られないほどの花畑になっていたのだから、思わず驚いて「こんなに咲いているだなんて」と口走ってしまった。きっと初めてここに訪れた者として、違和感がある反応だっただろう。
花畑を進む。広大な土地に広がる花々は、川から離れるごとに数を減らしていく。川が見えなくなったころには、視界に入る花の本数は指を折って数えることができるほど減少していた。
一か所だけ、不自然に葉が茂っているように見えるところがある。それは、そこにあるものを避けるために密集して生えているからだと僕は知っている。
草をかき分け開いたところに、それは鎮座していた。
祠。
僕の眠る場所。
精霊は弱って精気を失うと、実体を持ってしまう。今回は不躾な魔獣が現れたことで、精気が凍えて実体を持ってしまった。魔獣ごときに情けないが、膨大な冷気を纏っている氷の化身と水の精霊とでは、正直分が悪かったのである。
彼女のおかげで精気を取り戻した体は、もう実体を失う直前だ。数百年前の時は気が付かず老人の家で姿を消してしまったが、今回は前触れに気が付いて良かった。それに前触れは人間が見るにはあまりにショッキングなものだから、屋外に出た際に起きてとても幸運だった。
別れの言葉の一つぐらい、言えば良かっただろうか。いや、そんなことをすれば問い詰められるだけだ。そんなことをされたら、彼女から離れるという決意が鈍ってしまう。これで良いんだ。
魔獣のことは、きっとあの騎士たちがなんとかするだろう。僕は安心して祠で眠りにつけるはずだ。
実体をもつ際の依り代となる、青いトパーズのネックレスと共に。
懐をまさぐる。
無い。
ネックレスがない。
冷たい汗が首筋をつたう。
どこで落とした? 来るときは足元ばかり見ていたから、落とせば気が付くはずだ。でも、気が付かなかった。それでは、一体どこに。
「カーン。ネックレスを探してるの? それなら、家に忘れていったわよ」
あまりにも聞きなじみのある声。驚きのままに振り向くと、そこにはウーリントアがいた。
ぬかるみの中を走ってきたのだろう。可愛らしい顔や服に泥が付着し、その汚れを冷たい雨水が滲ませていた。
「ウーリントア、どうして……」
「全部、分かったから。あなたの発言にはたまに違和感があったけど、昔からこの土地にいる水の精霊様だっていうなら全部納得がいくわ」
彼女はネックレスを持った手を突き出してくる。
「村に来る前のこと、聞かせてよ。正体は精霊様だって分かったんだし、隠すこともないでしょ? ほら、帰りましょう」
ウーリントアは僕の腕をがっしりと掴み、村に向かって歩きだす。僕はあまりの衝撃にされるがままで、抵抗することもできずに山道から引きずり下ろされてしまいそうになる。
その時。
ウーリントアが掴んでいた僕の右腕が、実体を失った。
彼女は自らの手から掴む感覚が無くなり、ひどく驚いた様子で右腕が透明になった僕の体を見つめていた。
「……え? そんな、どうして?」
「君のおかげ。元気になったから、本来の姿に戻りつつあるんだよ。精霊は本来実体を持たない存在だからね」
「じゃ、じゃあ、これからどんどん体が消えていっちゃうの?」
呆然とするウーリントアに、もう村に僕を連れ戻すほどの力は無いようだった。
彼女の手からネックレスを奪い取り、祠へと向かう。
……もし、僕が人間だったら、どれほど良かっただろうか。
ガサッ
それは、一瞬の出来事だった。
ウーリントアの右側の茂みから、純白の体毛を生やした獣が現れる。それは地響きに似た唸り声をあげながら、彼女に向かって鋭い鉤爪を振り下ろした。このまま放っておけば、彼女は無事では済まないだろう。
まるで人間のような愚かな感情が、僕の体を突き動かす。
ウーリントアの前で手を広げ立ちはだかった僕の胸を、魔獣の鉤爪は貫いた。傷口からコートに血が滲み、突き刺さった鉤爪から冷たいものが体の中に広がっていく。
「カーン!? 何してるの!?」
彼女の悲劇的な叫び声が鼓膜に焼き付いた。
鉤爪を振るった後、獣は目に見えて弱りだした。騎士たちの説明では、彼らの爪は一つの山を覆ってしまうほどに膨大な冷気を纏い、それを一生で一度の鉤爪での攻撃で対象一つに込めた後、この魔獣は絶命してしまうらしい。あまりにも愚かしい生命体だ。
あまりの痛みと凍るような体の内部の冷たさに倒れる僕の体を、ウーリントアが受け止める。
「申し訳ない。君がくれた大事なコートに、酷い傷をつけてしまった」
「そんなものどうだって良いわよ! あなたを、あなたを助けないと……」
彼女は徐々に冷たくなる僕の体を温めようと、懸命に抱きしめてくる。そんな優しい彼女に、僕は笑いかけた。
「この鉤爪には、襲ったものを凍らせるほどの力があるらしい。水は凍ったら氷になる、だから僕の水の精霊としての力はこれから変質してしまうだろう。恵みの雨は雪になり、川は凍り、動植物たちは眠りにつく。この豊かな生態系は、徐々に破壊されていく。君は村人を連れてここから出ていってくれ。ここは時期に、人間の住めない土地になる」
未だ動揺している彼女に、僕は語りかけた。
「君との生活は、とても楽しいものだった。己がこの地を守る精霊だと忘れて、人間だと錯覚してしまうほど充実した日々だった」
震える彼女の頬に触れ、雨水を拭う。
「最後に、精霊としての使命を全部捨てて、君を守れて良かったよ。愛する人を庇うだなんて、愚かな人間みたいだろ?」
「……嫌だ、最後だなんて言わないで! あなたとは、まだ」
言葉を紡ごうとする彼女の口を塞ぐように、僕は冷たい唇で口づけをした。
「ウーリントア、愛してるよ」
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