第5話

 海の音が聞こえる。もう少しで目的地だ。

 アクセルを踏み込み、歯を食いしばる。先程の体当たりのせいで身体全体が痛む。

 刹那、眼前にヱマの姿が見えた。はっと息を吸い込み、反射的にハンドルを切ってブレーキをかけた。然しスピードが出ていたせいで制御が効かなくなる。

 まずいと思った時には遅く、車の後ろ半分がアスファルトの外に飛び出した。下は海だ。

 ぱらぱらと小石が海のなかに落ちる。

「チッ」

 すぐに落ちる事はないが重力には逆らえない、がきんっと引っかかっていた何かが壊れ、一気に後ろへ引っ張られた。南美は銃をホルスターにしまいながら立ち上がり、フロントガラスの枠を掴んでボンネットの上に移動した。

 だがもう下がっている後ろの方が重たい、垂直になりはじめるボンネットに革靴が滑り、鼓動と呼吸が速くなる。

 なんとか踏ん張って駆け上がる。そして愛車の顔を踏み台にして跳んだ。

 南美が硬い地面の上に受け身を取りつつ着地したのと、車が海に落ちるのとは同時だった。酷い水の音と共にしぶきがあがる。

 はっとして足を踏み出し覗き込む。僅かに海のなかから特徴的な顔が見えただけで、その後はゆっくりと闇の中に消えていった。

「沖田……」

 彼が大事に乗っていた、ただ唯一の形見。あがる息に眉を寄せる。

「ごめん、沖田、」

 はあはあと自分の息遣いがよく聞こえる。

「お前は本当に悪運の強い奴だ」

 背後からの声。低い男の声だ。無感情で無機質、まるで機械のように何もない。

「ヱマと会いたいのだろう」

 はあと大きく息を吐く。瞬間、南美が拳銃を抜いたと同時に後ろから口元を押さえられた。その手にはハンカチのようなものがあり、強い刺激臭を吸い込んでしまった。

 抵抗する余裕もなく一瞬で眼が虚ろになり、その場に崩れ落ちた。

「っつ……」

 意識が戻り、鼻を啜る。ぼんやりとした重たい頭を少しあげる。視線を巡らせた。

「えま、」

 三メートル程先に彼女がいた。俯いており、椅子に縛り付けられている。入院服のままだ。

「ヱマ!」

 叫びながら前のめりになった。然しぐっと手首に鎖が食い込み、ダメージが蓄積された腕や肩に痛みが走った。

「くそ」

 自身も同じように椅子に縛られており、スーツのジャケットを脱がされていた。勿論拳銃はない。からのホルスターだけが両脇にある。

「えま、ヱマ!!!」

 喉が潰れるほどに叫ぶ。倉庫らしき空間によく反響する。

 がちゃがちゃと腕を動かし引っ張ってみるがびくともしない。なんとか身体を捻って後ろを見ると、僅かに南京錠らしきものが見えた。アナログ式の南京錠だ。

 息を吸い込む。咳が出る。痰のからんだ咳だ。

「ヱマ、頼む起きてくれ」

 不安が過ぎる。もう一度名前を呼んだ。その時だ。

「ヱマ、お前の相棒が呼んでいる。返事をしてやれ」

 奴の声が聞こえてきた。然し姿を認識出来ない。眉根を寄せ、顔を歪める。ぼんやりとコートを着た男の姿が見えるだけで、それ以上は認識出来なかった。

「かなり効いたみたいだな」

 ヱマの後ろに回る。瞬間、断末魔が響き渡った。

「ヱマ! くっそなにやっとんじゃダボが!!」

 食い込むのも厭わず声を荒らげる。男は笑った。

「単に起こしてやっているだけだ」

 ぽんっと彼女の肩に手を置いた。すると断末魔がやみ、激しい息遣いだけが続いた。

「少し幻肢痛に似た痛みを刺激してやった。身体に影響はない」

 よく見ると右脚だけが僅かに痙攣している。南美はぎりっと歯を鳴らし、無言で睨みつけた。何度も身体を前にして鎖に抗おうとするが、筋張った腕に食い込むだけだ。じんわりと痣が広がっていく。

「ハハハ、刑事の眼じゃないな。お前は」

 ヱマの肩から少し下に行く。大きな胸の方へと。

 するとがっと椅子を引き摺ったような酷い音が響き、男は慌てて手を離した。南美を縛り付けている重たい椅子の足が片方だけ、前に出ていた。

「……だからお前は面白くない」

 男を睨みつける白い双眸は殺意の塊だった。ヱマのように正義を伴った真っ直ぐな鋭さではない。本気で人を殺す時の、冷たくドス黒い歪んだ鋭さだ。

 壊したって変わらない。寧ろ増していくだけだ。

「安心しろ。もうヱマには何もしない」

 壊しがいがあるのはやはり彼女だけだ。あの大和総裁も綺麗な眼をしていたが僅かに影があった。影もなく純粋で真っ直ぐなのはヱマしかいない。

「檻の中の猛獣だ、お前は」

 見上げてくる白い眼。真っ白なはずなのに濁って見える。歪んで見える。ドス黒く見える。

「おまえ、南美から、はなれろ」

 今にも噛み付いてきそうな眼だ。

「はなれろ、くそ、身体が……」

 全く殺してしまってもいいぐらいに面白くない。

 瞬間、男の拳が頬に当たった。椅子ごと横に倒れる。

 顔を歪め、漏れだしてくる血に歯を食いしばった。

「やめろくそ野郎」

 男を見上げて睨む。涎と血が混じり、汚いコンクリートに糸を引く。

 次は腹に蹴りが入った。

「やめろ!」

 ぐっと呻く声のあと、すぐに胃のなかのものを吐いた。幾ら鍛えているとはいえ元々はエルフ、ヱマは眼を見開き何度も叫んだ。

「俺が目的なんだろ! 俺をやれよ! なんで南美なんだよ!!」

 それに南美の手足についている鎖を引きちぎりながら答えた。

「お前を壊したいからこの男を虐める」

 椅子から離れ、なんとか立ち上がろうとする。右腕を置き、左手を冷たいコンクリートに突っぱねる。

 然し男の蹴りが腹に入る。二回目のそれにみぞおちの傷が僅かに開き、声にならない声を出して蹲った。

 腹を押さえて小さくなる姿にヱマは震えるようにかぶりを振る。

「やめろ、もうこれ以上、南美はもうボロボロなんだよ、」

 それに義体男は振り向いた。


ぞくっ…………


 水色の眼に影が落ち始める。絶望の色だ。恐怖の色だ。

 義体男は口元を覆い、眼を見開いてそれを見た。

 喉の奥から笑い声が漏れる。もっと南美を虐めれば、そう彼に向き直り髪を掴んだ。

 無理矢理立たせる。ベストで分かりづらいが、腹の辺りが若干赤く染まっていた。

 一歩離れ、狙いを定める。次の瞬間、回し蹴りの踵がこめかみに入った。

 力無く倒れていく南美を眼で追う。喉から締め出した声はもはや絶叫で、頬を涙が流れていった。

 倒れた南美を仰向けにすると義体男は彼の右手を狙った。足をあげる。

 全力の拒絶が反響し、ばきっと鎖より先に椅子が一部壊れた。とほぼ同時に足が振り下ろされ、ばきんっと手の骨が折れる音が続いた。

 これには流石に断末魔をあげる。じたばたと動くが潰れた右手にブーツが食い込むだけだ。

 足を退けると悲惨なことになっていた。それは離れていても見える。ヱマはもう上手く声が出ないのか、咳き込み嗚咽を漏らしながら何かを言い続けた。

 南美はもう意識が飛びかけているのか眼が虚ろだ。息もか細く、なんとか現実にしがみついている状態だ。

 だが義体男は止まらなかった。馬乗りになると懐からナイフを取り出した。

 そうして彼の片眼を無理矢理開ける。

 嫌な予感が頭によぎり、ずりずりと革靴を地面に擦り付ける。残っている左手で男の腕を掴む。

 ナイフの切っ先が向いた。

「やめ、」

 抵抗しようにもがっちりと押さえられているせいで無理だ。逃げられない。

「やめろや、くそ」

 ゆっくりと切っ先が近づいてくる。

「ぼけがッ」

 もがいても、左手に力を入れても何をしても逃れられない。

 ヱマの声にならない泣き声がこもって聞こえる。

 あの時の、猿の青年に顔を傷つけられた時に似た恐怖が駆け上がってくる。

「お前の眼は、要らない」

 ずっ…と刃が眼球に入り込んだ。はずだった。

「ナイフを捨てろ!!!」

 反響する声。重たい幾つもの足音。がちゃりという銃の音。強いライトの光がチラつく。

「今すぐ捨てろ!!!!」

 重装備の隊員達が銃を構えながら配置につく。内部は勿論の事、屋根も外も全て。いつの間にか大和に包囲されていた。

「ハッキングは無意味だ。早く捨てて南美から離れろ」

 かつかつとヒールを鳴らし、田嶋が鋭く義体男を睨みつけた。その眼は総裁らしい強い眼光を帯びている。

 流石にこの状況では逃げられない。それに僅かに電脳にノイズがある。古い電波に邪魔されているような、嫌な感覚だ。

 ナイフを捨て、南美から離れた。その瞬間に一番身体の大きい隊員が後ろから押し倒し、地面に伏せた。

 顔が歪む。そしてその顔を田嶋はよく見下げた。

「南美があれこれと一人でやっていたお陰でな、古い電波が弱点だと言うのを知った。微弱だが数名の隊員に持たせてある」

 なんの特徴もない、無個性な顔。ただその赤い瞳には人間らしさがなかった。

「復活が早いな、田嶋総裁」

 ゴーレムのなかでも体格のいい隊員が全体重を乗せている、それでも義体男の顔は平然としていた。

「ああ。これでも一通りの訓練は受けてあるのでな」

 あの後、田嶋の元には数名の幹部が集まった。大和本部に顔を出さず連絡もつかなかったからだ。

 義体男が使った技法は所謂洗脳であり、ハッキングを伴ったそれはPTSDを一時的に引き起こしたり、マインドコントロールに似た状態になる。田嶋はPTSDを一時的に引き起こされ、記憶のなかに閉じ込められていた。

 然しあくまでも洗脳、根本からトラウマになっている訳ではない。彼女の南美に対する罪悪感やヱマに対する嫉妬心を利用しただけだ。

 元々ハッキングによる洗脳は電脳化が普及してからよくある犯罪行為になった。義体男の場合はその精度と速度が桁違いなだけで、技法自体はマニュアル化されたものだ。

 その為洗脳の解き方も同じようにマニュアル化され、第四において重要な役職の者は全員訓練を受ける。無論幹部連中もその訓練は受けてある。

 ある程度まで行くと田嶋自身も解除方法に従って動き、あとは現実世界に戻ってくるだけ。

「……そんな簡単には解除出来ないはずだがな」

 余裕そうだった義体男の顔が少し歪む。田嶋は見下した。

「私は元々、サイバー専門だったんだよ」

 それに驚いたのか数秒沈黙が流れる。

「記憶にも記録にもない」

「それは機密情報が多いからだ。記憶処理を施される」

「じゃあなぜ今」

「一泡吹かせる為に幹部が先日教えてくれた」

 ぎりっと田嶋の牙が鳴る。こつこつとヒールを鳴らして近づく。隊員が数名割って入り、義体男に銃口を向けた。

「記憶処理を施されても身体は覚えているものでな、お前のふざけた洗脳は完全に理解した。もう通用しない」

 だがそれに義体男は笑った。そしてヱマがいる方を向く。

「ヱマ! この女と南美はやりあっていた仲だぞ!」

 反響する声。沈黙が流れる。黒い装備のあいだから水色の瞳が見えた。

「だったら、なんだ」

 鋭い眼光、純粋な苛立ちの眼。

 義体男が唖然としたのを見て、田嶋は素早く指示を出した。更に数名の隊員が男を取り囲み、ヱマは支えられながら歩き出す。

「田嶋総裁、南美さんの応急処置は一通り終わりました」

「分かったご苦労」

 すっと視線を義体男にやる。ヱマがいた方向をまだ見続けており、そのまま強烈な電気ショックを浴びた。

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