第4話

 サツキ、その名前は彼が元々もっていたものだ。だが五、六歳の頃に父親の影響で剥奪され、今は戸籍以外からは削除されているし登録も出来ない。

 記憶の片隅に追いやられもう二度と思い出す事もなかった名前。然し義体男にデータ化された記憶を覗かれ思い出してしまった。

 ちらつく父親の顔。その口元は歪んでいる。

『俺がヤッた女の名前やないか』

 ノイズのかかった低い声。母親が怒っていたような気もするが、恐らく自分の為ではない。なにせクラブにいた女の名前をそのまま持ってきただけだからだ、適当に名付けた息子に愛情はないはずだ。

 その時ずきんっと頭が痛み、顔を歪める。

「ちっ」

 舌打ちをかまし、少し治まったところで車から降りた。

 小電波発信機をメカニックに渡し、南美は重たい足取りのまま事務所に戻った。完成まで数日を有する、どのみち必要になるのはまだ先だ。

 然し。事態は急変した。

 病院内からヱマが姿を消した。その連絡を受けたのは、彼が義体男に遭遇してから三日が経った朝方だった。

 彼女が入院している病院は五月雨の管轄内であり、セキュリティはかなり強い。とはいえ最終的には突破される可能性は高く、元刑務所である別病棟に隔離される形で置かれていた。

 造りが普通の入院病棟とは違い窓が実質なく、出入りするには扉しかない。またヱマが入った部屋はナースステーションから見て真ん前であり、両端にある出入口から一番遠い場所だ。

 その上扉にはアナログ式の防犯ベルが取り付けられており、看護師が鍵をさして解除しない限り扉を開けた時点で鳴り響く。陰山と同じ戦法だ。

 だからヱマが襲われる可能性は低くなるし、実際入院してから今まで義体男は現れなかった。彼女が本命である奴の行動的に不自然だ。

 どうやって侵入し、彼女を攫ったのか……彼女自身が抜け出す事は例え夜中でも不可能だ。

 五月雨のセキュリティを突破した? だとしてもアナログの防犯ベルはどうする……。

 南美は確認の為に警察へ連絡、第四のシステムやセキュリティには何もないと返答があった。陰山の技術では何かやれば痕跡が残る、彼が命令を実行しそこに義体男が乗っかかった可能性は低い。

 車を走らせつつデバイスを握りしめる。手動運転で自動運転車達のあいだをすり抜けていく。

「チッ、なんで誰もかからんのや」

 田嶋はメッセージを送ってから以降動きがなく、早坂も音信不通のままだ。特に早坂とは連絡をとりたいのに……もう一度舌打ちし、デバイスを助手席に放り投げると速度をあげた。

 病院に到着後、病棟へ向かった。南美の姿を見た看護師長が名前を呼び、裏へ呼んだ。

 ヱマへ何度か通話を持ちかけるが返答がない。電脳も通信が切れているように無反応だ。

 焦燥感を抑えつつ、夜に勤めていた看護師達に軽く問いかけた。その言葉遣いと眼差しは完全に刑事のものであり、自然と事情聴取のような雰囲気に変わった。

「あ、私その時対応したんですけど、五月雨の隊員が一人ここにやって来ました」

 軽く手を挙げて答えた看護師に視線が集まる。

「五月雨の隊員? それはなぜ」

 彼の質問に看護師長が答える。

「ここは五月雨の管轄内なので、定期的に隊員が点検と見回りをしに来るんです。データの回収も兼ねているので大体は夜中に」

「なるほど。では貴方が対応した隊員に不自然な点は」

 対応した看護師はかぶりを振った。然しあっと思い出したようで、一つ答えた。

「琉生さんの病室をやけに覗き込んでました。でも琉生さんだしと思ってそんなに気にしてなかったんですが……」

 それに南美は唸るような声で言った。

「そいつや」

 びくっと周りの肩が震える。

「監視カメラがあるやろ。見せろ」

 目つきが刑事のものではなくなる。看護師長が「いや、流石にそれは」と言った瞬間、振り向きざまに右腕を伸ばした。

「はよせえ」

 手中にはグリップがあり、トリガーに指がかかっていた。怯えた看護師長は腰が抜けたのか、がたんっと棚にぶつかりながら崩れ落ちた。

 他の看護師が「あ、あのこちらに……」とフォローを入れる。南美は何も言わず銃を下ろし、その青年の後に続いた。

 監視室に入るとそこに常勤している警備員が振り向きながら驚いた。

「アンタ、なんで銃なんか、」

 だが警備員など眼中にない彼は完全に無視をし、片手だけでパネルを操作した。案内した看護師が小声で耳打ちし、警備員の腕を引いて避難させた。

「これか……」

 該当の時刻は深夜の二時から二時半のあいだ。斜めからの画角で丁度ヱマの病室の扉が映っている。

 録画を再生しつつ警備員に問いかけた。

「この時間帯、ここは無人なんか」

 突然の問いかけに驚き、言葉が詰まる。すると舌打ちが響いた。慌てて吃りながらも答える。

「む、むむ無人、です。や、夜間は五月雨の見回りがあるんで、基本はいません」

 という事はリアルタイムで見ている人間はいない。

「後から映像を確認するんは。せんのか」

「い、一応、やるようにとは言われてますが……」

 映像のなかに五月雨の装備を着た男が映り込む。ヱマの病室の前で立ち止まり、覗き込むように動いた。

 然し右手が不自然に動くと袖から鍵を取り出し、アナログ式の防犯ベルに対して差し込むような動作をした。

 南美は舌打ちをかまし、がんっと機械の心臓部を蹴った。映像が乱れる。

「やれゆわれた事はせえよ、ダボが」

 締め出すような、捻り出すような声で視線をやる。その彼の背後で映像がチラついた。

 一瞬だけだが、確かにヱマのいた病室の扉が動いた。そして覗き込んでいた隊員がそのまま鍵を引き抜いて立ち去った。その後の映像には何もなく、ただ時間だけが流れていった。

 南美は五月雨の本部に向かってエンジンを吹かした。電脳から早坂に連絡をとる。然し一向にかからないどころか、コールさえも鳴り響かない。

 クソっと吐き捨てアクセルを踏み込む。以前もそうだった、雑居ビルが五月雨の管理下に置かれた瞬間義体男にヱマが連れ去られた。

「くそが」

 近道をしようとしたが丁度工事中で通行止めになっている。頭のなかでルートを考え、ギアを変えた。

 まさか五月雨が義体男とグルなはずは……ギリッと歯を鳴らし、ハンドルを握りしめた。

 その時、車の屋根が突然開き出した。

「は?」

 ナビの画面を見る。開閉中、という文字が点滅していた。

 何も操作していない。AIがぶっ壊れたか?

 薄曇りの空が見える。風が簪の飾りを揺らした。

 刹那、がっと後ろから首に腕が回され、ハンドルが動いた。

 右車線にいる車にぶつかりかける。本能だけでなんとかハンドルを切り直した。少し車体がかする。

「慌てているな、サツキ」

 苦しいが僅かに息が出来る強さ、声が出ない。

 そもそもそんな余裕がない。アクセルを緩めてもスピードが落ちる気配はなく、ハンドルだけが言うことを聞く。完全に奴の手のひらの上だ。

「ヱマの事が気になって仕方がないのだろう、サツキ」

 あがり続けるメーターに歯を食いしばる。なんとか車のあいだをすり抜けているが、溺れている状態でこれはキツい……。

「その名前、呼ぶん、やめろっ」

 拳銃なんてとてもじゃないが取り出せない。

「やめろと言われると更にしたくなるものだ。そうだろうサツキ」

 こめかみに血管が浮かぶ。少し絞める力が強くなった。

 息が難しい。片眼を瞑る。

 然し南美は知っていた。この先の交差点はついこの間変更があり、全ての信号が赤になる。

 義体男が信号を変えてしまえば、周りの車も乗っ取ってしまえば何も意味は成さない。が、このスピードでリアルタイムで周りをハッキング出来るとは思えない。

 実際、義体男が以前南美から逃げる際に監視カメラのハッキングが一瞬雑になっていた記録がある。かなりの速度で逃げていたし、抜かりのない奴が一瞬だけ雑になるのはおかしい。

 百キロは優に超えている。このままその交差点まで行けばタイミング的に赤信号に変わる。

 ぐっとハンドルを握り込む。その僅かな変化に義体男は何かを察し、顔をあげた。

 走っている車線側の信号が黄色から赤色に変わる。

 続いて左右の車線側の信号が変わった。

 瞬間無人の中央に躍り出たと同時にハンドルを切りつつ、力任せに前に出てサイドブレーキを無理矢理引いた。

 旧車な為一部がアナログに近く、サイドブレーキは沖田の判断でアナログのままになっている。その為車全体にブレーキがかかり、ハンドルを切った事と百キロ以上のスピードによって後輪が一気に滑った。

 かなりの音と共に煙があがる。その勢いは重たい機械の身体でも吹き飛ばす程だ。踏ん張りづらい体勢だった義体男はバランスを崩し、咄嗟に南美から離れた。

 無論後輪は滑り続ける。南美から離れたせいで余計に体勢が悪くなり、放り出される形で吹き飛ばされた。

 どんっと重たい音が鳴り響き幾らか転がる。

 車は殆どスピン状態で操作が効かない。広い交差点のおかげでぶつかる事なくなんとか停止したが、アスファルトには大量のタイヤの跡が産まれ南美は首を押さえて咳き込んだ。

 早くここから、奴から離れなければ……速度がない今、幾らでもハッキング可能だ。四方八方から車をぶつけられる危険性がある。

 ハンドルを掴み、アクセルを踏み込む。ぎゅるぎゅるぎゅるっと後輪が煙をあげたあと走り出した。

 顔を歪め、首にできた痣を触りながらどこに逃げるかを考える。

「くそ……」

 どこに逃げても同じだ。だがあそこならチャンスがある。

 先程の盛大なスピンでタイヤがすり減ったのか、スピードを上げたまま曲がると軽く滑った。

「間に合え」

 銃を右手にアクセルを踏み込む。そのまま高速に乗った。行き先は東京湾だ。そこにも小さいが古い電波塔がある事を後日教えられた。

 トラックのあいだをちょこまかと動く。風が吹き荒れ、白い息が後ろへ流れていった。

 法定速度を超え続けたせいかAIによる警告の声が流れる。あと数秒後に自動的に運転を切り替える、という警告だ。

「改造しときゃ良かった」

 苛立ちを込めて吐き捨てる。彼の技術ではハッキングなんて出来ない。

 バックミラーを確認した直後、アクセルペダルが足を無視して無理矢理動き、法定速度内にまでスピードを落とすとロックがかかった。同時にハンドルも僅かだが勝手に動き出し、完全に南美から主導権を奪った。

 勿論運転を切り替えようとしても画面自体、操作を受け付けなくなっている。舌打ちをかまし溜息を吐いた。

 焦ったところでどうしようもない。南美はもう一丁手に持ち、バックミラーやルームミラーで後方を確認しつつ警戒した。

 然し、一瞬の事だった。

 右車線を並走していた大型トラックが突然、彼の乗っている車に体当たりをしだした。国産車なので運転席は右にある、しかもオープンカーのまま。南美は咄嗟に頭を下げて身を守ろうとした。

 だが追撃は止まない。車の右側面がぼこぼこにへこみ、衝撃で何度も左にある壁にぶつかった。周りの車は自動運転だから勝手に離れていく。

 積んでいるAIは最新のものではないため事態に対処出来るだけの能力がなく、エラーを吐いて車体のバランスを保つ方に集中した。ようは自動運転から手動運転に切り替わったわけだ。

 南美はトラックが大きく右の方に寄った瞬間、頭をあげつつハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。

 がががっと左の壁に擦りながらも一気にその場から離れる。直後、大型トラックは勢いよく壁にぶつかり、バランスを崩してそのまま高速道路から落ちた。

 下から大きな音と悲鳴がこだまする。だが他がどうなろうと知ったこっちゃない、まだ動ける車体を引きずり速度をあげた。

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