第4話 武の師

「さて……どうしたものやら」

 王宮最奥の区域――「後宮」と呼ぶらしい――の中庭。温かな午後の日差しが注ぎ、さらさらと水の音が響く。きらめく蓮の池に設けられた噴水の音だ。

 けれど穏やかなのはその音だけ。池のほとりの雰囲気は沈鬱であった。

 背を丸め、縮こまるように座っているジャニ。その隣では、宮廷武術師範のバーラヤが難しい顔をしていた。

「ダルシャン様はああおっしゃいましたが、私はあくまで武具の扱いや戦術兵術を教える者。異能のたぐいは――まるで分からんのです」

「はい……」

 それはそうだろう、とジャニは思う。ジャニ自身でさえよく分かっていない力について、全く無縁の者が「教える」だなんて、どだい無理な話だ。

 しかしバーラヤには「無理」で諦める選択肢はなさそうだった。

「とはいえダルシャン様のめいである以上、できる限りのことをせねばなりませんな」

「申し訳、ありません……」


 胸が痛む。先ほど摂政せっしょうサンジタに会ってから、自分がここにいることが大いなる間違いのように思えてならない。

 炎を発する力を持っていることは本当だ。物心ついてから――いや、生まれてからずっと、この力のせいで苦しんできた。養父は受け入れてくれていたが、それでも火傷を負わせたことは数知れない。しかも火が必要なときに限って発することができず、何の役にも立てられない。

 ダルシャンを助けることができたのも結局は偶然だ。倒れる古木を見た瞬間の動揺が、たまたま正しい方向に噴出しただけ。

 玉座を渇望するダルシャンの瞳に駆り立てられて、自分も求めるものを探したいと思ってしまった。自分が彼にとって必要だというなら、そこに居場所があるかもしれないと思った。

 ――それもすべて、愚かな思い込みだったのかもしれない。


 うつむくジャニに対し、バーラヤのいらえは優しかった。

「お謝りなさるな、ジャヤシュリー嬢。あなたも難しいお立場なのは存じておりますゆえ」

「……ありがとうございます」

「ひとまずあなたのお力について、改めてお聞かせを。情報を整理せんことには手を打てませんからな」

「――はい」


 ダルシャンにも伝えたとおりのことをぽつぽつと語った。バーラヤは口を挟むことなくじっと聞いていた。

 語り終え、しばらく口をつぐむ。沈黙を破ったのはバーラヤだった。

「感情が乱れると炎を発してしまう、とおっしゃいましたか」

「はい。ですから養父には、自分の前でしか泣かぬようにと言われていました」

 本当は養父の前であっても心を乱さぬ方がよかったのだが、そこは彼の優しさであったのだろうと思う。それでも、炎に変ずる涙で傷を負わせるのが申し訳なくて、やがてジャニもほとんど泣かなくなった。どうしても泣きたいときは、いつもこっそり小川に入って、水浴びをするふりをしながら独りで涙を流していた。

 バーラヤはしばし思考に沈んでいたが、やがて再び口を開いた。

「『戦うすべを。克己のすべを』――そうダルシャン様はおっしゃった。なるほど、合点がいかないでもございません」

「え?」

「武術の基礎には精神の統一がございます。すなわち激情にかられては、正しく戦うことはできぬという話です。まあ、結果的に敵を倒すことはできるかもしれませんが――腕力のみに縋っているか、相手が弱い場合だけですな。それでは技を学んだことにはなりませぬ」

 ジャニはまばたいた。話が見えてきたような、見えないような感覚だ。

「ジャヤシュリー嬢。あるいはあなたも、武術を学ぶことによって、得るものがあるかもしれませぬ。動揺や激情のままに力を解き放つのではなく、その対極たる境地に至れば、その力を制御できるようになるのやも」

 はっと息を呑んだ。感情を抑えれば炎を発さずに済む、と思考したことは幾度もある。だがその道を真に極めれば、己を――己の力を完全に制御できるとは考えたことがなかった。

 武術など全く縁のない身だ。養父と自分は菜食だったから、狩りの弓すら持ったことがない。そんな自分が果たして、真の武人でさえ幾年もかけて至る領域に到達できるのか。


 ――だが、この現状を打開しうる道があるのなら、もはやためらってはいられなかった。


「お願いします、バーラヤ様。私に教えを授けてください」

 地面に膝をつき、バーラヤの足に触れて礼を取る。武術師範は突然の最敬礼に驚いたようだった。

「……お立ちなさい、ジャヤシュリー嬢。承知申し上げました。私にできる限りのことをいたしましょうぞ」

 バーラヤに促され、ジャニは地面から立ち上がる。すぐそばにある蓮の池が明るく美しいことを、ようやく視認できたように思った。


  ※


 翌日の午後、ジャニは再びバーラヤと会った。ただし場所は後宮の中庭ではなく、玉座がある建物と後宮の建物群に挟まれるように設けられた道場である。戦士階級の子女や衛兵志望の優秀な平民が訓練を受けるところだという話だった。

「午前と夕方は生徒たちがおりますので、暑い時間にてご勘弁を」

 言ってバーラヤは道場の最奥、簡素な祭壇前の土の床に着座する。ジャニもうながされて彼の正面に腰を下ろした。今日は森で暮らしていたときのような軽装で、布を脚の間に通す着つけにしたので座りやすい。

「さて。我が国の武術は基本的に門外不出の秘伝です。そのため、あなたには正式に私の弟子のひとりとなっていただく」

 そう言われ、にわかに不安が兆した。

「あの……よろしいのですか? 私のような森の女が……」

 秘伝というと、本当のところはやはり戦士階級のみが学ぶことを想定されているのだろう。学びたい気持ちは確かだが、バーラヤに迷惑がかからないだろうか。

 バーラヤはジャニの懸念を察したように笑んだ。

「なに、ご心配めされるな。この私も、父親こそ戦士ながら、母は奴隷にございました。いろいろと言われはしたものの腕を買っていただき、この歳まで宮廷武術師範を務めております。長老になれば多少の無理はきかせられるものです」

 ジャニはほっと息をついた。

「それに目的が目的ですから、役に立ちそうなところをかいつまんでお教えすることにはなりますな。とはいえ軽い気持ちではできぬことですので、改めてご決心ください」

 ジャニは迷いなく頷いた。

「お願いいたします、バーラヤ様――いえ、先生」

 バーラヤはその言葉に頷き返し、傍に置いていた剣を手に取った。すらり、と金属の触れ合う音が響き、きらめく刀身が姿を現す。抜き身の剣を見るのは初めてだ。ジャニは小さく固唾を呑んだ。

 抜いた剣を、バーラヤは目の前の床に置く。そしてジャニをまっすぐ見据えた。

「では、ジャヤシュリー嬢。剣に額をつけ、私のあとに続いて唱えなさい」

「……はい」

 言われるままに叩頭し、ひやりとした刀身に額で触れる。バーラヤが宣誓の言葉を朗々と発し始める。緊張を抑えながら、聞こえたとおりに繰り返した。


 ――弓引く者、剣る者、天の諸神を奉ずべし。

 ――こん振るう者、徒手にて立つ者、地にある師を敬すべし。

 ――その道を違えぬことを、刃に宿りし炎に誓約す。


「……よろしい」

 バーラヤの声にジャニは顔を上げた。バーラヤは剣を鞘に戻し、立ち上がって祭壇に一礼する。そして神に捧げられていた小皿を手に取り、中に入っている赤い粉を指の腹で拭い取った。そのままジャニの額に触れ、ぐい、と上向きに粉を塗りつける。祝福の印なのだろうと思われた。

「これにてあなたは我が弟子の一人となりました。――修練を始めますぞ」

「はい……!」


 体をほぐし、瞑想をしたあと、バーラヤはジャニに小さな弓を差し出した。艶のある黒色に塗られ、銀の弦が光っている。

「戦士階級の女性が狩りや護身に使うのと同じ種類の弓です。差し上げましょう」

「……ありがとうございます」

 息を詰めながら受け取った。木でできた弓幹ゆがらは軽く、ジャニの手でもそう苦労せず握ることができた。

「弓術は極めて奥深き技。本来ならば体術などを修めさせてから教えております。しかしあなたには特別にここからお教えいたしましょう」

「なぜ……ですか?」

 ジャニが問えばバーラヤは、よい質問だ、と言わんばかりに頷いた。

「弓術には心と体をいつにするほどの高度な精神統一が求められる。そうでなければ遠隔の的は射抜けませぬ。それこそまさしく、あなたが学ぶべき真髄。また的を狙う訓練をすることで、摂政殿の課題にも近づこうという寸法にございます」

 摂政の課題とは、遠くの松明に火をつけろと命じられた、あのことを指しているのだろう。仕掛けのたぐいだと疑われている以上、二度目があったとして同じ形で見定められるとは思わなかったが、バーラヤもそこは分かったうえで言っているのに違いなかった。

 汗がにじんでいた。真昼の道場は高く昇った太陽に照らされ、ひどく暑かった。

 深く息を吸い、答えた。

「分かりました。お願いします」


  ※


 バーラヤいわく、弓術はまず構えに始まるとのことだった。八種の下半身の構えを繰り返し叩き込まれた。

 次いで矢を取り、つがえる動作。ジャニが使うのはもちろん先が丸く削られた練習用の矢だが、それでも一連の動きを流れるようにこなせなければならなかった。

 そして最後に、五感のすべてを的に集中して射る動作。だが、ずぶの素人のジャニが最初からうまく矢を飛ばせるわけもなかった。

 弓を握る手にはまめができ、弦を引く指先は切れた。侍女のパーヴァニーにはひどく心配された。だが精神統一を覚えることこそが肝要だと思い、結果にめげることなく、懸命に練習を続けた。努力すべきことに向かい続けるという感覚は、養父に医術を教わっていたころ以来のものだった。

 一カ月も過ぎたころ、正鵠せいこくを射抜くとはいかないながら、矢が的に当たるようになってきた。的に五感を集中させる、心と体を一にするという感覚が、少しずつながら理解できてきたのだ。バーラヤの的確な指導あってのことだった。


 嬉しかった。進歩を確かに感じていた。初めて「何か」をしているような気がした。

 けれど。

 ――炎を随意に発することは、やはりできないままだった。

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