一章③ 逃走経路

「「「「!?」」」」


 全員が一斉に不意に聞こえた唸り声の方へと視線を向けた。少し離れた通路の角。その向こうから明らかに近いと分かる大きさで唸り声が響いてくる…………そしてそれが何なのか思い浮かべるよりも早くその唸り声の主は姿を現した。


 犬と呼ぶには狂暴過ぎる相貌そうぼう…………それが三つ。その吐息には炎が混じっているのか、硝煙のようなものが涎と共に口から立ち上る。そしてその巨体を支えるその太い脚の先にはナイフのように大きな爪が並んでかつんかつんと床で音を立てていた。


「ケ、ケルベロス…………?」


 呆然と彩花が呟く。確かに目の前のそれは神話に登場する三つ首の怪物ケルベロスとしか呼びようがない。


「あ…………」


 これは死んだと春人は確信する。このダンジョンに生息する怪物は明らかに勝てない存在だから逃げるしかない…………しかし目の前のそれが逃げられる相手とは思えなかった。先ほどの青鬼はその体格が通路に合っていなかったおかげでなんとか逃げられたが、このケルベロスは巨体ではあるものの通路につっかえるほど大きいわけでもない。そして普通の犬相手でも人間とは逃げ切ることができないほどの走力の差がある。


「僕らが犠牲になったら…………逃がせると思います?」


 最悪はもう確定しているのでせめてマシな死に方を春人は考えるしかなかった。


「いやあ、無理だろ」


 けれどそれに透は首を振る。


「稼げて精々五秒くらいだろうし、俺たちを殺しても満足しないと思うぜ?」


 あの図体で2人程度の獲物に満足できるとは思えない。春人と透を殺したら残る天音達も追いかけて食料にすることだろう。


「それに仮に二人が逃げられてもちょっとの延命だ」


 残った二人だけでこのダンジョンを生き延びることはまず不可能だ。


「じゃあ、全滅ですか?」


 諦めと共に春人は尋ねる。


「いいや」


 けれど透はそれにも首を振る。


「最初に喰われるのが君ならまだ何とかなるかもしれないぜ…………角度的に」


 そう言って透はケルベロスへと視線を向ける…………いや、その少し前の床へと。


「角度、的に?」


 犠牲になることに関しては自分で口にしたことだし躊躇いはない。しかし最後のその一言は気になって春人は透と同じ場所に視線を向ける。そこにあるのはただの床。けれど透に教わって少しばかり春人にも見分けはつく。それはただの床ではない。


「ちょっと、逃げなくていいの?」


 必死で震えるのを抑えるような声。目線を後ろにやると焦った天音の顔、そして彼女と不安そうに手を固く繋ぐ彩花の姿が見えた。


「あいつが動いてない今がチャンスなんじゃないの?」

「…………」


 確かにケルベロスはこちらと対峙したまま動かない…………けれどそれは動くきっかけがないだけだ。こちらが脅威ではないと察してはいるのだろうが、不確定な要素もあるから自分から動きたくはない…………恐らくはその程度のものだろう。だから何かちょっとしたきっかけがあればケルベロスはすぐさま襲い掛かってくるはずだ。


「駄目だ、僕が死ぬか何か起こるまで絶対に動くな」


 動けば恐らくその人間が最初に襲われる。だから春人は強い口調でそう告げた。


「死ぬって……」

「いいから」


 さらに強い口調で春人は押し黙らせる。


「彩花もわかったな?」

「は、はい!?」


 名前で呼び、さらに命令口調で強く告げる。彩花の気の弱いところを利用するようで心苦しいが、気が弱いからこそ強く命令されたことは実行しようとするはず。恐怖で動けなくなるよりはずっとましだ。


「で、どうするんだ?」


 透が尋ねる。今はまだ対峙が続いているがケルベロスもすぐに焦れる。こちらは圧倒的弱者なのだから動かれた時点で終わりだ。


「知ってます? 野生動物って背を向けて逃げる相手を本能的に襲うらしいですよ?」


 答えるが早いか春人は即座に身を翻す。けれど言葉とは裏腹に逃げ出しはせずその場に踏み止まる。目論見が失敗した時に春人はケルベロスに襲われなくてはいけない…………例えそれが数秒にも満たない時間稼ぎであったとしても。


 ズシャッ


 ケルベロスに背を向けた春人には結果が分からない。だからその音が自身から出たものなのかそうでないかも定かではなかった。心臓が嫌にバクバクと音を立てて目の前も赤く血走って見えた。時間感覚も引き延ばされているのか、背を向けて数秒と経っていないはずなのにとてつもなく長く感じる。


「成功だ、逃げるぞっ!」


 不意に肩を叩かれて感覚が元に戻る。そのまま走り抜けていく透の背中。天音と彩花がそれに続くように走り出していく…………ちらりと後ろに目をやればそこには串刺しになったケルベロスの姿。

 春人に向けて踏み出したちょうどのその位置。そこにあったトラップのスイッチを踏んでケルベロスは周囲の壁や床から飛び出した槍に貫かれていた…………賭けには勝った。けれどその獣はその命を未だ残し、屈辱と怒りに満ちた視線で春人を見ている。


「っ!?」


 あの罠がどれくらい持つかわからない。即座に春人は走り出して皆の背中を追う。


「どこに逃げる!」


 先導している透が叫ぶ。逃げるも何も全力疾走ではすでに把握している元来た道を戻るしかない。だから透が聞いているのは別の意図…………なにせケルベロスは犬だ。普通の犬とはかけ離れた外見ではあるが種族として考えれば犬の特性を持っていると考えて間違いない。つまりは鼻が利くのだ…………人がその全力で逃げた程度では容易にその臭いを辿って追いつけるくらいには。


「…………っ」


 走りながら春人は全力で思考を巡らせる。


 さっきのようにトラップを利用して倒す?

 

 無理だ。そもそもあの槍は運が良かっただけだろう。何が起こるかわからないのだからもしかしたらケルベロスには効果の無いトラップである可能性もある。トラップの内容を確認するのも危険だし今はそんな時間もない。


「え、えっと! ケルベロスは甘いものが大好きで、それを食べている間は他の事を気にしないって伝承があります!」


 彩花が叫ぶ。


「ありがたい意見だけどそれは最後の手段にしよう!」


 即座に春人は結論を返す。甘いもののストックはある。しかし似ているだけであれがケルベロスであるかどうかわからないし、そもそもその伝承自体が真実かどうかもわからない。他は。他は。とにかく思考を巡らせて縋るものを見つけ出す。


「と、透さん!」


 春人は前に向かって叫ぶ。


「なんだ!」


 叫び返される。


「落とし穴って相手を殺す為の物ですか!」

「そうだ!」


 即座に透は答える。基本的に落とし穴というのはその下に尖ったものを敷き詰めて落ちた相手を串刺しにして殺す為の物だ。


「でもゲームとかだと下の階に落とすだけの物もありますよね!」

「あれはゲームだからなっ!」


 下の階に落とすだけの罠など殺傷力が無くて実用性が無い。そもそも現実ではそんな風に使えるような多層構造の迷宮が存在しなかった…………だが、と透は思う。このダンジョンの構造は殺意に満ちた様子ではない。本格的に侵入者を殺す作りであればもっとトラップがあってもおかしくないし、一度発動すれば連動して侵入者を追い込むような作りになっているはずだ。


 ゲーム的、そうこのダンジョンは透の慣れ親しんだゲームのダンジョンと近い感覚がある。


「可能性はあるっ!」


 だから透はそう訂正した。


「なら行きましょうっ!」


 このままでは確実にケルベロスに追い詰められて死ぬ。だが階層が変わればさすがに追いかけてくることはできないはずだ。


「わかった!」


 透は逃げ道を頭の中のマッピングで確認する。


「ちょっと!?」


 そこに天音が割り込む。


「さっきから何の話してるのよ!?」

「逃げ道の話!」

「落とし穴って聞こえたんだけど!」

「落とし穴だよっ!」


 春人は叫ぶ。


「最初におっさんが落ちた落とし穴!」


 このダンジョンで気が付いて最初に起こった出来事。


「その穴に、落ちるっ!」


 それが今思いつく最善の活路だった。

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