第10話

◆◆


 玉清館の地下。

 本来、学生しか利用できない医事室に、緊急事態だという理由を盾にして、藍紗の肉体を保管している。

 腕利きの医薬師を思いつくだけ呼んで、皓夜の能力もありったけ注ぎこんだ。


 おかげで、藍紗の肉体は奇跡ともいえる速さで回復した。


 傷跡は少し残ってしまったけれど、時間と共に薄くなっていくだろう。

 あとは細かい調整をするだけ。

 明日にでも、藍紗の魂を肉体に戻すことができるはずだ。

 

(一瞬、肉体に戻ったのかと思ったけど、そういうわけではなかったか……)


 藍紗の幽体は、肉体に沿うように眠っていた。

 肉体が回復したことで、幽体が呼び寄せられたのかもしれない。

 もうすぐ、肉体を得て動く彼女を目にすることができるはずだ。


(……可愛らしい寝顔だな)


 無害そのものの、小動物のような……。


 ――吝 藍紗。


 ようやく出会えた「あの人」の今の姿。

 こんな形で再会するなんて、まったく想像していなかった。


 吝家の離れで、対面を果たしたあの時……。

 天帝廟で彼女の幽体を見つけ出した時……。


 全身の震えと発汗。

 心の奥底から、叫びたくなった皓夜の情動を、彼女は生涯知ることはないだろう。

 赤子のようにあどけなくて、庇護力をそそる無防備さを、あけっぴろげに皓夜に見せつけて、すやすやと眠り続けている。


(死してなお、私を試しているようだな?)


 藍紗が鋭い刃を身体の奥底に、隠し持っていることは、分かっている。


 期待半分、恐怖が半分。


 万が一、記憶があった時、彼女に拒否されるのが怖くて、然るべき手段で迎えるようにと、進言してきた子墨を無視して、王城を抜け出し、乱暴に連れて来てしまった。


(どうせ、別人だって分かっているのに。私は……)


 再会してから、ずっとあの人の面影を探している。

 だけど、藍紗はあの人にはまったく似ていなかった。

 可憐だけど、あの人が発していた震え上がるほどの覇気はない。

 彼女は、普通の娘だ。

 育てられた環境が悪過ぎたのか、十七歳にしては小柄で、痩せすぎだが、性格は単純で、お人好しの……従弟を溺愛している平凡な娘だ。

 自分が今までされてきたことが理解できない、理解したくない。

 蒼雪同様、まだまだ子供だ。

 目くじらなんて立てる必要もないのに。

 

(……歯痒くて仕方なくて)


 口を開けば従弟のことばかり気にしている彼女に、苛立ちが頂点に達してしまった。

 記憶が判然としない時点で、察して欲しかった。


 藍紗自身が思い出したくないから、自ら記憶を封じているのだと……。


(皇帝が怒っているなんて……言うつもりなんてなかった)


 むしろ、あの皇帝ならば、かえって、この状況を面白がっているはずだ。


「痛いですね」

「…………子墨……ですか」

「年甲斐もなく、嘘を吐いてまで、子供を苛めるのは、やめた方が宜しいかと?」

「相変わらず、うるさい奴ですね」

「言わせて頂きますよ。心に負担が掛かりすぎると、彼女に掛けた術が壊れてしまいますからね」

「私だって、反省はしていますよ」


 だけど、子墨の方が酷いとは思っている。

 皓夜が暴走するのは予想がついていたことだろう。

 歯止めをかけるためにも、こういう時こそ、皓夜の傍にいなければならないのに。

 絶対に、確信犯だ。


「そちらは、どうだったんですか? ずいぶんと帰りが遅かったじゃないですか?」

「貴方がさぼった授業に対して、先師に根回しをしなければなりませんでしたからね。それに、陛下のご機嫌取りもあります。早く帰れるはずがないじゃないですか」

「どうせ、アレにしつこく絡まれて、帰れなくなったんでしょう?」

「陛下は好奇心旺盛な方ですから。貴方には「国事に関すること故、直接話に来い」と、笑いながら、お怒りになっていました。せめて、きん 芙蓉ふようの監視だけでも、私の臣に任せていただけたら……」

「まだ芙蓉と決まったわけではないでしょうし、泳がせておけば良いのです。下手に刺激して、今、この時期に三公さんこうから睨まれたくありません。とりあえず、蒼雪を囮にして釣る方向で、犯人を特定しますから、お前は、アレがしゃしゃり出て来ないように、抑えつけておいてください」

「アレって、この国の皇帝をモノ扱いしては駄目ですよね」

「アレが出張ってくると、昔からロクなことがないんです。大体、お前が藍紗さんのことを、アレに隠せなかったからいけないんですよ。せっかく景極けいきょく殿の奥で、藍紗さんを匿おうと計画していたのに……。アレが絶対に来るのが分かるから、こんな……埃っぽい陰気で狭い玉清館で、引き取る羽目になったんですから」

「仕方ないでしょう。この医事室も、貴方の寮部屋も、玉清館の中では最高級の場所なんですから」


 淡々と反論されて、皓夜は益々ムッとした。

 そう言うだろうことは、分かっていた。

 しかし、分かっていても、皓夜が減らず口を叩いてしまうのは、子墨が相手だからだ。

 昔から、人形のように、無愛想な子墨と付き合っていると、生きているうちに一度くらい、慌てふためくさまを目にしたいと、つい、意地の悪いことをしてしまう。


(私だって、ここに彼女の幽体を留めておくことが最善ということくらいは、分かっている)


 政務の中心地でもある内延、特に皇帝の居住地でもある太極殿の護りは堅固だが、人の出入りは多い。

 その点、玉清館の皓夜の私室に藍紗の幽体を匿っていれば、容易には発覚しないはずだ。

 皓夜が滞在しているのは、玉清館の中でも最奥の寮部屋。

 あそこは代々、皇族関係者の部屋と決められていた。

 太子とて希望があった場合は、玉清館で学ぶことができるように、護りを固めた部屋を用意していた。


 ――老若男女、貴賤も問わない。才のある者は「妖異」を討伐すべし。


 妖異との戦いは、真羅王を確実に斃すまで終わらない。


 ――戦え……と。


 常に臨戦態勢が組めるようにと、五大主要都市の結界を術者の力で強化して、妖異に効果のある術式を人民に広めた。

 合理的な仕組みを作ったのは、この国の最初の「皇帝」。

 そして、その皇帝が唯一平伏する存在「天帝」だった。


 ――あれから、四百年。


 どんなに当初の想いが高潔であっても、時代に合わせて変わっていかないと、知らないうちに国が腐敗してしまう。


(今年は随分と、意識の低い学生が増えたようだな)


 久しぶりに玉清館に紛れてみて、皓夜は実感していた。

 国の一大事が迫っているというのに、実戦で使えそうな人材があまりに少ないのだ。

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