第2話 バーベキューと許婚
休日の昼下がり。
結城家の庭に、肉を焼く香ばしい匂いが漂っていた。
「颯馬、お肉焼けたわよ」
母の声に振り向くと、そこには見慣れた光景が広がっている。
庭のウッドデッキでは、両家の父親たちがグリルを囲んでビールを片手に談笑している。
テーブルでは母親たちが料理の準備をしながら、昔話に花を咲かせていた。
「ちょうどいい焼き加減」
颯馬の横で、澪が静かに頷く。
学校での彼女とは違い、家族の前では柔らかな物腰を見せる。
それでも、華奢な箸使いや凛とした佇まいは、育ちの良さを物語っていた。
「澪、これを」
颯馬が焼きたての肉を差し出すと、澪は小さく目を細める。
「..……ありがとう」
一瞬の仕草に、彼女の喜びが滲む。
学校では見せない、密やかな表情。
「あら、相変わらずね」
雪村家の母が、優しく微笑みながら二人を見つめている。
「小さい頃から、颯馬君は澪の好みを覚えているのよね」
「本当にそう」
結城家の母も頷く。
「生まれた時からの縁なのよね」
「母さん、昔の話はいいだろ」
照れ隠しに言う颯馬に、澪は耳まで赤くなりながら俯く。
「……私は、嫌いじゃない」
その控えめな言葉に、両家の母たちは意味ありげな視線を交わす。
「なぁ、覚えてるか?」
雪村家の父が、結城家の父に向かって声をかける。
「大学の建築学科、4年の時の設計演習」
「ああ、徹夜続きだったあの課題か」
結城家の父が懐かしそうに笑う。
「あれ以来、ずっと変わらない付き合いだもんな」
「ほら、これ見て」
スマートフォンの画面には、若かりし頃の両親たちが映っている。
大学の製図室。疲れた顔でも笑顔の四人。
「それで、こっちは澪が生まれてから半年くらい経った頃かな」
雪村家の父が続ける。
「初めて結城家に遊びに来た時の写真」
画面をスクロールすると、リビングで寝転がる二人の赤ちゃんの写真が出てきた。
生後半年の澪と、生後3ヶ月の颯馬。
小さな手を伸ばして、互いの方を向いている姿が写っている。
「この時から二人は引かれ合っていたのよね」
結城家の母が懐かしそうに言う。
「実はね」
雪村家の父がグラスを置く。
「この写真には秘密があるんだ」
両家の親たちが、顔を見合わせる。
まるで昔から約束していたかのように、タイミングを合わせる。
「この日、約束したことがあってね」
母親たちが口を開く。
「二人は許嫁になってもらうって」
一瞬、空気が凍る。
颯馬の横で、澪の箸が微かに震えた。
彼女は何も言えず、ただ俯いたまま。
その横顔が、夕陽に染まって真っ赤になっている。
「なんていうか、運命を感じたのよ」
結城家の母が優しく続ける。
「二人とも同じ方向に手を伸ばして、まるで小さな恋人同士みたいで」
「えっ……」
澪の声が、かすかに震える。
結城家の父が笑う。
「ほら、ちゃんと誓約書まで作ったんだから」
取り出されたのは、少し色褪せた一枚の紙。
結城家の父が大学で使っていた製図用の便箋に、几帳面な字で宣誓文が書かれている。
両家の親のサインと印鑑まで押してある。
「でも、深く考えないでいいからね」
結城家の母が言う。
「私たちも、二人に重荷を背負わせるつもりはないの」
「そうそう、盛り上がって勢いで書いただけだしね」
雪村家の母も頷く。
「将来、結婚しなくても構わないから」
「ただの、青春を彩る演出くらいに思ってくれればいいわ」
「幼馴染で、実は許婚で、ってなんか物語みたいで特別じゃない?」
颯馬は黙したまま、動揺を隠せない。
そっと横を見ると、澪は真っ赤な顔を伏せたまま、自分の袖をぎゅっと掴んでいた。
「颯馬……」
囁くような声。
耳打ちするように、彼の名を呼ぶ。
「……なに?」
「後で……」
澪の声が途切れる。
「話、あるわ」
その言葉に、颯馬の心臓が高鳴った。
生まれてすぐからの幼なじみ。
親友で、そして――許嫁。
生まれる前から交流があった両家。
その長い関係性の中で決められた関係。
どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。
夕陽が沈みゆく中、二人の関係は、静かに、しかし確実に変わろうとしていた。
◇
初夏の夜、結城家の庭は新緑の香りと涼やかな風に包まれていた。
片付けを終えた颯馬は、澪に呼び出され、小さな東屋に向かっていた。
庭の隅にひっそりと佇むその場所は、子供の頃から二人の思い出が詰まった空間だった。
東屋に着くと、澪が月明かりの下、縁に腰掛けていた。
制服の袖を軽く掴みながら、ぼんやりと夜空を見上げている。
「どうしたんだよ、こんな時間に呼び出して」
颯馬が少し笑いながら問いかけると、澪はゆっくりと彼に視線を向けた。
「さっきの話、どう思う?」
唐突な問いに、颯馬は立ち止まる。
その表情には特に感情の起伏は見えないが、どこか探るような視線を感じた。
「許嫁の話か?」
澪は軽く頷く。
「正直、急に言われてもな……どう受け止めたらいいのか分からないよ」
そう言いながら、颯馬は隣に腰を下ろした。
「私ね……」
澪は夜風に髪を揺らしながら、ふと呟くように言葉を続ける。
「許嫁っていう言葉、最初はちょっと重いなって思ったの」
「まあ、そうだよな。いきなりだしな」
颯馬が軽く頷くと、澪は肩をすくめた。
「でもさ、少し考えたんだ。これって、普通じゃない特別なことなんじゃないかなって」
「特別?」
澪は視線を颯馬に向け、ほんのりと微笑む。
「だって、許嫁なんて、青春ドラマみたいじゃない?」
その言葉に、颯馬は少し驚いたように目を見開く。
「青春ドラマ……って、それどういう意味だよ」
「どういう意味でもないわ。ただ、そういう設定って普通じゃ経験できないし、なんだか面白いなって思っただけ」
澪の声には少しの照れと、少しの楽しさが混じっていた。
颯馬は澪の言葉に首をかしげた。
「つまり、楽しみたいってことか?」
「うん」
澪ははっきりと頷いた。
「せっかくだから、この『許嫁』って関係をうまく使って、楽しい思い出を作っていきたいと思うの」
その言葉に、颯馬はなんとも言えない気持ちになった。
「楽しい思い出、ね」
澪が言っていることは間違っていないし、重苦しい雰囲気ではない。
けれど、何かが胸の奥に引っかかるような気がしてならなかった。
「颯馬は……どう思う?」
突然の問いに、颯馬は思わず澪を見つめる。
月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、その瞳には僅かな期待が込められているように見えた。
「俺は……そうだな」
少し言葉に詰まりながらも、颯馬は軽く笑みを浮かべる。
「澪がそうしたいなら、それでいいと思うよ」
澪はその答えを聞き、満足したように頷いた。
「じゃあ、せっかくだし、許嫁ってことはしばらく秘密にしておきましょう」
「秘密?」
「そう。私たちだけが知っている特別なことって、なんだか素敵じゃない?そもそも私達が幼馴染ってことも、仲がいいってことも秘密にしてるし」
颯馬はその提案に少し驚きながらも、澪の表情を見て思わず笑ってしまった。
「まあ……悪くないかもな」
「でしょ?」
澪は嬉しそうに微笑む。その笑顔に、颯馬の胸が少しだけ高鳴る。
二人はしばらく黙って夜風を感じていた。
澪がふと立ち上がり、制服のスカートを軽く払いながら振り返る。
「ねえ、颯馬」
「ん?」
「これからの学校生活、もっと楽しくなる気がするわ」
「そうか?」
「だって、特別な関係があるんだもの。それをどう使うかは、私たち次第でしょ?」
その言葉に、颯馬は肩をすくめるように笑った。
「なんだか澪らしいな」
「そう?」
澪は軽く笑いながら東屋を出て行く。
その後ろ姿を見送りながら、颯馬は小さく息を吐く。
(澪のそういうところ、昔から変わらないよな……)
胸の中にある感情を言葉にすることはない。
けれど、それが何かをお互いに感じ取っていることだけは、二人とも分かっていた。
----
⭐︎やフォローなどいただけましたら大変嬉しいです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます