第4話 揺さぶりとお願い

昼休みの生徒会室は静寂に包まれていた。澪が席に着き、弁当箱の蓋を外すと、颯馬が水筒を手にして何気なく彼女を見た。


「遅かったな」

「教室でちょっと話が長引いて」


澪はさらりと答え、箸を取り出して食べ始める。その動作はどこまでも自然で、颯馬も何も言わずに昼食を進めていたが、ふとしたタイミングで口を開いた。


「聞いたぞ。告白されたんだって?」


澪は箸を持つ手を止め、颯馬をちらりと見た。

「ええ、まあね」


「しかも恋人がいるとか言って断ったって噂になってるぞ」

颯馬の声には、軽い調子を装いながらもどこか探るような響きが混じっていた。


澪はその言葉に、小さく微笑む。

「それ、私は一言も言ってないのよ」


「じゃあ、何て言ったんだ?」


澪は少し間をおいて、ふっとため息をつくように答えた。

「『大切な人がいる』って言っただけ。それだけで十分だったから」


その言葉を聞いた瞬間、颯馬の手が止まる。彼は箸を置き、少し考えるように視線を落とした。


「……大切な人、ね」


「そう。大切な人がいるのに他の人を選ぶなんて失礼でしょう?」

澪はさらりと付け加えたが、その目はじっと颯馬を見つめていた。


颯馬はその視線を受け止めきれず、少し視線を逸らしながら、ぎこちなく水筒を持ち直した。

「まあ……それはそうかもしれないな」


澪は彼の反応を見て、小さく微笑む。その笑みには、どこか安心感と期待が混じっていた。彼がその意味を理解しているのかどうか、探るような目をしながら澪はふいに口を開いた。


「ねえ、颯馬」

「何だ?」


澪は少し身を乗り出し、颯馬をまっすぐ見つめる。

「『大切な人がいる』って言われて、許婚さんはどう思った?」


その言葉に、颯馬は完全に動きを止めた。視線を澪に戻すが、その目は驚きと戸惑いで揺れている。


「……俺がどう思ったか、って?」

颯馬は返事をするものの、その声はどこか不安定だ。


澪は小さく頷く。

「そうよ。言われた時、何か感じなかった?」


颯馬は少し視線を彷徨わせながら、答えを探しているようだったが、結局口を閉じてしまう。その反応を見た澪は、小さく笑いながら肩をすくめた。


「まあ、無理に答えなくていいわ。時間はたっぷりあるもの」


澪はそう言って再び弁当に箸を伸ばすが、彼女の顔にはわずかに柔らかい笑みが浮かんでいる。その笑みを見た颯馬は、何かを言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。


二人の会話はそれ以上進まなかったが、澪の胸の中には小さな達成感が広がっていた。颯馬が言葉を失ったその瞬間こそが、彼が少しずつ動き出している証だと感じたからだ。


一方、颯馬は澪の言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、自分がどう思ったのか、その答えを模索していた。


(……どう思った、か)


それを考えるたびに胸の奥がざわつき、落ち着かない気持ちが広がっていく。澪の「大切な人」という言葉は、確実に彼の心を揺さぶっていた。


「ねえ、颯馬」


「何だ?」

 

颯馬は弁当のおかずを口に運びながら答える。


「さっきの噂、誤解だからちゃんと解いといてね」


「噂って……恋人がいるってやつか?」


「そう。それ、私一言も言ってないから」

 

澪は淡々と答えながら卵焼きを口に運ぶ。


「お前が『大切な人がいる』なんて言うから、そう解釈されるんだろうが」


「その解釈が間違いだって言っておいてってことよ」


「……ったく、分かったよ」

 

颯馬は小さく息を吐きながら、半ば呆れたように返事をする。


「よろしくね」

 

澪はさらりとそう言うと、再び弁当に集中した。



昼休みが終わり、颯馬が教室に戻ると、藤崎涼太が机に肘をついてこちらを見ていた。隣では大森拓也がノートを広げつつ、何かを計算している。


涼太が顔を上げ、頬杖をつきながら話しかけてきた。

 

「よ、颯馬。雪村さんに彼氏がいるって噂、もう聞いてるだろ?」


颯馬は鞄を置きながら、少しだけ目を細めた。

 

「聞いたけど、それは違う。本人がそんなこと言った覚えはないと言っていた」


「お、さすが直接確認済み」

 

涼太が軽く笑いながら、机に身を乗り出す。

 

「で、なんて言ったんだよ?」


「『大切な人がいる』と言っただけだそうだ」

 

颯馬は椅子に腰を下ろし、ノートを広げる。


「大切な人、ねえ……」

 

涼太が少し考えるように天井を見上げる。

 

「それ、男子たち結構ショックだろうな。『氷雪の姫君』がそう言うなんてさ」


「だろうな。でも、その言葉だけで好きな人確定ってわけでもないだろ」

 

拓也がペンを回しながら淡々と言う。


「いやいや、普通に考えたらそうだろ? わざわざ『大切な人』なんて言うんだからさ」

 

涼太が反論するように肩をすくめる。


「だとしても、誰のことかなんて分からないだろう」

 

拓也がペンを止め、顎に手を当てる。

 

「同級生かもしれないし、先輩とか、もっと年上って可能性もある」


「えー、もし大学生とか社会人とかだったらどうするよ。学校の男子、勝ち目なくね?」

 

涼太が少し大げさに言うと、拓也は冷静に返す。


「そういう現実を考えたら、狙ってる奴らは確かに焦るだろうな」


「だろ? 雪村さん狙いの奴ら、今頃ヒヤヒヤしてんじゃね?」

 

涼太が軽く笑いながら言うと、拓也は小さく笑った。


「まあ、恋愛事情なんて他人には分からないもんだ。気にするだけ無駄だろう」

 

拓也は再びノートに目を戻す。


「でもさー、誰なんだろうな。その『大切な人』ってさ」

 

涼太がニヤリと笑い、颯馬をチラリと見る。


「お前、また生徒会の誰か説を推したいのか?」

 

拓也が小さくため息をつきながら涼太に問いかける。


「そりゃそうだろ。一番近くにいるのは颯馬だし、生徒会室で二人きりとか普通にあるだろ?」


「仕事をしているだけだ。それ以上でも以下でもない」

 

颯馬はノートをめくりながら、冷静に答える。


「そういう言い方するあたり、やっぱり可能性あるんじゃねーの?」

 

涼太が再び挑発するように言う。


「お前の妄想に付き合うつもりはない」

颯馬は淡々と返すと、拓也が小さく笑った。


「まあ、雪村さんのことは雪村さんしか知らない。こっちが勝手に想像しても仕方ないだろう」

拓也はペンを置きながら、涼太の肩を軽く叩く。


「分かってるって。でも、ちょっとぐらい話題にしてもいいだろ?こういう話、楽しいじゃん?」

 

涼太が冗談めかして言う。


「……どうだろうな」

 

颯馬は一瞬だけ視線を上げたが、またすぐにノートに戻った。


涼太が肩をすくめ、拓也が静かに首を振る。二人は何か言い足りなさそうな表情を浮かべながらも、自分たちの席に戻っていった。教室には昼休み終わりのざわめきが響き始める。


颯馬はノートに視線を落としながら、小さく息を吐いた。

 

(次はどんなことしてくるのか……)


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