第3話 道場

       ◆


 朝、微かな物音で目を覚ますのと同時に「おはようございます」という控えめな声が廊下とを隔てるふすまの向こうから聞こえた。

 布団の上で起き上がり、座ったままで「おはようございます」と応じると、朝食はいかがしましょうか、と返事があった。

「いただきます。布団は自分で畳みますから、どうぞ、入ってください」

 失礼します、という声の後、襖が開いて昨日の夕方と同じ女中がそこにいた。その時には僕はもう布団を畳み始めていた。見覚えある笑みを見せながら、女中は布団を畳むのを手伝い、一度下がるとすぐに朝食を用意し始めた。白飯と汁物、あとは野菜を使った小鉢が幾つかある。ここに部屋を取った時に支払った銭からすると、十分な内容だ。

「風呂は朝から入れますか?」

 膳を用意している女中に聞くと、お食事の後でも間に合いますよ、と教えてくれた。

「しばらくはこちらに?」

「ええ、そうですね、まずは十日ほど泊めてもらえますか?」

 承りました、と女中が笑う。昨日の今日でほとんど話をしていないのに、意外に呼吸が合う相手だ。

 食事を済ませて、僕は手ぬぐいなどを用意して、宿を出た。出る時に風呂の場所を聞いたが、さして離れていないようだった。

 通りは意外に人が多いが、街に入ってくるものより出て行くものばかりだ。それも皆、まるで山に分け入るような服装だ。草鞋などではなく厚手の足袋のようなものを履いているあたりに、旅人との違いが見て取れる。しかしどうも猟に行くようでもない。

 そんな人々を見物する心地で通りを歩いていると、聞き慣れた音が耳に届いた。

 軽い音と鈍い音。甲高い声の交錯。床が踏まれ、鳴り、軋む音。

 足を向けるとすぐに目的の建物が見えた。人が集まっているのは、壁に切られた窓のようだ。格子がはめ込まれているところから、中を覗き込んでいる。

 僕もそこに並んで、様子を見た。

 やはり剣術の道場だった。めいめいの稽古着の人々が、竹刀で打ち合っている。防具はつけていないから、相当に痛むだろう。

 誰が指導者だろうか、と視線を巡らせたが、すぐにはわからない。道場の上座の方が一段高くなっていたが、そこに座っている人物はいないから、手ずから門人に稽古をつけているんだろう。

 竹刀の稽古で技の優劣を見極めるのは至難だ。門人が師範を打ち据える場面は珍しいからそれを見抜いてもいいが、そんなことよりも、足捌き、体捌きに技量が見えるものだ。

 動きのいい男性が三人ほどわかった。そのうちの一人、まだ二十代くらいの青年の動きが一番、洗練されているようだ。

 すぐそばで見物している男性にそのことを確認しようとしたが、顔を向けた途端、相手もこちらを見ていて、視線がぶつかった。

「どなたが師範ですか?」

 驚きをそっと隠して問いかけると、あの黒い稽古着の方だよ、と教えてもらえた。僕が目をつけた男性がまさに黒い稽古着を着ている。

 もう少し見物しようかと思っているところへ、今度は名前も知らない男性の方から声を向けられた。

「あんた、よそから来た人かい? どちらから?」

「東から参りました。旅をしているのです」

「こんなところへ、どうして来たんだね? 道に迷ったわけでもあるまいに」

 さすがに、名刀の噂に釣られてきた、とは言えない。

「少し、興味がありまして」

 やや苦し紛れにそう答えると、ああ、と相手の男性は勝手に勘違いしたようだった。

「剣術の修行でもしているのかね。ナクド様を訪ねてこられた?」

 ナクド様? 誰のことかわからなかったが、道場の師範かもしれない。

「いいえ、今はただ、風呂へ行く時に通りかかっただけで」

 さすがに男性は怪訝な顔に変わった。

「この時間に風呂かい? 不思議な御仁だ」

 相手が可笑しさに気づいたのか笑い出したので、僕としても笑っておく。そのままこの場を離れるのが妥当と判断して、今度こそ風呂に向かって道場のそばを離れた。

 歩きながら、あの道場をうまく利用してクズリバの領主の会えないものか考えたけれど、まだ道場に関して何も知らないに等しい。ただ、クズリバ氏に仕えるものとは接点があるのかもしれない。狭い街で道場が何軒もありはしないだろう。

 やっと風呂につき、汗を流し、ゆっくりと湯船に浸かった。ここでも新しい木材の匂いがしている。気分のいい匂いだ。

 他に風呂に人はいなかったので、長い時間をそこで過ごすことになった。ややのぼせそうになったところで、不意に着物を着た老人が入ってきて「清掃の時間です」といったことで、やっと出る気になった。

 風呂には風通しのいい休憩するための広間が併設されており、その広さからすると混む時にはそれなりの人数が利用すると想像できた。

 畳に寝そべった火照った体が涼しい風を心地よく感じる。

 風呂に入ってきた老人が休憩室に顔を見せたので、ここも掃除だろうと察してやっと僕は起き上がった。荷物をまとめて、表へ出た。

 通りは昼時だが、朝よりは動きが少ない。働きに出ている人は、昼間には帰ってこない、ということか。やはり山に入っているのだろうか。山にどんな仕事があるかを想像すると、材木を商うくらいしかない気がしてきた。

 それなら宿や風呂で新鮮な木の匂いがするのも頷ける。クズリバの街は周囲の山から材木を切り出し、どこかへ運んでいるのか。ただ、運ぶための道があるとは思えない。不思議なことだ。

 想像を膨らませながら、僕は何気なくまた道場の方へ行った。朝よりは人が減っているが、まだ窓を覗き込んでいる人が数人いる。朝に言葉を交わした男性の姿はなかった。

 道場の中を覗くと、もう竹刀を使っての稽古は終わっていた。

 代わりに、師範だろう黒い稽古着の男性が一人で板の間の真ん中に立ち、真剣を抜いていた。門人は壁際に並んで正座している。

 男性の体が動き始める。

 なめらかな足の運びと姿勢の変化。

 肩から肘、手首、そして刀の柄を握る手へと力が流れ、刀の切っ先が翻る。

 燕が翻るような軽やかな軌道を描く。

 刀は停止と加速を繰り返し、もちろん、立ち位置も姿勢もめまぐるしく変化する。

 僕はじっとその型を眺めた。

 なかなか使うかもしれない。そう思うのと同時に、やはりクズリバ氏と接点になるかもしれない、と思った。

 問題はどんな口実が一番信用されるか、だ。

 無表情に体を動かし続ける男性の顔を見ているうちに、思うことがあった。

 直線的に本音を向けてもいいかもしれない。



(続く)

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