飛行機
鳥は上にむかって飛んだ。
見わたすかぎり真っ黒なので、彼はきょろきょろとした。上にあがっているのか、下に落ちているのかすらわからない。
ただ風の音が、ひゅうひゅうとなっている。
「この音が、だいすきさ」
彼は言った。
「ぼくらの音だ」
「そうだね」
鳥はうなずいた。
「悲しい音だよ」
「どこが? ずっと先へ先へと進む音だよ」
「そうだね、そして、時間に果てがないことがわかる音だ」
彼は口をひんまげて友人の羽からおりてしまった。今日の鳥は、朝からひどい目に遭ったからだろうか、ひどい憂鬱の星にとりつかれている。一緒にいても面白くないと、そう思ったのだ。
やがて、暗闇に白い糸にぶらさがった青年が現れた。青年は糸になんとかつかまりながら、右手にべつの糸をつかんでいる。ずいぶん重いものをぶらさげているのか、右腕は半分ひきちぎられている。
鳥は羽を一本ぬきとると、それで青年の腕をかがってやった。
「ありがとう」
青年は弱々しくそう言った。
「どういたしまして。それにしても、なんでそんなにがんばっているんです?」
「この糸の先にだいすきな人がいるんだ。ぼくが手をはなすと、その人はまっさかさまに落ちて死んでしまうんだ」
鳥は糸のはるか先の暗闇に目をこらしたが、なにも見えなかった。
「ぼくの恋人なんだ」
青年はうっとりと言った。これほどつらい思いをしているのに、その人のまばたきひとつを思いだすだけで幸福になれるほどあいしているのだ。
「その人はやさしいんだ。そしてうつくしいんだ」
「あいされる人は、いつでもそうですね」
青年は鳥の言葉にムッとした。
「陳腐なものじゃないよ。普遍的でありながら類をみないものなんだ。やさしさとか、うつくしさっていうのはね」
「わかりますよ」
鳥は青年の気を害したことを申しわけなく思ったので、そう言った。しかし、青年は「本当にわかっているかい?」と疑った。
「そんなふうに思われるようじゃ、こんなにがんばっている甲斐がない気がしてしまうなあ。もっと認めていただかなくちゃ。腕がひきちぎれそうなんだからさ」
青年は右腕をわざと乱暴にふって、せっかく鳥が治してあげた腕をまたひきちぎってしまった。糸がぶらぶらとゆれ、下のほうから息をのむ声がする。
鳥と青年は闇のむこうを見おろした。青年は不安そうに言った。
「ちょっと見てきてくれないかい?」
「いいですよ」
鳥は心配そうな青年をおいて、糸をたぐって下におりた。永遠につづくかと思われる暗闇のはるか下、ずっと下のほうに、赤い糸でぐるぐるまきにされた女性がいた。
「いたいわ」
彼女は、しくしくと泣いた。鳥は仰天して、途中から赤くそまってしまった糸を見た。
「こりゃあひどいや。どうしてこんなことに?」
「はじめはよかったんですけれど、だんだんうまくいかなくなっちゃって」
彼女はあきらめ半分に言った。
「ねえ、鳥さん。わたしたちって死んでいるの? 生きているの?」
「どうやら死んでいますよ」
鳥はきっぱりと言った。
「やっぱりそうよね。ずっと世のなかが暗いんだもの。でも、死んだあとも痛いしつらいものなのね。それってとても理不尽ね」
鳥は女性をかわいそうに思ったので、着ていたコートを彼女にかぶせてあげた。すると、彼女は礼を言ってほほえんだ。
「あなたの恋人は、ずっとあなたをつかまえて離さないですね」
「うん。あの人は、わたしをつかまえて離さないと飛んでいってしまうから」
女性は言った。
「わたしが落ちて死んでしまうと言っているけれど、もう死んでしまっているのだから意味ないのよ。ただ、分かたれたくないのよ」
「どうして分かたれたくないのでしょうか?」
女性はほほえんだ。
「ねえ、鳥さん。どうかこの糸を切っていただけないかしら? お礼はするわ」
「あなたの恋人に、そうしてもかまわないか確認してきても?」
「だめよ」
女性は眉をひそめた。
「そうね、それなら糸を切らなくていいから、わたしを上へひっぱりあげてちょうだい。それですべて解決するわ」
「そういうことなら」
鳥は女性を背中にのせると、糸をたぐって、上へ上へとのぼった。
鳥は背中に、女性のあたたかい血潮を感じた。彼女は口を半びらきにして、だんだんと白くなる糸を見つめていた。
青年はゆるくなった糸を不思議そうに見ていたが、女性に気づくと「ああっ」と叫び声をあげた。ふたりはじっと見つめあった。
鳥はふたりの瞳と瞳のあいだを走る光線が、憎しみの声をあげて青年の首にからみつき、女性の肩をゆさぶるのを、おびえながら見守った。それは激しく戦い、もつれあったすえに糸を焼ききった。青年は砂のように消えた。
「さようなら。もうわたしのことは忘れるように、あの人に言ってください」
女性は笑いながらそう言うと、切れた糸を抱きしめて鳥の背中から飛びおりた。
鳥は爪で闇の一点をこすりとって穴をあけ、クチバシをさし入れると、女性の伝言を青年に伝えた。
鳥は歩いた。
「ひとりぼっちですね」
と、彼はつぶやいた。
今日たくさんの人と出会い別れるたびに、くちばしから冷たく無垢なよだれが流れおちた。それはあまい味がして、いったん床におちると、真っ黒な世界を水面のようにゆらすのだった。
その波の一重がうたいはじめた。音は広がり、声のない声がかさなった。
鳥は歩いた。
セーラー服の女の子が立っていた。
鳥は女の子をこわがらせたくなかったので、できるかぎり静かに近づき、紳士的に「こんにちは」と、あいさつをした。
「こんにちは」
女の子は小さくひざをおった。
「元気ですか?」
「まあまあよ」
女の子はほほえんだ。
「前よりはましかな」
「それならよかった」
女の子の目は白かった。靴下も白かった。闇のなかで光っていた。
鳥はこの女の子が大好きだった。結局のところ、この女の子をむかえにいくために、つらい思いをして仕事についたのだった。
「私の背中にのっていただけないでしょうか?」
鳥はおずおずと言った。女の子は首を横にふった。
「いやよ、血のにおいがするもの」
女の子の言うとおり、鳥の背中には恋人たちの血がこびりついていた。それはじっとりと湿り、なまぐさく、こってりとした愛のにおいがするのだ。
「おふろに入ってきますよ」
鳥はあわててきびすを返し、シャワーをあびて、また戻ってきた。
「これならいいでしょう?」
羽からせっけんのにおいがただよい、真っ黒な世界をシャボン玉がふわふわとただよった。
女の子は空気をかいでほほえんだが、また首を横にふった。
「だめよ、あなたの羽はやわらかすぎて、すべり落ちてしまうもの」
「でも、私は鳥だから」
鳥はこまりはてて、それから羽と羽をぽんと合わせると、爪にまいてあった黄色と黒のテープをくるくると体に巻きつけた。すると、鳥の羽は鉄のように固くなった。
しかし、女の子はまたも首を横にふった。
「これじゃあ、おしりが痛くなっちゃうわ」
鳥は自分の爪をひきぬいて、それで椅子を作った。それを背負って、
「どうでしょうか」
と、女の子をうかがった。
「いやよ、わたし高いところきらいなんだもの」
「高いところじゃありませんよ。空を飛ぶだけです」
鳥はやさしく言った。
「あなたがこわがるようなものは、全部見えないようにしてあげますよ」
「たしかになにも見えないわ」
女の子は両手を目のまえにかかげて、指をひらいたり閉じたりした。
「わたし、きらいなものばっかりなのよ。こわいものばっかりなのよ。それを全部見えないようにしたら、こんなふうになっちゃった」
女の子は、むかしのことをいろいろと思いだした。子どものころ、お母さんと行った遊園地、お父さんに寝かしつけられた記憶、大切にしていたぬいぐるみ、中学校の友達のりえちゃん、まおちゃん、なかじまさん、そしてすきだった男の子。
そんなものは紙っぺらにすぎなかった。女の子の白い目は泣こうとするのだが、ただ真っ黒な世のなかを見つめて、そのぺらぺらの記憶をながめるだけだ。
「どうして悲しくないのかしら?」
女の子はふしぎそうに首をかしげる。
「むかしは泣いたのよ。わたしをかわいそうがって、泣いたの」
「もうかわいそうじゃないから」
鳥はささやいた。
「死んだ人間は、かわいそうじゃなくなるんです」
「そうなの?」
女の子は目を見ひらいた。
「じゃあ、わたし、もう甘やかしてもらえないのね」
「私は彼とちがって、あなたに優しくするけれど、あなたを甘やかしません」
それは鳥がずっと決めていることだった。女の子が線路に落ちた日から、彼女を助けたいと思った日から、そうしようと思っていたのだ。
「そう」
女の子は立ちあがり、鳥の背中にのると白い目を閉じた。
ふたりは飛びたった。ポーンと音がした。客室乗務員が女の子の顔をのぞきこみながらプラスチックのメニューを渡し「なにになさいますか?」と聞いた。女の子はアップルジュースをたのんで、紙コップを受けとった。
機内は低いうなり声をあげている。
女の子以外の客はうなだれて、自分のひざを見つめている。飛行機のなかは、だれかの胃を泳ぐかのように静かでうるさかった。息ぐるしい気圧の高さをおしながすために、女の子はジュースをのんだ。
窓から水色の空が見えた。
女の子は顔をよせて、流れていく白いもやをながめた。顔がガラス窓にうつっている。その横に、機内モニターの赤い文字が反射する。
地獄。
ガラス窓にうつった女の子の黒い目が、ゆっくりと左右に揺れる。
鳥の就活 みけろくろ @mikemikewatawata
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