第5話 夜の灯火
夕刻。バーラヤとの訓練を終えたジャニは自室の寝台に座り込んだ。
今日も駄目だった。弓だけ上達していって、炎の力には何の変化もない。無理なのではないか、という焦燥が兆し始めていた。
溜め息をつき、枕元に置いた小さな壺を手に取る。中に入っている黄色の粉をすくい、指や手のひらの傷に擦り込んだ。ハリドラー根の粉は傷の消毒になる。武術を始めてからは欠かせず、パーヴァニーに頼んで用意してもらっていた。さらに薬の浸透を助け、体の痛みを和らげるため、手や腕、脚に
あれからダルシャンの顔をほとんど見ていなかった。ごく稀に修練を覗きにくることもあるのだが、言葉も交わさずいなくなってしまう。バーラヤによると、王宮の書庫にこもって王国史記を読み漁っているらしいとの話だった。おそらく歴代の〈
また不安が
お前こそが〈
暗い
扉を軽く叩く音で我に返った。入ってきたのはパーヴァニーだった。ジャニと目を合わせ、明るく微笑んでくれる。
「ジャヤシュリー様、お体はいかがですか? 今日もバーラヤ殿がひどく
「大丈夫、です。傷の手当はしたし」
両手を広げて見せてみる。パーヴァニーは少し顔を曇らせた。
「おいたわしい。医術は分かりませんけれど、ハリドラー根だけで足りますか?
ジャニは慌ててかぶりを振った。
「いえ、平気です。このくらいなら、これで治ります」
「そうですか……そうおっしゃるなら。
言われて少し考えてしまう。ここ数日は気持ちが落ち込むせいで、あまり食欲がなかった。けれど食べておかなければ傷の治りも遅くなる。そう思って頷いた。
しばらくして運ばれてきた食事は、今日も今日とてジャニには気が引けるほどの豪華さだった。森に住んでいたときの食事といえば、雑穀のロティカー〔注:パン〕に、野草や村で買った干し豆の副菜が一品。新鮮な農産物や乳製品が買えた日はご馳走で、養父と分け合いながら食べたものだった。
ところが王宮の食事には、ジャニたちの生活ではたまにしか買えなかったようなものがふんだんに使われている。大麦のロティカー、牛の乳で炊かれた米。様々な野菜や豆の副菜に、貴重な砂糖を用いた菓子まである。彩りも鮮やかで、いつも春の花畑を見ているかのようだ。
そんな美しい料理を見れば食べる気にもなるかと思ったが、そううまくはいかない。もったいないとは思っても、ほとんど手が進まなかった。
再び部屋に入ってきたパーヴァニーが、減っていない食事を見て眉根を寄せた。
「ジャヤシュリー様……いかがされました? やはり侍医を呼びましょうか」
「いえ……大丈夫です」
医者を呼んでも仕方ない。パーヴァニーにも話せない。そもそもどう言葉にしていいのか、自分には皆目分からない。
パーヴァニーは困ったように微笑んだ。
「左様ですか。では、せめてゆっくりお休みくださいな。何かあったら鐘でお呼びつけくださいましね」
※
横になったが、眠りは訪れなかった。いつの間にか部屋の外はしんと静まり返り、足音ひとつ聞こえない。
ここは人里どころか都の只中なのに、森の夜を思い出した。養父がいなくなってからの、ひとりぼっちの森の夜だ。
森の中には常に音があるはずだった。小川が流れる音。木々の葉が擦れ合う音。夜歩く獣が土を踏む音。
けれど養父が亡くなってからは、なぜかその音がすべて聞こえなくなった。
日が暮れれば、そこにあるのは沈黙だけだった。痛いような沈黙。怖いほどの沈黙。
胸が騒ぐ。じっとしていることができなかった。
ジャニは寝台から起き上がり、静かに部屋を出た。
周囲の部屋の灯はいずこも消えていた。自分の足音がやたら響くようで、つい後ろを振り返ってしまう。けれど回廊の先に薄い明かりが見えて、そこまで一心に歩いた。
たどりついた先は中庭だった。蓮の池に設けられた噴水は、夜の只中でも動いている。穏やかな水の音にほっと安堵の息をついた。
見上げれば、大きな四角形に切り取られた漆黒の空に数多の星がまたたいていた。月はなく、星明かりだけがただ眩しかった。
目を閉じて大きく呼吸し、冷えた夜の空気を吸い込む。夜の匂いはどこでも同じだ、と思った。
「――何をしている?」
突然背後からかけられた声に、ジャニは文字通り跳び上がった。
振り返ると、建物の二階から中庭へとつながる大階段の上に長身の影が立っていた。
「猫のようだな、ジャヤシュリー」
笑い含みの台詞でようやく影の正体に気づく。ざわざわとしたものが胸を満たした。
階段を降りてきたダルシャンは、いつもの人を食ったような笑みを浮かべた。
「いささか久しいな。夜中にふらふらと外に出るとは、さては俺に会えずに心細かったか?」
その言い草に、今日はなんだかムッとしてしまう。考えるより先に冷たい返事を発してしまった。
「いえ、特に」
ダルシャンは片眉を上げた。
「ほう? 未来の夫によく言うではないか」
「まだ婚約もしておりませんので」
「ま、それはそうか」
ジャニとしては勇気を出して嫌味を言ったつもりだったが、ダルシャンはあっさりと
「で? どうだ、調子は。少しは炎を操れるようになったか?」
そう問われ、ジャニはうつむく。できないから悩んでいるのだ、と思う。ダルシャンも答えを察したようだった。
「なるほど。……何が難しい? バーラヤの指導では足らんか?」
「――違います!」
自分にしては大きな声が出てしまう。けれど仕方がない。バーラヤは何も悪くないのだ。
「では何だ? やはり武術はお前の手に余るか」
「違います……弓は引けるようになっています。でも、肝心のことは全くできるようにならないんです」
膝の上で手を握る。口の中が乾いて、苦い。
「私の集中が足りないんです。もっと集中できるようにならなきゃ。――もっと、心を空っぽにしなきゃ。そうすれば、」
その言葉を、刃を振るうように断ち切られた。
「お前、何も学んでおらんようだな」
「……なっ」
体が震える。ダルシャンの顔を見上げる。彼はいつになく真剣な表情でこちらを見返していた。
「師の教えを思い返せ。バーラヤがいつ感情を殺せと言った?」
「それは……」
――言われていない。そんなことは、言われていない。
バーラヤの言う「激情の対極」を、ジャニ自身が「空っぽの白」だと思い込んだ。それだけだ。
ジャニはその場で凍りついた。ダルシャンは小さく溜め息をつき、油灯を持って立ち上がった。
「心が荒ぶるときに力が顕現するのであれば、いっそ己の心を乗りこなしてみせろ」
それだけ言い残して、彼は暗い回廊の先へ消えていった。
※
ダルシャンがいなくなってからも、ジャニはその場に座り続けた。
池の縁に座り、彼の言葉についてひたすら考え続けた。
――バーラヤがいつ感情を殺せと言った。
――己の心を乗りこなしてみせろ。
乗りこなす。その言葉で、ダルシャンの愛馬ヴァージャのことを思う。
あの美しい馬を乗りこなすために、ダルシャンは何をしているだろう。
(……ヴァージャのことを、何でも知ってる)
あの馬は彼の友だ。ヴァージャのことなら、あの人は手に取るように分かっている。
では、自分の気持ちを乗りこなすためには?
ジャニは、ゆっくりと目を閉じた。
――今、私は、どんな気持ちだろうか。そう、目を閉じたまま思う。
ざわついている。ひどくざわついている。
それは、どんなざわつきだろう?
目をさらに固く閉じる。
五感を、目に見える的ではなく見えぬものに――己の胸の内に、集中させる。
私は、悲しい。それだけじゃない、不安だ。不安で、恐ろしい。
――それで終わり? いや、違う。
その奥に何か、触ったことのない感情が潜んでいる。
(ああ――そうだ)
小さく息を呑み、目を開いた。
――私は、怒っている。
自分を振り回す王子に。そして、振り回されるままの弱い自分に。
息が荒くなる。胸にぎゅっと手を押し当てて、もう一度目を閉じた。
荒ぶるな、考えろ。そう自分に言い聞かせる。
この怒りは、どんな形をしている? どんな手触り? どんな温度?
私の怒りは――小さくて。
儚くて。頼りなくて。握りつぶせば消えそうで。
でも、探れば確かにそこにある。
そう、小さくて。痛くて。熱くて。
私の奥で――燃えている。
目を開けて大きく息を吸い、立ち上がった。そのまま両手を前に差し出してみる。
小さな音と共に、蒼い火の球が現れた。
ぱちぱちと小さく爆ぜながら、星が
(……もっと、燃えろ)
そう念じると、火の球はさらに大きくなる。蒼い光が目も
今ならできる気がして、浮け、と念じてみる。すれば火の球はふわりと浮き上がり、ジャニの頭上で中庭を煌々と照らし出した。
まばゆい光に染め上げられた回廊から、誰かの駆け寄ってくる足音がする。振り返れば、そこにはバーラヤの姿があった。突然の光の出所を確かめにやってきたのだろう。
バーラヤは、ジャニと空に浮く炎とを見比べ、目を丸く見開いた。その顔にゆっくりと喜びの色が浮かぶ。ジャニの口元も小さくほころんだ。
己が師に誇ってほしくて、はじけろ、と念じる。
すれば火の球は何十もの火花へと散り、夜の闇へと消えていった。
「――見事だ、俺の
ジャニは驚いて声の方を見た。
いなくなったはずのダルシャンが回廊に立っていた。彼はジャニとバーラヤに歩み寄り、ジャニを見下ろして得意げに笑んだ。
「先ほどの俺の助言ゆえか? 感謝の口づけでももらうとしようか」
――この人は、放っておくとすぐこれだ。
自分とダルシャンに対する怒りを見据えていたからか、力を制御する糸口がつかめて心が勇んでいたからか。
自分でも驚くほど、突き放すような返事が口から出た。
「全然、違いますから」
「……何?」
ダルシャンは本気で面食らった顔をする。バーラヤがこらえきれなくなったように笑い出した。
「いやはや、ダルシャン様! 我が弟子はあなた様も含めて芯の強い者揃い。それはこのジャヤシュリー嬢も例外ではございませんぞ。儚げだからと、あまり侮りなさらぬことですな」
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