第一章 春川輝夜編
第1話 ぼっちだもの と みつを先生が言った(言ってない)
梅雨時。
私は窓際の席で黒板の上に貼り出された真新しいクラス目標を意味もなく眺めていた。
「相互理解」
どこか綺麗事で空々しく響く四文字。
私はぼんやりと考える。相互理解なんてものはどちらか一方が何かを我慢し、飲み込む「妥協」の上でしか成り立たないのではないか、と。
本当の意味で互いが互いを100%受け入れるなんて、ファンタジーの中だけの話だ。
高校生になったばかりのくせにひねくれた……醒めた思考だとは自分でも思う。けれどまるで誰かが書いた脚本をただ演じさせられているかのような、奇妙な諦念が私の心を支配していた。
休み時間になってもそれは変わらない。クラスメイトたちの賑やかな笑い声や、小さなグループが生まれていくざわめきは私にとっては異世界のBGMだ。
あの輪に加わる勇気もきっかけも見つけられない。私こと夏野遥はいつも窓際の席で雨に濡れる校庭を眺めている「モブ」に徹している。
その姿は周りから見ればどう映っているのだろう?
「あの子、友達いないんだな」と軽く憐れまれるか。あるいは「何を考えているか分からないから、関わらない方がよさそう」と、敬遠される対象でしかないだろう。
私自身それを痛いほど理解していた。クラスに馴染めないのは私の人間性に「他者と円滑に関わる機能」が決定的に欠落しているから。
それは生まれつきのものではない。中学時代のあの出来事――執拗で、心を根こそぎ削り取るような悪意に満ちたいじめの記憶。それが今の私を、他者から距離を置く一人の観客として形作っている。
一度貼られたレッテルを剥がすのがどれほど困難で、波風を立てて目立ってしまうのがどれほど面倒なことか。私はそれを痛みを伴う形で学習しすぎてしまった。
(このまま、与えられた役目をこなすみたいに。三年間、教室の隅で空気みたいに過ごして、誰の記憶にも残らずに、高校らひっそりと退場していくのかなあ……)
明確に嫌われて敵意を向けられるよりも、誰の関心も引かない「中途半端な存在」であることの方が、よほど相手に気を遣わせない。
名前は知っているけど、話したことはない。卒業アルバムを見ても「こんな子いたっけ?」となる存在。それでいい。それが、私にとっても周りにとっても、一番コストのかからない「平和」なのだから。
――とまあ、そんな風に「孤独を愛する私」を気取ってみたところで、万が一にもこの夏野に用事があったらどうするのだという現実的な問題は残る。
今まで簡易な頼み事以外に用事を賜ったことなどないのだから、私が休み時間に保健室ソムリエになろうが、人気の少ない渡り廊下で雨を眺めていようが、誰一人困ることはないだろうけれど。
(好かれているわけでも、嫌われているわけでもない。無関心の中にいる。いいじゃないか、にんげんだもの)
相田みつを先生に聞かれたら、その雑な悟りを込めた言葉尻を即座に殴りかかられそうな気がしつつ、私は授業の始まりを告げるチャイムを聞いていた。
※
そんな私だけども放課後は社会とのささやかな接点を求めて、近所のコンビニエンスストアでアルバイトをしている。
働き始める前は「もし、奇跡的に友達ができて遊びに誘われて、シフトと重なったらどうしよう」なんて心配をしていた。
受け身の姿勢ではそんな奇跡が起きるはずもなく。私はテスト期間以外は無遅刻無欠勤で働き続け、店長からは「夏野は本当に真面目で助かるが、友達と遊ぶ用事もないのか?」と、今もなお本気で心配されている。
ある日、店長にこう尋ねられたことがある。
「夏野って、頼み事をしても嫌な顔一つしないけど、そもそも『嫌な顔』ってできるか?」
精一杯の不快感を込めて眉を顰め、口をへの字に曲げ、上目遣いで睨みつけてみせ、自称渾身の「嫌な顔」を作ってみせた……つもりだった。私にとっては、それが限界の威嚇だった。
だが、その顔をたまたま目撃した常連の向江さんからは「店長、あんまり夏野ちゃんをいじめてやるなよ。泣きそうじゃないか可哀想に」と、逆に店長が諭されていた。
どうやら私の表情筋は「怒り」や「不快」を表現するよりも、「同情を誘う」方向にステータスが振られているらしい。
妹の彼方ちゃんに「コンビニバイトって楽なんでしょ?」と聞かれた時、私は満面の作り笑顔で「うん、すごく楽しいですよ!」と答えたけれど、あれはもちろん、完璧な大嘘だ。
品出し、レジ打ち、清掃、調理。そして何より、こちらの常識を超えた人々が集う人間観察の坩堝。
理不尽なクレームに頭を下げ、トイレの使い方も知らないような痕跡を掃除し、心身ともに削られる日々。
正直なところ、レジで目を見て「ありがとう」と言われるだけで「え、このお客様、もしかして神様……?」と本気で感動してしまうレベルなのだ。
以前、あるお客様に「あの店員はいつも仏頂面で感じが悪い」と、店長の目の前で言われたこともあった。
お客様が満足そうに帰られた後、店長は私をじっと見た。
何も言えずにただ引きつった愛想笑いを浮かべて、逃げるようにドリンクの補充作業に戻るしかなかった。
もちろん店長が理不尽な人だと思ったことはない。彼女はサバサバしていて面倒見が良い頼れる大人だ。
……時々、サボって他店の灰皿でタバコを燻らせている姿を目撃することはあるけれど、それはそれで行為を割り切っている。
この平穏な毎日が、この先もずっと続いていくのだろうか。それとも、何かを変えるきっかけがすぐそこまで来ているのだろうか。
――いや、きっと来ない。来るはずがない。
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