プロローグ② ひとまずの休息

 あの炎から逃げて一体どれだけ走っただろうか。ひたすらに直線を駆け抜け、壁が見えたら近いほうに曲がる。それをひたすらに繰り返してただただ走り続けた…………止まることが怖かったのだ。走り続けている間だけはその怖さから逃げていられる…………しかし人はずっと走り続けることはできないものだ。


「きゃっ…………!?」


 悲鳴と共にがくんと引っ張られる感覚。それに思わず足を止めて振り向くと眼鏡の少女が床に片手をついて苦しそうに息を吐いていた。もう片方の手は春人が握っている。足がもつれたのか転んでしまい、それで手をつないだ春人は引っ張られたのだ。


「えっと、大丈夫?」

「だ…………だい、じょうぶ、です」


 あまり大丈夫そうでない声で少女が答える。恐らく転んだのもつまづいたわけではなく疲れのせいだろう。そう考えると同時に春人は自身もどっと疲労を覚えた。それでもまだ走る余裕はあるが全力で走ってたせいか止まっても足が震えている…………それはつまり彼に引っ張られていた少女は大変な負担だったといえる。


「あ、ごめん!? とにかく必死で!?」


 慌てて手を離して少女へと屈むとその様子をうかがう。見たところ外傷はなさそうに見えるが、無理に引っ張っていたわけだから手の筋や何かを痛めている可能性もある。


「大丈夫、です…………ちょっと手は痛いです、けど」


 ようやく息も落ち着いてきたのか、少し笑みを浮かべて少女は答えた。


「いやー、やっと追いついた」


 そうこうしていると後ろから男の声。見やればスーツの青年と割烹着の少女が走ってこちらに近寄ってきていた。完全にその存在を忘れてしまっていたが、いつの間にか二人を引き離してしまっていたらしい。


「やっぱ若いと体力あるねえ…………俺はもうへとへと」


 苦笑しながら青年は春人に近づこうとして…………不意にその足を止めた。


「おい、君」


 春人の向こうを凝視するように青年が言う。


「振り向かずにゆっくりとこっちに来てくれるか?」

「え」


 その言葉に春人の頭には先ほどの化け物が思い浮かぶ。


「さっきのやつみたいのが出たって話じゃない」


 それを読んだように青年は言った。


「いいから振り向いたりせずにこっちに来てくれ」

「わ、わかりました」


 有無を言わさないような強い声に頷く。手早く眼鏡の少女に手を貸して引き起こし、そのまま二人で青年の方へと歩み寄る。


「よし、もう大丈夫だ」


 春人と眼鏡の少女に青年が頷く。


「何が、ですか?」


 大丈夫という言葉に振り向くが確かに青年が最初に言った通りそこに化け物はいない。しかしそれ以外にも何かあるようには春人には見えなかった。


「あそこ、見えるか?」


 青年が春人のいた辺りの床を指さす。


「床、ですよね?」


 どこまでも同じように続いている石畳が春人には見える。


「君が居た辺りにでっぱりみたいなものがあるのが見えないか?」

「…………」


 注視してみる。言われてみると確かに春人の居た少し先辺りの石畳に小さなでっぱりのようなものが見える気がする。


「あれは多分スイッチだ」

「…………スイッチ?」

「罠のだよ」

「罠…………」


 その言葉の意味が理解できるまで春人には少し時間が掛かった。知っている言葉ではあっても日常的に使うような言葉ではない。しかし最悪なことに考える頭が戻れば春人には思い当たることがあった。


「もしかしてあの穴って…………」

「多分な」


 青年が頷く。


「あのおっさんが消えた辺りにも似たようなでっぱりがあった。そんであの炎の化け物から逃げてる最中にもいくつか見つけて避けた…………それで引き離されて追いつくのに時間が掛かったわけだが」

「いきなり引き止められてこっちはいい迷惑だったわよ」


 割烹着の少女が割り込んで苦言を言う。彼女にしてみれば後ろから化け物が来るかもしれない状況でいきなり引き止められて、あそこに罠があるから避けろと言われても困惑するしかなかった。とにかく早く逃げたいし先行している二人からはぐれるかもしれないのに落ち着いてなんていられなかったのだ。


「まあまあ、知らずに踏むよりは良かっただろ?」

「…………それはそうだけど」


 しかし落ち着いてみれば青年の言い分が正しいことくらいわかる。だから渋々と頷く割烹着の少女だったが、それを聞いていた春人は背筋が寒くなった。彼は逃げるのに必死で落とし穴のことなんて頭から抜けていた。

 たまたまそのでっぱりを踏まなかったからよかったものの、踏んでいたらメガネの少女も道連れにしていたところだっただろう。


「た、助かりました……」


 消えゆくような声で春人は言った。


「いやまあ、礼を言うのはこっちもだよ。正直君が動いてくれなきゃ俺も致命的な時点まで固まってたかもしれない…………おかげで我に返れた」


 人は理解できないものに遭遇した時には思考が停止してしまう。炎の化け物の登場にはあの場の全員の頭が真っ白になっていたのだ。何かきっかけがなければその硬直は解けなかっただろうし…………それが誰かの犠牲であった可能性は高かったように思える。


「それで、だ」


 スーツの青年が言う。


「これからどうする?」

「…………そうですね」


 尋ねられた言葉に春人も気を落ち着かせて思考を巡らせる。


「まず自己紹介をしましょう」


 とりあえず状況確認のためにもまずはそこからだ。

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