第3話 黒き鷲

「失礼いたします」

 突然の呼びかけに、ジャニは寝台を整えようとする手を止めた。

 部屋の入口では、繊細な彫刻の施された木の扉が、窓から差す朝日に照らされている。その扉がすっと開き、誰かが部屋に入ってきた。初めて見る若い女性だった。

 女性は床に膝をついて礼を取り、利発そうな目を細めて微笑んだ。

「ジャヤシュリー様。本日よりお世話を仰せつかりました、パーヴァニーと申します。以後、何なりとお申しつけくださいませ」

「私の……世話、ですか」

「ええ。身の回りのことはお任せになって、どうぞおくつろぎを」

 言うやパーヴァニーは立ち上がって寝台に歩み寄り、整えかけの寝具を直し始めた。自分では手に余っていた豪華な寝具が次々と美しく整頓されていくのを、ジャニは目を丸くして見つめた。

「……すごい」

 思わず呟くと、パーヴァニーが振り返ってまばたいた。ややあって、その口元が綻んだ。

「お褒めにあずかり、光栄にございます。さあ、お座りくださいな。別の者がじきに朝餉あさげを持ってまいります」

「は……はい」

 言われるまま、絨毯に腰を下ろす。パーヴァニーは満足げにうなずいた。

「朝餉の後は、お仕度をお手伝いいたします。ダルシャン殿下がお呼びですからね」


  ※


 パーヴァニーに導かれて部屋を出ると、中庭で見覚えのある姿が待っていた。

 午前の光を受けて艶めく長い黒髪、堂々たる上背、鍛え上げられた体躯。こちらを見て細められる真黒い瞳、不敵な笑み。

 他でもない、ダルシャンだった。


「殿下、お連れいたしました」

 パーヴァニーが深々と礼を取った。ジャニも思わずつられて同じように頭を下げる。するとあごに手をかけられ、無理やり引き上げられた。

「威厳を身につけろと言ったろう、ジャヤシュリー。堂々としていろ。いいな?」

 ダルシャンの目は時々、底からぎらつくように光る。森に潜む獣の目が、人間の掲げる灯火を反射するようだ。

 無言で背筋を伸ばす。ダルシャンは小さく笑んだ。

「よし。――では、来い。摂政せっしょうに会いに行くぞ」

 聞き慣れない言葉にジャニは首をかしげる。パーヴァニーが一歩退き、頭を下げた。

「行ってらっしゃいませ」

 軽くうなずき、ダルシャンは歩き出す。ジャニは急いで後を追った。


 向かった先は王城の中心部とおぼしい場所だった。ダルシャンが現れるや、巨大な鋼の扉の前に立った衛兵たちが敬礼する。轟音を立てて扉が開き、巨大な広間が姿を現した。


 これほど天井の高い部屋をジャニは見たことがなかった。灰白色の石でできた幾本もの柱が二列に並び、太い梁を数多積み上げるようにして形作られた屋根を支えている。柱の列の外側には段状の座席が設けられ、内側には明々と燃える灯篭が並び、長くまっすぐな道のように続く空間を縁どる。その最奥には階段があり、それを登り切ったところには、四人の衛兵に守られた石造りの椅子があった。惜しみなく細工が施され、鮮やかな紅の旗を背にして、背後の明かり窓から注ぐ陽光を浴びている。

 堂々たる美しい座所。これが世にいう「玉座」なるものか。

 だがそこには今、誰も座ってはいなかった。


 ダルシャンが広間を見回し、不機嫌そうにつぶやいた。

「何だ。あいつ、おらんではないか」

 あいつ、とは誰のことだろう。王様――だろうか。

 ジャニがそう思った瞬間、ふいに鳥の羽音が響いた。視線を上げると、明かり窓から黒い飛影が入ってくるのが見えた。曲がったくちばし、直線状の尾。わしだ。漆黒の鷲である。

 鷲は絢爛たる座所の隣、一回り小さな椅子の上に舞い降りる。そして片方の翼を顔の前にかざした。


 ――次の瞬間、そこには人間が座っていた。


 ジャニは息を呑み、一歩後ずさった。だがダルシャンは動じることなく、階段の下へと歩み寄った。

「遅いぞ、サンジタ」

「これは失礼をいたしました、殿下。ですが私も多忙にて」

 階段の上に現れた人間――灰色のひげを蓄え、同じ色の髪を長く伸ばした老齢の男は、よく見れば聖なる一枚布――聖職者の証を身にまとっていた。額に塗られた印からしても、僧侶階級の者であることは明らかだ。神に最も近い僧侶は、ダルシャンのような戦士よりもさらに尊い存在とされる。次から次へと接したことのない部類の人に出会わされて、頭がどうにかなりそうだった。

 僧侶は黒い――先ほどの鷲の羽のように黒い衣を整えながら立ち上がった。

「して、殿下。そちらは?」


 僧侶の目がジャニへ向く。その瞬間、背筋がぞわりと粟立った。

 なぜだかは分からない。分からないけれど、全身を舐め回されるような、嫌な心地がした。


 ダルシャンが振り返った。ジャニが立ち尽くしているのに気づき、呆れたようにかぶりを振る。指先で、来い、と促され、慌てて駆け寄った。

 ジャニが己の背後に立つのを確かめ、ダルシャンは誇らしげに声を上げた。

「これなるはジャヤシュリー。我が妃となるべき女。――そして、新たなる〈炎神アグニしるし〉だ」

 ダルシャンが宣した瞬間、僧侶の目が見開かれた。

「……何ですと?」

「耳が遠くなったか? この女は〈炎神アグニしるし〉だと言っている」

 ダルシャンが得意げに笑んでいるであろうことが、背中越しにも伝わってきた。

「二十二年間の長きにわたり、よく王の代理を務めた。今後は隠居して好きに暮らすがよいぞ。この俺がプラカーシャの王座についてやる」

 僧侶は沈黙した。褐色の双眸が、今度は刺すように見つめてくる。ジャニは固唾を呑んだ。ややあって、僧侶の口が開いた。

「――娘。どこの生まれだ? 答えよ」

 びくり、と身がこわばった。口の中が乾いて声が出ない。僧侶は眉根に深いしわを寄せた。

「答えよ、と言っている。王亡き今は、摂政のめいこそ王命と思え」

「サンジタ! 無礼だぞ。これは我が妃となる女だ、忘れたか?」

 ダルシャンが声を上げる。僧侶――サンジタは片手をかざし、それを制した。

「殿下、お控えを。プラカーシャのまつりごとを預かる者として、私はこの娘の正体を看破せねばなりませぬ」

「正体?」

 ジャニから視線を逸らすことなく、サンジタはうなずいた。

「左様、どうにも疑わしい。第二代国王以降、〈しるし〉は必ず炎を宿す武器の姿で現れております」

「だが初代の〈しるし〉は――将軍ウッジェンドラは、炎を操る人だったではないか」

「男、にございました」

 サンジタの褐色の瞳がきつく細められた。

「徳低き女が〈しるし〉であるなど前代未聞。そうでなくとも、奇術のたぐいで〈しるし〉を騙ろうとする不届き者は後を絶ちませぬ」

 ダルシャンがぎり、と歯噛みした。

「奇術だと? 袖の一振りで鳥に変じるお前が、よく言う」

「これは奇術ではなく、聖なる真言の力にございますれば」

 サンジタが階段を降り、歩み寄ってきた。ジャニを見下ろすように睨み据え、再び問うた。

「どこの生まれだ。く答えよ、娘」

「……森、でございます」

 震える声で答えると、サンジタはますます眉根を寄せた。

「森、だと? いずこの森だ」

「東の……シュヤーマの森でございます……」


 手が震える。爪が手のひらに刺さるほどに拳を握ってやりすごす。

 これ以上、動揺してはならない。うっかり炎を放って、目の前の僧侶に傷でも負わせたら――本当にどうなるか分からない。


 サンジタは天井を仰いだ。

「シュヤーマの森だと? 〈しるし〉どころか、炎神アグニも奉ぜぬ蛮人ではないか」

「口を慎め、サンジタ!」

 ダルシャンが剣の柄に手をかける。階段上の衛兵たちが色めきたった。だがサンジタが動じる様子はなかった。

「殿下、お尋ねしますぞ。仮にその娘が〈しるし〉だとして、そのように落ち着きを欠かれるあなた様が王にふさわしいなどと、本気でお思いか?」

 ぐ、とダルシャンが言葉に詰まる。サンジタの目が再びジャニに向いた。

「だが殿下に免じて、ひとつ試すといたしましょう。――娘。その場から動くことなく、あちらの松明に火をつけてみよ」

 サンジタの指が階段の上を示す。言われてみれば、玉座の両側には背の高い松明が据えられていた。そのいずれにも火は灯っていない。

 ダルシャンがこちらを振り返った。黒い瞳に見据えられ、息が凍る。


「ジャヤシュリー。できるな?」

 否、とは言えなかった。


 震える手をかざし、灯れ、と念じる。けれど、意図して火を放ったことなどない。どうすればいいのか、皆目分からない。

 脂汗が浮かぶ。ダルシャンが、サンジタが怖い。息が荒くなる。目の前がかすむ。

 体の中で――何かが爆ぜた。いつしか両の手が蒼く燃えていた。

 けれど肝心の松明には、火の粉のひとつさえ見えなかった。


「――殿下。残念ながら、騙りにございましょう」

 冷たい声にジャニは震える。サンジタのまなざしも、ダルシャンのまなざしも、受け止められずにうつむく。

「かのウッジェンドラ将軍は自由自在に炎を操れたとのこと。松明ひとつ灯せぬ女が〈しるし〉だとは到底認められませぬ」

「待て、サンジタ! 俺は確かにこの目で――」

「この娘がお気に召したのであれば、持って回ったことをせず、めかけにでもされるがよろしかろう。正妃にふさわしいとは思えませんがな」

 視界の端にダルシャンの拳が映った。固く、固く握りしめられ、関節が白く浮いていた。

「――行くぞ、ジャヤシュリー!」

 苛立ちも露わな声を発し、ダルシャンはきびすを返す。ジャニは冷え切った足で後を追った。

 広間の扉が大きな音を立てて閉まる。そのとたん、ダルシャンは大声を張り上げた。

「バーラヤ! バーラヤはいるか!」


 ※


 しばらくしてその場に駆けつけたのは、昨日出会った白いひげの老戦士であった。

「ダルシャン様――いったい何事ですか」

 老戦士バーラヤは案じるようにダルシャンとジャニを見比べる。茫然としていたジャニは突然、ダルシャンの大きな手に腕をつかまれ、前へと引きずり出された。

「バーラヤ、命令だ。この者を鍛えよ。徹底的な訓練を施せ」

「……ダルシャン様?」

 バーラヤは当惑も露わに王子を見返す。ダルシャンは唸るような声で応えた。

「この女は〈炎神アグニしるし〉だ。無から炎を発する力を持っている。俺の名誉にかけて、真実だと誓ってやる」

「な、ならば大ごとです。今すぐ摂政殿に……」

「とっくに伝えたに決まっているだろう! あの老いぼれが信じぬからこう言っているのだ!」

 ダルシャンの声に息が止まりそうになる。バーラヤが哀れむような目でこちらを見ているのが分かる。

「ジャヤシュリーは己の力を制御できぬ。だからこそ、この国いちの武術師範であるお前が教え込んでやれ。戦うすべを。克己のすべを。さもなくば――この俺は王になれぬ」

 最後の言葉を、ダルシャンは低く、低く発した。


 ――ああ、まただ。この人は、狂おしいほどに渇望している。

 王国の玉座を。この国の「頂点」を。

 いったいどうして、それほどに求めるのだろうか。


 ……そこに、私の居場所はあるのか。

 何かを間違えたのでは、ないだろうか。


 長い回廊を去っていくダルシャンの後ろ姿を、ジャニは沈黙して見送った。

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