第3話 告白と大切な人

朝、登校して教室に向かう途中、澪はいつものように靴箱の前で足を止めた。白い封筒が一枚、きちんと整えられた状態で置かれている。特に珍しいことではない。封筒の端に書かれた「雪村さんへ」という文字を見た瞬間、彼女は軽くため息をついた。


(また、か)


黙って手紙を手に取ると、中身を確認することもなくポケットにしまい込む。彼女にとって、この行動は日常の一部に過ぎない。


ホームルームが終わり、1時間目の授業が始まった。黒板には教師が次々と公式や図を記していく。澪はそれを淡々とノートに写し取りながら、まっすぐとした線を引き、必要な箇所にきっちりと印をつけていく。その動作は、どこか機械的で完璧だった。


(いつも通り、断るだけ。それで終わり)


彼女は頭の片隅でそう考えながらも、どこか違和感を覚えていた。これまで澪は呼び出されるたび、冷静に断ることを繰り返してきた。その行為に特別な感情を抱くことはなく、ただ機械的に処理するだけだった。


だが最近、自分の状況を冷静に観察する中で、別の感情が芽生え始めていた。


(……どうせなら、もう少し楽しませてもらってもいいのかな)


許婚である颯馬との関係。今はまだ誰にも知られていないこの「特別な繋がり」をどう動かそうか考えていた。

澪はふと筆を止め、考え込むように視線を落とした。


(せっかくなら颯馬を揺さぶるのに使わせてもらおうかしら)


彼女の口元にわずかな笑みが浮かぶ。その笑みは意地悪でもなく、冷たいものでもなかった。ただ、何かを企んでいるような楽しげな表情だった。



2時間目と3時間目の間の休み時間が訪れた。教室の中は、生徒たちの笑い声と話し声で一気に活気づく。澪は静かに席を立ち、廊下へ向かおうとした。


「どこ行くの?」

 

隣の席の明日香が声をかけてきた。軽い口調だが、興味深そうな目をしている。


「少し外へ行ってくるだけ」

 

澪は短く答えた。その一言で察した明日香は、口元に小さな笑みを浮かべる。


「また呼び出し? 男子たちも懲りないよね。告白して振られるのって、もはやわかりきってるじゃん」


前の席の夏希も振り返る。

 

「ほんとそれ。『氷雪の姫君』の異名を恐れない人がまだいるのが驚きだわ」


「でもさ、澪がどう返事してるのかも気になるよね。淡々と『ごめんなさい』って言ってるんでしょ?」

 

明日香がクスクスと笑いながら言う。


「……別にどうでもいいわ」

 

澪はそっけなく返し、何の感情も見せないまま鞄に手を伸ばす。教科書を片付ける彼女を見て、明日香が肩をすくめる。


「冷たいなー。まあ、そこが澪らしいけどさ」


澪は友人たちの会話を軽く流すと、静かに教室を出た。



廊下を歩きながら、澪は窓の外に目をやった。澄み渡る青空が視界に広がっている。教室の中のざわめきが徐々に遠ざかり、周囲には自分の足音だけが響いていた。


(「大切な人がいる」って言ってみるのも悪くないかも)


その言葉が持つ力を思うと、自然と胸が高鳴った。これまでの断り方では生まれなかった波紋が広がるだろう。それは彼女にとって、青春という一つの舞台を盛り上げるスパイスになるはずだ。


(颯馬の耳に入ったら、彼はどんな反応をするんだろう)


階段の手すりに手を触れると、冷たい鉄の感触が指先に広がる。その感覚を楽しむように、澪はゆっくりと階段を上り始めた。踊り場には誰かが立っている気配がする。


澪は一度立ち止まり、軽く息を整えた。そして口元に微かな微笑を浮かべながら、再び歩みを進める。


(さて、どう伝えればいいかしら)


澪の背筋はまっすぐに伸び、その一歩一歩には迷いがない。その姿は、まさに「氷雪の姫君」と呼ばれるにふさわしい気品と落ち着きを漂わせていた。



階段の踊り場にたどり着くと、制服姿の男子生徒が待っていた。彼は澪の姿を認めると、少し緊張した面持ちで直立し、深く頭を下げた。


「雪村さん、来てくれてありがとう!」


その声は、廊下の静けさに響き渡るほどに張り詰めていた。澪は無言のまま小さく頷き、少し距離を取った位置に立つ。その表情には冷静さしか見えない。


「急に呼び出してごめん。でも、ずっと前から伝えたいと思ってたんだ」

男子生徒は一瞬言葉を詰まらせ、手に握りしめたハンカチをギュッと握りしめると、視線を澪に向けて叫ぶように言った。


「僕、雪村さんのことがずっと好きでした!」


その言葉が踊り場に響いた瞬間、澪は軽く息を吐きながら彼を見つめる。


「ありがとう。でも、ごめんなさい」


これまで何度も告げてきた言葉。しかし、澪はその次の言葉をためらわずに続けた。


「……大切な人がいるから」


男子生徒の顔に驚きの色が浮かぶ。しばらく澪を見つめた後、彼は消え入りそうな声で尋ねた。

「……そっか。恋人がいるんだね」


澪は何も言わずに小さく頭を下げた。彼の誤解を否定することもなく、そのまま踊り場を後にする。



お昼休みに入り少ししたタイミングで飲み物を買いに行っていた友人たちが話しかけてきた。

明日香がテンション高く詰め寄る。


「ねえ澪、恋人がいるって本当!?」


突然の質問に澪は一瞬だけ目を細めたが、すぐに冷静な表情を取り戻す。

 

「どこ情報?」


「男子たちの噂だよ!『恋人がいるから振られた』って話がもう広まってる」

 

明日香が勢いよく話すと、夏希も興味津々で続ける。


「そうそう、振られた男子が落ち込んでたんだけど、周りの男子たちが『恋人がいるなんて初耳だ』って騒いでたよ」


「……そんなこと、私は一言も言ってないけど」

 

澪は少しだけ首をかしげながら答えた。


「え? じゃあ何て言ったの?」

 

明日香が目を丸くして聞き返す。


「『大切な人がいるから』って言っただけ」

 

澪のその言葉に、二人の友人は顔を見合わせて声を揃えた。


「えー! なにそれ、なにそれ!」


明日香がさらに詰め寄る。

 

「大切な人ってことは、好きな人がいるってことでしょ? 誰? 澪にそんな人いたなんて初耳なんだけど!」


夏希も興奮気味に話を続ける。

 

「そうだよね! いつも冷静な澪が『大切な人』なんて言うなんて……ちょっとロマンチックすぎない?」


友人たちの追及に、澪はしばらく口を閉ざしていたが、ふいに小さく微笑んだ。その表情は、いつもの冷静さとは違い、どこか楽しげで、普段学校では見せないような柔らかいものだった。


「さあ、どうだろうね」


澪のその一言に、友人たちはさらに盛り上がりを見せたが、澪はそれ以上何も言わずに立ち上がった。


「ちょっと、生徒会室でお昼食べてくるわ」


友人たちが「えー! まだ話の途中なのに!」と不満を漏らす中、澪はさっさと教室を出ていった。廊下を歩きながら、ふと先ほどの友人たちの反応を思い出し、小さく笑みをこぼす。


----

⭐︎やフォローなどいただけましたら大変嬉しいです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る