第3話
プシューと塗料のミストが飛びだして、ワタシの胸を赤く染めていく。
まるで血だ。臭いは
グレイスは、マスクをして、スプレー缶を握っている。ワタシは機械の体だから影響はないが彼女はヒトだ。悪影響があるかも。
「別に、トリップするために芸術やってるわけじゃないから」
「では目的を教えてください」
今のワタシは軽犯罪者と、
「そりゃ胸の中のものを表現するためよ」
「言葉にすればいいのではありませんか」
「……私はこの方法が一番いいと思ったの。目立つし」
そうでしょうか、とワタシは返した。
グレイスが描いているものは、すべて人気のないところにあった。モノ自体は目立つかもしれないが、そもそも見られるような場所にない。
表現するため――グレイスはなにを描いているのか。
「じろじろ見るな」
スプレーのノズルがこっちを向く。ワタシは顔を背けた。
「動くな。ズレるでしょ」
ワタシは脱力する。もう、なすがままだ。ほかにすることがないし、できるだけ彼女をここに引き付けておきたい。そうしたら、ほかのパトロールがここに来る可能性は十分ある。
「いつからこんなことを」
「ガキの頃からだから……正確にはわかんない」
「誰が教えたのですか」
「逮捕するつもり?」グレイスが鼻で笑った。「だったら地獄まで追いかけなきゃね」
「死んでいるのですか……それは申しわけないことを聞きました」
「別にいいよ。ろくでもないヒトなのは間違いないし。ワタシも含めてね」
呟いた言葉は、頭上を走る車の音にかき消されていく。
こうして法を
そこまでする意味がわからない。
「……ロボットには絶対わかんないわ」
グレイスがスプレー缶を放りなげる。カランコロンと転がって、草の向こうへ消えていった。
「ゴミのポイ捨てはよくありません」
「どうせアンタたちがひろうでしょ――
「……捕まりたいのかそうではないのかわかりません」
「どっちでもいい。
ワタシはグレイスを見上げる。
色とりどりのペンキまみれの横顔には
グレイスはスプレー缶を置いて、
「機械に
「いや、くすぐるわけじゃないし」
そう言ったグレイスは、スプレーを吹きかけた部分に筆を走らせる。
「細かいところは筆じゃないとなかなかね」
「もう完成するのですか」
「あんまり時間をかけてたら、捕まるかもしれないし?」
「…………」
どうやら作戦失敗らしかった。
サラサラと
が、グレイスは機械のオンナに欲情していたわけではなく、筆を動かしつづけた。
全身を縦横無尽に走った筆が、やっととまった。
「終わりですか」
「ええ。ロボットなんてはじめてだったけど、なんとかなるもんね」
立ち上がったグレイスが、ワタシを頭の先からつま先まで見て、満足そうに
「アンタ、見てみる?」
「おねがいします」
「意外。
「他にすることがありませんので」
自分の姿は自分じゃ見れないし、ほかでもないグレイスに見せてもらえるというのは、なにか特別なものを感じる。
「
「一理あるわね」
グレイスが手鏡を取りだして、銀面をこちらへ向ける。
そこに映るのは、様変わりしたワタシ。
肌色に染めあげられた全身を、黒い文字がのたうちまわっている。しかし書かれていない場所がある。それは胸だ。二つのふくらみを、その下にあり、心臓のあるべき場所だけを黒文字は避けていた。
そこにはぽっかりと紅色の穴が開いているばかり。
「これは……」
「名付けて『ロスト・マン』。師匠がよく聞いてた曲のタイトルから取ったんだけど」
「この文字はサンスクリット語ですか」
「わかるんだ。じゃ、なんて書いてあると思う?」
ワタシはローカルディスクに登録されたサンスクリット辞典と
…………。
「般若心経」
「遅くない?」
「……旧式ですので」
ローディングが遅いのは、ワタシだって気にしているところだ。
「どうして般若心経を全身に書いたのですか。これでは絵というより写経です」
「確かにね……でも、絵画にだって文字は使うのはあるし、ワタシが表現したいものを一番表しているのはこれ」
グレイスが筆で胸の真ん中をくすぐってくる。そこには、ワタシたちの心臓といえるバッテリーが眠っている。
「これでは『耳なし芳一』ならぬ、心臓なし芳一ですね」
ワタシの言葉に、グレイスがクスリと笑った。
月の光みたいな控えめで綺麗な笑みだ。
「話のわかるロボットがいるだなんて思わなかった」
バッテリーがわずかに熱を持った気がした。それに、脳が処理落ちをしかけたような……いや気のせいか。
グレイスは、芸術作品と化したワタシを古めかしい一眼レフで撮っていく。
パシャパシャという音が、静かな高架下に響く。
「ふう、満足した」
「満足したならば、ロープをほどいてください」
「イヤよ。縛られている事も含めて作品なんだからさ」
写真を撮りおえたグレイスはスプレー缶を拾いはじめる。近くのも、草むらに投げ飛ばしたものも律儀に。
まるで帰り支度をしているみたいではないか。
「みたいじゃなくて、その通りなの」
「あの」
「助けなら自分で呼んで。機械なら死ぬことも
「そうではなくて」
ワタシはグレイスを見上げる。降りそそぐ月の光に照らされた顔は、どことなく神々しい。
「名前を教えてください」
グレイスは、考えこむかのように腕を組み。
「気になるなら名刺を
そう言いのこして、彼女は夜の闇に消えていった。
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