二章

第12話

◇◇


 道の端で、傷ついている猫を見つけてしまった。


(何でまた、私も気づいてしまうかな?)


 麓のむらで、言いつけ通りの買い物は済ませた。

 余計なことはしないようにと、私のお目付役でもある朱全しゅぜんからは、きつく念押しされていた。

 正直、朱全のことはどうでも良かったが、あの方を困らせるようなことはしたくなかった。

 だから、私は何度も、素知らぬふりして通り過ぎようとしたのだ。

 だけど……。

 蹲って、震えて、たまに細い悲鳴を上げて、ぼろぼろの猫。

 懸命に生きようとしている命を、置き去りにすることは、どうしても、私には出来なかった。


 ――まるで、自分自身を見ているようで……。


 あの方に拾われなければ、私も野垂れ死にをしていたのだ。

 豪雨の日。

 深い森の中で、あの方が私を見つけてくれた。

 そのまま死ぬのを待つだけだった私に真っ白で、滑らかな綺麗な手を差し伸べてくれたのだ。


(……せめて、手当てだけでもしてやろう)


 途中、雨が降ってきて、全身びしょ濡れになって、隠れ家に着いた時にはそれだけで朱全から説教された。

 挙句、隠し持っていた猫まで、発見されてしまったのだから……。

 そのまま、殺されてもおかしくないくらい、朱全は殺気に満ちていた。


「いい加減にしろ! 太子様はお忙しいんだ。余計な手間を取らせるな。とっとと、それを捨て置いて来い!」

「い、嫌です。私にはそんなこと出来ません。こんな雨の中、置いてきたら、すぐに死んでしまいます」

「だから、どうした?」

「……な、何とか出来ないでしょうか。少しだけでも。手当てして、死んでしまうのは運命です。仕方ありません。……けど、このまま見殺しにするのだけは」

「家畜は自然の摂理のままに生きている。弱いから死ぬ。それだけだ。それに、野良猫など、変な菌を持っているかもしれないだろ。太子様がご病気にでもなられたら、どうするのだ? お前に責任が取れるのか?」


 淡々と言いつつも、腰の大剣に手を掛けている。

 朱全は私のことなんて、どうだって良いのだ。

 いつも、この男は私を始末する理由を探していたではないか?

 私がいなくても、代わりなんていくらでもいる。

 拾われた野良猫は、私だ。

 弱いから、すぐに死んでしまうのだ。


「分かったなら、返事をして、さっさと捨てて来い」

「…………っ」

「死にたいのか?」


 ぶるぶると首を横に振るが、泥だらけの猫は手放せなかった。

 ――と、その時。


「随分と賑やかだね」


 怜悧な声が、刃の切っ先の如く飛んできた。

 一瞬で、空気を変えてしまう覇者の声。

 私はその声を聞くだけで、泣いてしまうのだ。

 この人に庇ってもらったことはあっても、怒られたことなんて、一度もなかった。


「……何をしている? 朱全。私の可愛い子に、物騒な物を向けているではないか?」

「た、太子様!? どうしてここに?」

「何だ? 私がここにいるのはおかしいことなのか?」

「いえ、そんな……滅相もない」


 今まで怒りを剥き出しにしていた朱全が、バツが悪そうに肩を竦めている。

 先生は、口元に典雅な笑みを浮かべながら、しかし、一片の隙も見せない所作で、土間にいたずぶ濡れの私のもとに、裸足で下りてきた。


「先生。汚れますよ」

「構わないよ」


(……綺麗だな)


 間近で目にする先生は、色白で首が長くて、鼻筋が通っていて、とにかく美しい。

 つぎはぎの袍を纏っていたとしても、ぴんと伸びた背筋と、強い眼差しから、生まれの良さが溢れ出ていた。

 先生は、私が抱えていた泥だらけの小さな猫を、恭しく抱き上げた。


「うん、呼吸は浅いけど、でも、ちゃんと生きている。私が出来るだけのことをしてあげよう。他でもない、お前の頼みだからね」

「先生! ありがとうございます。本当にありがとうございます! 私、死んでも、このご恩は忘れません」


 何度も私が頭を下げる私に、先生は大笑いしながら言った。


「大げさだな。その代わり、ちゃんと文字を読み書きできるようになって、術を覚えるんだよ。一気呵成にやろうとするのではなく、毎日こつこつやること。お前なら、出来るよね」

「はい! 精進します」

「いい返事だね。お前は本当に素直で優しい子だ。そういうところ、私には真似できなくて憧れてしまうよ」

「そんな……。滅相もない」


 褒められると、萎縮してしまう。

 私の何処に、先生のような完璧な人が憧れる要素なんてあるのだろう。

 先生が猫を抱いていない方の手で、私の頬に触れた。

 泥を拭ってくれているらしい。

 不思議だけど、先生は私の瞳の色を眺めていると、心が落ち着くらしい。

 差別の対象にしかならない瞳の色だったけれど、先生はその瞳の色を、むしろ好んでくれた。


「綺麗な瞳の色。お前の心根のようだ。……でもね、私は少しだけ心配なんだ。その優しさが、お前の進む道を曇らせないようにしないといけないね。情で……足を引っ張られてはいけない」

「…………先生」

「返事は?」

「あ、はいっ。もちろん、承知いたしました」


 とりあえず、私は威勢よく返事をしてみた。

 だけど、本当のところ、先生の発した言葉の意味なんて分かっていなかったのだ。

 私は、ただ納得したふりをしていただけ……。

 先生の話すことは、すべて正しいから。

 あの頃の私は微塵も、先生の話していることを疑ったことなんてなかった。

 ずっと、この人のことを盲信的に信じていたかった。


 ――――けれど……。

 先生。


 それを言うのなら、貴方だって、私と同じじゃないですか?

 情で、足を引っ張られましたよね?


 ――ねえ、先生。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る