第5話 疲れと手料理

午後の柔らかな日差しがカーテン越しに差し込み、颯馬の部屋は穏やかな空気に包まれていた。澪はベッドの上で枕を抱え込み、ため息をつきながら足を軽く揺らしている。


「ねえ、颯馬。大切な人がいるって言っただけなのに、こんなことになるなんて……」

澪が拗ねたような声を上げる。


「そりゃ当然だろ。『大切な人がいる』なんて言ったら、みんな焦るに決まってる」

颯馬は本棚の前で手にしていた本をパタンと閉じ、澪を一瞥する。


「でも、あれくらい言いたくなるじゃない」

澪は少しふてくされたように顔を枕に埋めながら言う。


「……なんで言いたくなったんだよ」

颯馬は椅子に腰を下ろし、机の上に本を置きながら問いかけた。


澪は顔を枕から上げ、じっと颯馬を見つめた。そして、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべながら答える。

「だって、颯馬に意識してほしかったから」


その一言に、颯馬は一瞬だけ動きを止める。だが、すぐに視線をそらしながら、机の上にあったノートを開いた。

「……自分が告白祭りに巻き込まれる結果になることくらい考えろよ」


「そんなこと、言ってみないと分からなかったもの」

澪は軽く肩をすくめて答える。


「自業自得だな」

颯馬は呆れたようにため息をつき、ノートに視線を落とした。


澪は少し口をとがらせたが、すぐに小さく笑い、ベッドから立ち上がった。颯馬の机の横まで歩み寄り、彼の横顔をじっと見つめる。


「ねえ、疲れたから甘えさせて」

澪が少しだけ上目遣いで言うと、颯馬は顔を上げて眉をひそめた。


「は?」

颯馬の反応を気にせず、澪は軽く彼の肩を叩く。


「ほら、膝枕してよ。疲れたの、私」

澪は当たり前のような顔で言う。


「なんで俺がそんなこと……」

颯馬は言いかけたが、澪の疲れた表情に気づいて、言葉を飲み込んだ。


「お願い。許嫁なんだから、これくらいしてくれてもいいでしょ?」

澪が小さな声で頼むように言うと、颯馬はため息をついて立ち上がった。


「仕方ないな」

そう言いながら、自分のベッドに腰を下ろす。


澪は嬉しそうに笑い、颯馬の隣にちょこんと座ると、その膝に頭を乗せた。

「やっぱり、颯馬の膝、落ち着く」


「何が『やっぱり』だよ。初めてだろ、こんなこと」

颯馬は少し顔を赤らめながらも、澪の髪をそっと撫でる。


「うん。でも、ずっとこうしたかったの」

澪は目を閉じながら、静かに呟いた。


部屋には時計の針の音と、外から聞こえる微かな風の音だけが響いていた。颯馬はしばらく無言のまま澪の髪を撫で続ける。


「ねえ、颯馬」

澪が目を閉じたまま、ふっと呟く。


「なんだ」

颯馬は少し優しい声で答える。


「私、疲れたけど……やっぱり『大切な人がいる』って言って良かったと思ってる」


「どうしてだよ」


「こうして、甘えさせてもらえてるから」

澪は笑みを浮かべながら答えた。


「……ほんと、お前ってズルいよな」

颯馬は呆れたように言いながらも、手の動きを止めることはなかった。


そのまま二人は静かな時間を共有し、夕方の日差しが少しずつ部屋をオレンジ色に染めていった。



澪は膝枕の体勢からゆっくりと上体を起こし、軽く伸びをした。

「ふう……少し楽になったかも」


颯馬は横にずれた澪を見ながら、静かに息をつく。

「それならよかった。膝が痺れる前で助かったよ」


「そんなこと言わないの」

澪はふふっと笑いながら、軽く彼の膝を叩いた。

「さて、お昼にしようか」


「そうだな。簡単に何か作るか」

颯馬が立ち上がろうとすると、澪が手を伸ばして制した。


「今日は私が作るわ」

「お前が?」

颯馬は意外そうに眉を上げる。


「普段お弁当作ってるの、誰だと思ってるの? こういう時こそ、私に任せて」

澪が当然のように言うと、颯馬は一瞬考えたが、結局頷いた。


「まあ、いつも美味しいし、任せるか」


「そうそう、最初からそう言えばいいのよ」

澪は満足げに微笑み、キッチンに向かった。



颯馬はしばらくリビングのソファに座っていたが、キッチンから聞こえる澪の手際よい音に少し気になり、そっと様子を見に行った。

澪はエプロンを身に着け、リズミカルに包丁を使っている。


「なあ、手伝うことあるか?」

颯馬が声をかけると、澪は振り返らずに答えた。


「いいから座って待ってて。いつも通りの味をちゃんと作るから」


「いつも通りって……まあ、それなら安心だ」

颯馬は小さく息を吐き、リビングのソファに座った。



食卓には、普段のお弁当の延長線上にあるような料理が並べられていた。澪は席に着きながら、少し得意げな笑みを浮かべる。


「はい、できました」

颯馬は一口食べて、ゆっくりと箸を置いた。


「……うん、いつも通りだな」

「でしょ?」

澪が胸を張る。


「こういう時に普段と変わらない味が出せるのが、お前らしい」

颯馬は静かに箸を動かしながら、安心したように小さく笑う。


「なんか褒められてるのか分からないけど、まあいいわ」

澪は肩をすくめつつも、どこか嬉しそうに微笑む。


食事中のやり取りは、まるで長年連れ添った夫婦のように自然で落ち着いていた。時折颯馬が「これ、弁当のときと少し違うか?」と尋ねると、澪が「ほんのちょっとだけアレンジね」と返す。そのやり取りに特別な意識は感じられないが、どこか温かい空気が漂っていた。



食事を終えた澪が皿を片付けながら、颯馬にちらりと視線を送る。

「片付けは私がやるから、颯馬は座ってて」


「いや、それくらいは手伝う」

颯馬が立ち上がろうとするが、澪は軽く首を振る。


「今日は私の特別サービスだから、全部任せて」

その言葉に、颯馬は少し戸惑った表情を見せたが、結局座り直した。


片付けを終えた澪が部屋に戻ってくると、颯馬は椅子に座り、ノートを広げていた。

「はい、完了っと」

澪はベッドに腰を下ろし、軽く伸びをする。


「お疲れ」

颯馬は短くそう言い、ノートから視線を上げない。


澪はしばらく彼の顔を眺めていたが、ふと小さく笑みを浮かべた。

「ねえ、颯馬」


「なんだ」


「次は、もっと直接狙っていくから」

澪が意味深な笑みを浮かべて言うと、颯馬は手を止めて彼女を見た。


「……何の話だ?」

眉をひそめながら問い返すが、澪は「秘密」とだけ答えた。


颯馬は肩をすくめて再びノートに目を戻すが、どこか気になっている様子だった。澪はそんな彼を横目で見ながら、心の中で次の作戦を思い描いていた。


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