闇の彼岸花

梅崎幸吉

第1話~完了

闇の彼岸花                                           






                     

                      (1)




 まだ五月なのに異常気象のせいか真夏日の暑さが続いている。

 夜になっても皮膚に粘りつく湿気を伴なう不快さである。


都会の歓楽街は天候に関係無く人工的などぎついネオンと異様な活気に満ちていた。その歓楽街に一歩踏み込むと異様な熱気が充満している。あらゆる人々の多種多様な情念、汗臭い体臭、香水、酒や食物が胃袋の中でごっちゃになったような饐えた臭いが漂っている。


 歓楽街とは現実と非現実の定かでは無い人工的に形成された空間の場所、自己を捜しに来ているのか、失いにか、忘れにか、壊しにか、或いは、潜む為、隠す為、確める為、ここでの目的は金を使う事によって各自の思惑を満たそうとする事に尽きる。欲望と金、その片方が欠ければ関係は壊れる。人間社会の最も単純で複雑かつ不可欠な基本的縮図である。


 黒沼剱は歓楽街の路地裏を仕事場にしていた。 終電近くになると駅の近辺の路地裏には泥酔して倒れている者、管を巻き喚いている者、罵りあう男女、乱闘している連中、それらの光景を尻目にふらつきながらも駅に急ぐ人々がいる。  剱にとって千鳥足の中年は一番のカモだった。肩を軽くわざとぶつけ、見た目には親しげそうに思わせ強引に暗い路地裏に引きずり込み、贅肉のついた腹に一撃を喰わせて財布の中身だけを抜き取る。一晩に四、五人捌けば二十万位になった。この手の仕事は週に二日位で、気が向けばそれ以上のこともあったが全く動かない時もあった。要するに気まぐれなのである。


 剱にとって、金にならない事は仕事とは言わない。他は全て遊びか気晴らしにすぎない。

 黒沼剱の個人主義で合理的な考え方、生き方は誰でも具えている。だが、想うだけで現実の社会にこの生き方を個人として徹底的に実践することは自滅を意味する。誰でもがそのルールを破滅しない程度には守っている。これに関しては異常者、性格破綻者とて例外ではない。


 黒沼は二〇歳になろうとしていた。一七八センチ、七五キロ、浅黒く贅肉のないしなやかな筋肉、精悍な面構えと不敵な物腰は二十代半ばに見えた。黒沼は通称ケンと呼ばれていた。

 ケンは物心がついた頃から自分が自己中心的な存在であることを知っていた。何故、自分で自分自身の感情や欲望を押さえなければならないのか、という事がケンにはよく理解出来なかった。いわゆる自己制御はケンにとって堪え難い苦痛を伴った。自分以外の子供や周りの人間達の言動は常に不可解なものであった。


 ケンは途轍もなく我儘な子供だった。親はもとより周囲の人間達はケンに対して野生の動物を調教するのと同様の方法を用いる以外に手は見いだせなかった。周りの仕打ちに対してケンは燃えるような憎悪と憎しみを感じては報復し、又、それを繰返した。

――親も含めて誰もがケンには人間的な学習能力が生まれ付き欠落しているのだと思った。だが、小学校に入る頃にケンの態度が一変した。それまでの反抗的な言動が嘘のように無くなった。暫くは周りの大人達はその急激な変化に戸惑ったが、その内に気にしなくなった。しかし、ケンの本性が少しも変化してはいないと感じていたのは同世代の子供達だった。まともな抵抗が無駄だと骨身に感じて悟ったケンは、単に自己防衛の為に表面的な反応を消したにすぎない

ケンの瞳には前以上に獸に似た強い意志的な光が宿っていた。


 ケンが小学一年の夏休みの時に家が火事になった。深夜二時頃出火して瞬く間に燃え上がり、隣家五軒を巻添えにして沈火した。死者はケンの両親を含め五人も出た。出火元はケンの両親の寝室だった。近所の人々は密かにケンを疑ったが七才になったばかりの子供でもあり、親を二人共殺すという事を考える事自体がおぞましく、各自それぞれの胸中深く沈めた。ケンは一時親戚に預けられたがあまりの我儘さに全く手がつけられず、結局十五才まで公的施設で育つ事になった。


 ケンは成長しても自分の事を他者に語ることはほとんど無かった。ケンに対し過度に興味を示して近づこうものなら、痛い目にあうか二度とケンに相手にされなくなる。ケンは近づく者に対して見る者を圧し、凍りつかせる眼光を放つのである。


 午前二時、ケンは仕事の後に立ち寄る店の一軒である四谷駅に近いスナックのカウンターの奥に座りビールを飲んでいた。二十数人は入る程度のスナックとしては普通の店構えである。店の客は近辺に住む常連が六人いる。ママとアルバイトの二十才前後の女性が二人いた。ケンが店に入って来た時はまだ学生風の男達三人がカラオケを歌っていた。ケンの存在が気になるのか時折視線を送った。二十分程で店の女とママに愛嬌を振りまいて元気よく帰った。他の常連の客はケンの事を知っていてか知らん顔で振る舞っている。

ママと呼ばれている女はいつもと違うケンの雰囲気を感じていた。

「今日は何かあったの? そんな怖い顔して」

「……」

 ケンは女をちらりと見たが無言でビールを口に運んだ。

「あら、つい余計なこと言ってごめんなさいね」

 女は悪びれた様子もなくビールとつまみの煮物をカウンターの上に置くと、ケンの隣の席に来て座った。三十代半ばのさほど美人ではないが色白で上品な顔立ちをしている。その笑みも柔和である。

「私が隣にいると、いやかしら」

 和ませるような口調で、隣に座った女はケンにビールを勧めた。グラスに残っていたビールを一息で飲み干すと無言で女の眼をみた。女は嬉しそうにそれに答えた。

 注がれたビールをケンは無表情で一気に呑んだ。グラスをカウンターに置いて煙草を取り出すと、すかさず火がきた。 「あら、ママ、絵になってるわよ」

カウンターの中に入っている若い女が冷かした。

「いやね、ミイちゃん」

 そう言って照れる仕草をして女はケンを見た。

 ケンは無表情のまま宙の一点を見つめている。

 今日はケンのいつもの勘が働かなかった。珍しく仕事でへまをしたのである。二人を相手にして一万にもならなかった。三人目の時である、地元のチンピラ達に見つかった。その連中は三人だった。その男達にケンは自分の顔を見せないようにしていた。三人の男達はケンを逃がさないように眼配りしながら近づいて来た。相手は自分たちが三人のせいかふてぶてしい態度で隙だらけだった。

    

 うつむいた姿勢のケンに一人が脅すような声で側に来た時、ケンは振り向き様に強烈な右のパンチを相手の顔面に入れた。後の二人にも攻撃の隙を与えなかった。素早い腹部への蹴りと顔面に頭突きを二人目に加えた。三人目はケンに殴りかかっていたが大振りすぎた。ケンは頭を低くして相手の身体にぶつかるように踏み込み右の拳をみぞおちに思いきり食い込ませた。男が呻きながら前のめりに倒れ込んだ。一瞬ではあったが長居は無用だった。恐らくケンの顔は三人ともはっきり見てはいないはずである。路地を素早く駆け抜けて表通りに出るとすぐタクシーに乗った。

 当分あの場所では仕事は出来ないな、とケンは思っていた。

 ケンは宙を見つながらビールを一気に飲んだ。隣に座っている女の手がいつの間にかケンの太ももの上に置かれている。

 どうやらこのスナックのママは危険な匂いが好きらしい。ケンは知らぬ顔をして注がれたビールを飲んだ。


 女の住んでいるマンションは店から車で四、五分の所にあった。

 十階建ての八階である。かなり広い間取りのマンションである。

 女は店ではすみれという名であったが、本名は青木澄子と言った。  

「さあ、楽にしていて、今ビールでも出すから」

 十五畳はある洋間の応接間のゆったりとしたソファーにケンを座らせて女はビールとグラスを持ってきた。

「あら、私って勝手にビールにしてしまったけど、良かったのかしら?」

「ああ、これでいい」

 まるで自分の女にでも言うようにケンは素っ気無い言い方をした。

 女は嬉しそうに乾杯と言って一口で飲み終えると、ケンの肩に軽く触れ奥の部屋に行った。女はシルク地の青紫色の部屋着に着替えてすぐ戻って来た。

「わたしって青紫が好きなの、名前が青木というからじゃないのよ」

 女は聞きもしない事を嬉しげに独り言のように言った。

「すみれって店の名前もわたしの好きな花。この服もそれと同じ色の青紫なの」

 ケンは煙草を口にくわえたまま右の拳を擦っていた。殴った時に少し痛めたらしい。強く握ると鈍い痛みがある。かすかに赤い痣になっている。

 女はそれに気づくとケンの側に寄りそって右拳を手に取り、両手でさも愛おそしうに優しくさわった。  

 ケンは女の要求のままに身を預けていた。傷ついた獸が傷を癒すときの状況に似ていた。今は自分の身を守る為の安全な隠れ家としてはこの女はケンにとって好都合の存在だった。ケンを気に入っている事はこの女の店に入った時に感じていた。それを見極めるケンの嗅覚は天性のものであった。


 すでに女の身体から動物のメスの放つ交尾期独特の匂いがケンを刺激していた。普通の男ならすぐに欲情するであろう甘い匂いと感覚の心地よいしびれをおこす作用をその匂いはもっていた。

 女の眼は既に潤んでいる。その女の動作や声もやかすれた官能的な響きと淫靡さをたっぷりと含んでいる。

 ケンはさかりのついた雌の動物を見るように女を見つめた。その冷たく覚めたケンの眼差しがよけいに女の燠火を激しく燃えさせるらしい。


 ――甘ったれた声を出しながらケンの胸に顔を埋めてきた。

「やだ、わたしったら、どうしましょう」

 その女の小娘の演技に近い仕草をケンは天井を見つめながら何の感情もなく聞いていた。




                       (2)




 ――激しく燃え盛る紅蓮の炎のなかにふたりの人間が凄まじい苦悶の形相で悶え苦しんでいる。よく見ると男と女である。だが、炎はそのふたりをみるみる間に男女の区別のつかない焼け崩れた肉の塊に変えていく。

それをまだ幼い子供がすぐ側でじっと見ている。子供は焼けて苦しむそのふたりを怪訝な眼差しで見つめている。その炎は容赦なく子供の方にも灼熱の舌を伸ばす。子供は逃げようとするどころかむしろその炎のなかに入って行く。子供の手はみるみる間に溶けていく。その崩れゆく手を子供はむしろ楽しそうに見つめている。見つめている眼も焼け崩れていく。子供の全身を炎が包む。その炎のなかで子供は歓喜にも似た戦慄的な絶叫をあげた。

 その子供の叫び声でケンは眼を覚ました。全身にびっしょりと汗をかいている。まだ身体の芯が燃えるように熱い。身体中を痺れるような快感がざわざわと細胞を震わせている。ケンはしたたかに射精していた。


 隣では女が満足そうな寝顔で寝ている。女の手がケンの胸においてある。ケンはその手をどかして起き上がると水のシャワーを浴びた。

 やがて正午になろうとしていた。

 カーテンを少し開けると眩しい陽光が部屋に差し込んだ。

 ケンは勝手に冷蔵庫からビールを取り出して飲んだ。内臓を冷たい液体が流れていくのを感じる。二杯目を飲み始めた時に女が眼を覚ましたらしい。ふらつく足取りでケンに声をかけた。

「あら、もう起きてたの」

 女はまだ眠そうな声でそう言いながらシャワーを浴びに行った。

 女が電話で予約したレストランは空いていた。予約席は窓際であった。

 女がよく利用する店らしい。ケンは女を見る店員の様子で分かった。店は女のマンションから歩いて二、三分の所にあった。

「じゃあ、改めて乾杯しましょう。あ、それからわたしのこと澄子でいいわよ」

 澄子は努めて陽気に振る舞っていたがベットの中でケンに言った言葉を気にしているのがあきらかに態度に現れていた。

 澄子は青の綿シャツに白のパンツである。薄化粧の澄子は見た目には三十才位に見えた。

 ケンは外の景色を焦点も無くただ見ている。その寡黙な表情は他人から見て何を考えているのか掴みにくかった。

 ケンの黙っている顔を覗き込むようにして澄子は機嫌を取るように言った。

「ごめんね。あんなこと言うつもりなんてなかったんだけど」

 澄子はケンの顔を笑みを浮かべて見つめながら探っていた。

 澄子は事の最中にケンのことを「変わっている」と言ったのである。その時のケンの眼にヒヤリとするものを女は感じた。澄子は今までどんな男に対しても自信があった。だが、澄子の知る限りのテクニックを駆使してもケンには役に立たなかった。


 ケンは不能ではなかったが、過去のどの女もケンを満足せることはまず無かった。だが澄子は男の扱い方においてその逆で満足しない男はなかったのである。それで澄子はついケンに言ったのであった。澄子自身は自分だけが勝手に満足したという一種の後ろめたさがあった。

 ケンは気にしている風ではなかったが、それが又気になるのであった。

「わたしって、ばかだから言い方がへたなの」

 ケンは無言で煙草の煙を澄子に吹き掛けて軽い笑みを作った。無論、わざとである。これ以上女の勝手な心理にまとわりつかれるのが面倒だった。

 澄子は眼の前にいる黒沼剱に対して異常と思えるほどの興味と好奇心を初めて見た時から感じていたのである。


 黒沼剱が澄子の店にふらりと入って来たのは半年程前であった。やはり深夜二時頃であった。奥のカウンターに座りビールを注文した。澄子はカウンターに入っていて他の客を相手にしていたが自分でも驚くほど身体中の力が抜けて、立っているのがやっとの状態になっていた。ケンを見た瞬間に何か得体の知れぬ戦慄が体中を貫き震わせた。それが何であるか、澄子は考えるゆとりすらなかった。自分の状態を客に悟られないように振る舞うので精一杯であった。それまでは澄子にとってどんな男も程度の差こそあれ、所詮男は雄であった。


 裕福な環境に育った澄子は常に刺激を求めていた。澄子が女になったのは十三才の時である。それを期に堰を切ったように奔放に遊んだ。誰でも一度は通過する反抗期と言えばそれまでであるが、その反抗の仕方が澄子は同世代の反抗のように感情に流される様な青臭いものとは違っていた。大人のしたたかさを知った上での反抗であった。社会通念の性別と年齢とを計算しての巧妙な確信犯のごときワルであった。二十才になった時にはそれまでのゲームのような危険な遊びにも飽き始めた。澄子の遊び友達の大半は心身共に堕落し自滅の坂を転がり落ちた。辛うじて生き延びた仲間は水商売かヤクザの情婦、或いは適当な金持ちの息子をたらし込み結婚した。澄子も親の懇願と生活を変化させる為に二十二才の時に経済的には不自由しないごく平凡な男と結婚した。だが、それも一年が限界だった。


 澄子は離婚にも策を弄した。かっての仲間に自分の主人を誘惑するように話を持ち掛けてその段取りを澄子がした。自分の家に友人と称して呼んで、パーティの最中に澄子は気持ちが悪いと自分の部屋で休む。その間に澄子の友人が酔った振りをして夫をその気にさせる、というやり方であった。澄子が選んだ友人は男を陥落させるプロであった。その美貌と男の弱点を知り抜いた技術にかかっては同性愛の男性といえども危険な魔性の女であった。

 澄子の夫は呆気なかった。三十分も経たずに女の手管に落ちた。澄子が二人の居る部屋に戻った時の男の狼狽ぶりは哀れな程だった。全裸のまま男は許しを乞うた。後は澄子の言いなりであった。


 現在のマンションはその時の慰謝料の一部である。

 澄子は離婚後、しばらく海外旅行へ行き、帰国一カ月後、友人の経営している銀座のクラブに週三日程の手伝いを始めた。

 今の「すみれ」という店は澄子が三十才の時に始めた。澄子にしてみれば半ば趣味的な店にすぎない。他にも友人に任せている店が銀座と赤坂に二軒あった。

 澄子にとって自分の存在を根底から覆すような男、それも二十才の、この眼の前にいる男がである。ケンが来た最初の時はろくに会話もしていない。その日はケンが一時間程で店を出た。それから澄子はかなり酩酊したのを覚えている。店の女の娘に自宅まで送ってもらったほどである。


 ケンが二度目に店に来たのは一カ月過ぎた頃であった。澄子が初めて体験する感情であった。身体の芯から熱くなるだけではなく震えて相手を意識するなど「小娘じゃあるまいし」といくら自分に言い聞かせても無駄であった。内部に渦巻く感情に対する怖さもあった。その時もケンの眼をまともに見ることがどうしても出来なかった。澄子はそんな自分に軽い怒りすら感じていた。だが、どうしてもケンの存在が気になる。それを察したかのように、その日はケンはビールを一本飲んだらすぐに帰った。その日も澄子は飲み過ぎた。澄子の様子に店の娘も少し不思議がっていたが、詮索はしなかった。澄子がその手の詮索を嫌うのを知っていたからである。

 澄子は自分が二度しか会っていない男に魅かれているのを認めざるを得なかった。三度目の出会いを待ちわびている自分自身を痛烈に思い知った。澄子は自分がかって味わった事の無い、身を焦がすように沸き上がる切ない感情が日々募るのを感じた。この感情に自問自答は無駄であった――。


 気心の知れた女の友人に冗談交じりで話すと「へえ、澄子が男に惚れるなんてねえ」と、さも面白そうに笑った。さらに笑いながら「ちょっと、あたしにもその男を見せなさいよ」と好奇心に満ちた声で言ったが、澄子がまだ名前も知らない事を言うとその友人は涙を流すほど笑い転げた。

 その友人とは澄子の離婚の時に手を貸した魔性の女、唐木真由である。

「今度、あたしの店に連れてきてよ。あんたを狂わせる男をこの眼でぜひ見てみたいわね」

澄子は真由に話をした事を少し後悔した。それが嫉妬なのか馬鹿にされたせいか、それとも自分のプライドなのかよく分からなかった。ただ、友人に話す事で自分に冷静さを取り戻したかったにすぎない。真由の言った「惚れた」という言葉だけが澄子の脳裏にしっかりと根づいてしまった。


 澄子にとって、いわゆる男と女の恋愛だの惚れるだのは所詮感情の戯れ事にすぎず、時が経てば簡単に移ろう陽炎のようなものだと思っていた。

さらには一目惚れなどとは単に欲求不満同士の出会いの口実であるにすぎない、と。澄子は、そもそも感情という得体の知れないもやもやした実体の無いものなど信用出来なかった。その自分が今実体の無い感情に捕らわれて抜け出せないとは、認めたくなくとも不可解な事実だった。

 ケンの三度目は前より長かった。澄子の店にはもう来ないかと思う程の時が経った。澄子はケンが来た日をしっかり覚えていた。最初は一月十六日、次は二月十三日、そして三月は来ていない。四月になり桜が咲き始めていた。恒例になっていた店のホステスや友人達との花見も、表面は楽しげに振る舞っていたものの内心は感傷的になっていた。生まれて初めて「ものの哀れ」のような感情が澄子を襲い、桜の散りゆく花びらに自分を重ねている自分自身を知って何とも言えぬ気持ちになった。

 澄子は花見の賑やかな光景の中で孤独と狂気との相関模様が鮮やかに眼前に現れたのを見た。この夜も澄子はしたたかに酩酊したが意識のどこかが異様に覚めていた。



 五月になると澄子にも徐々に平静さが戻ってきた。ケンに対する思いも遠い夢のような記憶に変化しつつあった。澄子は時間というものの不思議さを感じた。澄子は店のカウンターの中で時折、ふと思い出しては「追憶」とはよく言ったものね、と独り言のように呟いては自嘲気味の笑みをもらした。


 ケンが三度目に店に現れた時には客も少なくて澄子だけ早めに帰ろうと思っていた。そのつもりで澄子がカウンターでビールを飲んでいる時にケンが入って来た。

 いつもケンが座る奥の場所に澄子がいるのを見たケンは席を二つ離れて座った。澄子は帰るつもりでいたのでつい客の気分になっていた。澄子はケンが自分の事などまるで覚えていないと思った。一瞬に今までの様々な感情が駆け巡ったが、隣に座ったケンの顔をちらりと見ただけで客のように自分のビールを飲んでいた。店の女の娘がケンの注文したビールを出す時に「ママ、休んでいていいわよ」と声をかけてもケンは無表情のままであった。澄子はそこでかろうじてケンに対して声をかける事が出来た。

「ごめんなさいね、あなたの席に座って」

 ケンは澄子のその言葉にかすかな反応を示しただけで、自分で勝手にビールを注いで飲んでいる。澄子は羞恥と怒りの感情が自分の身体を熱くしてグラスを持つ手がかすかに震えているのを知り、強く瞼を閉じた。

 澄子は自分自身にやり場のない憤りを感じていた。もっと強い酒をと思い自分で取りに行こうとしたが身体が金縛りになって動けない。止むなく店のホステスを手招きして呼び、自分のブランデーを持ってきてもらうように頼んだ。

 澄子は意識的に自分の目の前のブランデーに集中した。たっぷりと注いだ一杯目を水を飲むように一気に飲んだ。心臓の鼓動は早鐘のように鳴って自分の鼓膜を振動させていたが気分の方はいくらか楽になった。

 澄子はカウンターに入っていなかったことを後悔した。カウンターに入っていればもっと気を張っていたかもしれない。そしてもっと気軽にケンに話し掛けられたかもしれない、と。埒もない事を澄子はあれこれと考えていた。その時に五十前後のかなり泥酔状態の男性客が入って来た。その客はカウンターの澄子を見るとふらつきながら澄子の隣に座った。ひとりでカウンターに座っている澄子を見て客だと思ったらしい。澄子は酔っ払いの扱いには慣れているはずであった。それを知っているせいか澄子のことを店のホステス達はさほど心配もしなかった。ビールを頼んだ中年の男は澄子にも自分のビールをすすめてきた。澄子が体よく断ると男は逆に澄子のブランデーを飲ませろと絡んできた。隣に座っているケンには最初に威嚇的な態度を示していた。それでも気になるのか時々ケンの方をちらりと見ては澄子の方を向いていた。いつもの澄子と様子が違うとホステスが気づいて、カウンター越しに澄子に眼で合図を送ったが澄子は気にしなくていいとそれに答えた。澄子の心配はケンが寄った男に絡まれる事だった。ケンは無表情のままカウンターに肘をついてビールを飲んでいた。澄子の隣の男は「おねえさん、そんな強いお酒を飲んで何か嫌な事でもあったの、このおじさんが慰めてあげようか」と言って澄子の身体を触ってきた。澄子は無言でその手を払うと男はよろけてケンの身体にぶつかりそうになった。ケンが男の身体を軽くよけると男の手がケンのビール瓶を倒した。ついでに男はバランスを失い床に転んだ。ケンに女の娘が慌てておしぼりを持って来た。澄子もケンに謝った。その様子を酔っ払った男は見ていて自分の事を無視していると逆上したのか怒鳴り始めた。その男は今度はケンに絡んできたのである。床から起き上がると「この若造め」と言ってケンを掴もうとしたがケンはその手を横に払った。男はケンが自分の手を払った事でさらに頭に血が上ったらしく、今度は殴りかかってきた。ケンの動きは素速かった。腹部に打撃を加えると吐く事を知っているケンは、男の後頭部に手刀の一撃を与えた。そして倒れようとする男を無造作に支えてボックスの席に寝かせた。ケンは澄子を見た。澄子はケンに迷惑をかけた事を詫びた。そして席にだらしなく伸びている男を見て少し迷った顔をした。ケンは澄子に「知り合いか?」と聞いた。澄子が初めての客だと言うと、ケンは店の女にタクシーを店の前まで呼ぶように指示した。澄子はケンが何をしようとしているのかその時は理解出来なかった。店の入口でケンに指示された女が車が来たことを告げるとケンは横たわっていた男を肩に軽く担ぐとタクシーに乗せた。そして運転手に適当なところで放り出すように言って伸びている男の財布から一万円札を抜いて渡した。運転手は始めは戸惑っていたがケンが耳元で何かを囁くと運転手はニヤリとして頷き車を発進させた。ケンは運転手に泥酔しているうえに気を失って一時間は眼を覚まさない事、それと財布の中身を含みをもって教えたのである。

 そしてタクシーを呼んだ女にも「ごくろうさん」といって一万円札を渡した。無論ケンの金ではない。ケンにとっては手慣れたことであったが、他人からみたら実に鮮やかな手際のよさであった。この事件のおかげで店の女達とも澄子とも親しくなった。澄子は密かに酔っ払いのおじさんに感謝した。

 それ以来ケンはこの店では歓迎される客になった。客の間でこの事件の事とケンの噂はこの時にいた常連の口から広まった。           


 澄子は自分がケンに対して異常な程の気の使い方をしている事を知りつつも、その内容によってはケンに嫌われるものがあることも直感的に感じていた。澄子が今まで知っている限りの男の知識や体験に基づく認識を全て動員しても掴むことの出来ない未知の何かをケンはもっている。それが何であるかは澄子にも分からない。それが魅力といえば魅力でもあり引力にもなっているのも事実である。だが、理屈抜きに自分の存在を震撼させる程の体験を澄子の身体が経験している。その澄子を狂わせる程のものとは何か? 澄子が知る得る限りの人間のなかには、創作としての書物や映画以外にはそのような魔力的な人間はいなかった。それはあくまで創作上の人物であって現実の人間ではない。作り話の理想的なあこがれの存在でしかない。

 澄子は思った。自分が体験したものと同じ事を他の女もケンに対して体験するのだろうか、あの自分と同じように男を見る唐木真由はどういう感じ方を、反応を示すのであろうか? 意地とプライド、それに不安と好奇心の想念が澄子の内部に妖しいとぐろを巻き始めていた。




                       (3)




 ケンは自分に対して過度の不快な詮索をしない限りは澄子の好きにさせておいた。ケンにとっては、生活自体が方向性をもたぬ意味の無い流動的な現象の連続にすぎなかった。一言で言えばその時の気分で動く。ただし、自分が決めた事は確実に実行する。これに理由があるとすれば自分の気分であった。その気分が何故急に起きるのか、変化するのかについては考えない。ケンにとって物事を考える時は自分の気分が犯され不快になってそれが続きそうな時に、その対象となるものを除去するための時のみである。ケンにとっていわゆる不安とか恐怖と名付けられている人間一般の概念は最も無縁の言葉であり、最も不快な事柄に属した。


                     *


 ケンにとっては昨夜のへまは不快極まり無かった。あのへまがなければ澄子と関係をもったかどうかは分からない。ケンの踏み込まれたくない部分にまでやたらと興味を示す澄子には何の関心も魅力もない。快も不快も消した状態にケンは留まっていたかった。ただ一人でいたらあのへまの事を思い出すであろう。それを忘れさせるような存在であればケンにとっては何でもよかったのである。俗に本能と呼ばれているもの、その環境の中に自分自身をどっぷりと浸す事、これが今のケンにとって最良の方法であった。それ以上でも以下でもない。


 途轍もない無関心、これこそがケンのもつ本性であった。

 このケンのもっている視点から見れば澄子の小賢しい相対的意識など小娘の心理にすぎない。さらに言えば研ぎ澄まされた日本刀とペーパーナイフの差である。ただ、かろうじて澄子の方が実践の場数を踏んでいる、この違いがあるだけである。

 澄子は細心の注意をはり巡らしていた。澄子が捕えた獲物は一度逃したら二度と捕えることは恐らく難しい。澄子は友人達に常々人生とは狩と同じだ、と言っていた。狩る者と狩られるもの、このどちらかしかない、と。澄子は狩る者の方だと自負していた。澄子の友人で同じ立場にいるのは唐木真由だけだった。他の友人は結局誰かに狩られていた。自ら好んで檻に入った者もいる。狩ったつもりが狩られていたという者もいる。その自覚もなく鎖に繋がれている者もいる。澄子は自分が優れた狩人である事に密かな優越感を抱いていた。その自分が獲物の方になるという事自体が死ぬほどの屈辱だと思っていた。しかし、ケンに対しては今のところその立場は微妙である。心理的には立場的にすでに澄子の方が獲物の方である。はたして自分の捕えた獲物が獲物といえるか、この問いはケンと関係をもってから澄子の意識の中心の葛藤へと変わっていた。


 ――澄子は自分がかっての十代の頃の未知なる体験に臨む時のときめきとスリルに似た情熱が漲っているのを感じていた。

澄子はケンを自分の気に入るように調教したいという欲望に燃えていた。その炎の勢いはケンの側にいることによって強まり、それが自分に与えられた使命感だと思えるほどになった。

 この『使命感』という言葉の響きは澄子を酔わせ虜にした。そしてそれを自分自身の運命であるかのように思ったのである。又、この考えは澄子の矛盾をも含めた全てを満たす条件を完全なものにした。この澄子の考えた事を絶対にケンに悟られぬこと。この自分自身の考た事に思いを巡らすだけで澄子は深い満足を味わった。

 澄子自身が最も嫌い、軽蔑していた人種に澄子自身が身を投じた。人間の意識に潜む巧妙な自己欺瞞は他人の為にと自分に言い聞かせるだけではなく、さらに使命感という聖なる衣を纏わせることによって高められ浄化される。それによって他者の伺い知れぬ苦悩や終りのない懊悩に耐えるための舞台が出来上がる。その舞台で演じる役者にとって必然的な技術であると思い込むことでしか成就出来ない神秘的な感情。その感情の中にこそ虚実を超えた宗教や美と呼ばれるものの本質があるという事を思えば想うほど、澄子は殉教者にも似た悲壮感に浸った。

 澄子は多くの人々が宗教や信仰にのめり込む時の心情をよく理解出来ると思った。ただ澄子は一般の宗教者や美の信奉者とは違い、自分自身の為だけの密やかな澄子だけの使命と確信した。通常の人間の悟性に理解出来ない神秘はどこにでもある。後は考える必要もなかった。現実に内的体験した者にとっては合理的な説明の入り込む余地は無かった。 個人の存在を根底から覆すような魂的体験を味わう者がよく陥る罠である。自己完結的な論理性が矛盾を矛盾と感じさせないような図式が容易に組み立てられるところに魅力と魔力がある。自分自身が狩人であり獲物でもあるからだ。後は自分に都合のよい理屈を好きなだけ付け加えればよい。

 精神を完全武装した澄子は、自分の獲物を横取りされてもそれはそれで自分に与えられた試練である、と想い込むにまで至った。こうなると自分の獲物を誰かに自慢したくなる。それもいわゆる手練の狩人に。

 澄子はケンに自分の部屋の合鍵を渡して言った。

「私が居なくても好きに出入りしていいわよ」

 そして澄子はケンにできたらもう一日付き合ってほしいと頼んだ。

 ケンは澄子の眼から企みを読み取ったが知らぬ顔で見過ごして、逆に貸しを与えておいた方が都合がよいと踏んだ。ケン自身どのみち今は成り行きのなかに身を置いている。もし不快であればいつでも離れればよかった。

 澄子の座興がどんなものか、それを見るだけでも暇つぶしにはなるであろう。ケンは澄子が自分に対しての関心の度合いが強くなっているのを感じてはいたが、もし度を過ぎたらどうなるか、自分の態度で察することは分かっていた。

 澄子はすでに唐木真由に連絡をとり、午後九時に銀座にある友人の店で落ち合う手筈になっていた。

 澄子は約束の一時間程前にケンを連れ出して行き付けのブティックに寄った。 すでに電話でケンのサイズや似合うであろうものを用意させておいた。澄子の見立てはケンの好みは別にしても確かなものであった。麻のざっくりとした黄なりのサマーセータと白に近い麻のパンツはケンの精悍な風貌に野生味と清潔感を与えた。澄子は明るめの青紫の麻のワンピースである。靴まではさすがにケンが面倒くさそうな目付きをしたのでやめにした。



 約束の店は銀座五丁目の並木通りにあった。通りに面した派手なビルの三階でエレべーターを降りるとすぐ店員が丁重に挨拶してテーブルに案内した。五十坪程ある店内はロココ風の作りで、誰が見ても高価そうな家具や陶器などの調度品が並べてありいかにも高級な店構えである。西欧の貴族の応接間をそのままレストランにしたような感じであった。この店も澄子が常連であることはすぐ分かった。

 全てが手作りの木彫のある重厚なテーブルと椅子である。テーブルクロスもロココ時代の画家特有の風景の中で遊ぶ裸体のビーナスと子供の天使立ちの金糸、銀糸を織り込んだ細かい絵柄の刺繍である。壁面にもロココ時代の画家の油彩画が豪華な額縁に収まっている。贅沢で趣味的な雰囲気は見ようによっては軽薄な模倣にすぎない。

 唐木真由はまだ来ていない。約束の九時の五分前である。

 澄子はケンにワインとビールのどちらがいいか聞いた。

 ケンはビールを頼んだ。メニューにはケンの知らない名前ばかりが並んでいる。料理も肉類であれば澄子にまかせる、とケンは言った。

 ケンは澄子に誘われなければまず選ばない店である。雰囲気も値段も客の虚栄心を満たすように設定されている。一般的なケンの年齢ではまともに飲み食いしたら一晩で恐らく半月分の給料はなくなるであろう。

 三つの空席には予約席のカードがおいてある。三十人前後の客達は、それぞれ皆自宅の応接間にいるかのごとくゆったりと歓談しながら食事をしている。初老の男と話をしていた三十代の女がにこやかに澄子の側に来た。

「元気そうね、澄子。このところご無沙汰だったわね」

 ロココ調のデザインをシンプルにしたシルク地のドレスを着たその女は澄子に親しそうに声をかけてケンを見た。その眼はあからさまな好奇心に満ちた光が宿っている。

「美津子、あなたも相変わらずそうね。あ、紹介するわね。黒沼剱さん」

「桐島美津子です。どうぞよろしく。澄子とは古い親友ですの。ごめんなさいね、今お名刺を持ってくるからちょっと待っててね」

 澄子は美津子がこの店のオーナーだとケンに囁いた。ケンは店内を見渡して美津子の方をちらと見ると、鼻でふうんと返事をしただけで上品なグラスに入っていたビールを一息で飲み干した。

 美津子はケンに名刺を渡すと澄子の隣に座り店員にワインを持ってくるように指示した。

「ああ、そういえば真由から少し遅れるって、さっき連絡があったのよ」

澄子はすでに真由からケンの情報が美津子に伝わっていて、二人共ケンに対してかなりの好奇心を抱いているのを感じた。澄子はケンが不快にならなければよいがと気になった。だが、ケンはいつもと変わらぬ無表情である。澄子の心配を美津子は察知してケンを見て言った。

「あら、わたしもご一緒してよろしいのかしら」

 ケンは澄子の眼を一瞬見て美津子を見つめた。その眼は現実の対象を見ていない冷徹な眼差しである。美津子の全身にヒヤリとした冷気が流れた。

「この店の、フラゴナールという名前はわたしの好きな画家の名前なの。プーシェも好きなんだけれども、フラゴナールって何となく響きがいいでしょう。ワットーって画家も同じ時代の人なんだけれども、この画家の作品って何か寂しいというか、悲しいというか、そうねえ、こういうお店にはやはり明るい感じがいいかなと思って」

 美津子は自分が勝手に独り言のように話しているのに気が付くと、少し気まずそうな仕草をして澄子に助けを求めるような視線を送った。

ケンは澄子が友人に見せるためにこの店に連れて来たことを美津子に紹介された時に分かっていた。好奇心まるだしの表情はケンにとって変に隠されるよりまだ可愛げがあったものの、その度がすぎたら無視して帰ればよいことである。ケンは美津子にビールを頼んだ。

「あら、気が付かなくてごめんなさい」

 美津子は店員を呼びビール以外に適当なつまみになるものも頼んだ。 澄子は美津子の店に来たことを少し後悔していた。普通の男なら喜ぶであろうこともケンには始めから通用するはずもなかった。真由が澄子にこの店を指定したのは自分の店の近くであるということと美津子に話した手前、美津子にも会わせるには都合がよい。それだけの理由だった。すでに紹介して五分もたたないのにぎこちない雰囲気になっている。この店では美津子は女王様的存在であった。美津子が自分のテーブルに座っただけでも客は光栄なことであった。俗な意味で美津子は教養もあり美貌においても際立っていた。真由と澄子はたとえて言えば密林を好むとすれば、美津子は洗練された貴族的な社交界を好んだ。狩の獲物を観賞したり貢がれることはあっても自ら狩をすることはなかった。この三人の女に共通しているのは自己中心的で貪欲な刺激と好奇心である。暗黙のうちにそれぞれがライバルでもあり親友でもあった。


 この三人のなかでも澄子は最も戦略家であった。過去において、冷静な状況分析とその方法の緻密さにおいては天性の軍師の才能を遺憾なく発揮した。その澄子が男によって乱心させられるなどということは、どう考えても有りえないことであった。冷酷、非情の異名を自他共に自負していた澄子の今回の事件はいやでも真由と美津子の好奇心を刺激した。ましてや年下の男であるということも信じがたいことであった。  

澄子はケンがいつ機嫌を損ねてこの場を去ってしまうのではないか、と内心は動揺していた。

 美津子も澄子の動揺を感じていたがケンの無反応に対してどう振る舞ってよいのか分からなかった。取り敢えず普通に、自然に対応すること、それ以外に方法はない。真由が来るまでにもしケンに帰られたら美津子の立場がない。ケンは出された料理をつまみながらビールを飲んでいる。美津子に対しても微塵の興味も示さない。その態度は癪ではあったが今はそれどころではない。迂闊な言動がケンのどこにふれるか分からない。全く得体の知れない未知の生物を前にした緊張感がある。

「おれが居ると邪魔なようだな」

ふいにケンがつぶやくように言った。

「そんな、邪魔なんて……」

 澄子も美津子もほとんど同時に言った。だが、その後に何て言えばよいのか二人とも言葉につまった。

 ケンは店内を視線だけで意味もなく見渡して澄子を見た。その眼はおれを見せ物にでもするつもりか? とでも詰問しているように澄子には見えた。

澄子と美津子を知っている人物が、ケンを前にした今の光景を見たら信じがたいと思うであろう。老獪ともいえるこの雌狐のような二人がイタズラをして反省をしている子供の如き殊勝な姿をしているのである。


「遅れてごめん。今、ちょっとごたごたがあってね」

 真由は、さも急いで来たように早口で言うと慌ただしい動作で椅子に座った。

 真由はケンを見て、勝手に自己紹介をすると美津子にビールを急いで持って来るように言った。

「美津子も無神経ね。自分の店なのにあたしが入ってくるのも分かんないでお客さんのテーブルにちゃっかりと座っているなんて、そう思いません?」

 ケンの顔を見ながら言うと、澄子を見た。真由は店に入った時に、澄子達のテーブルがぎこちない雰囲気であることを知ってわざと無神経なふりをして近づいたのである。

「澄子、あんたも気が利かないわね。ちゃんと紹介してくれないの?」

真由は金髪に染めた髪を無造作に掻き上げて煙草を取出して火を付けた。金地の薄いシャツに、身体のラインに合わせた朱の革のベストとパンツの真由は一見外国人と見間違えるほどである。顔立ちもハーフの端正な作りで北欧の血が混じっている風貌である。

「彼は黒沼剱さん。この賑やかな女はわたしの古い友人の唐木真由」

 澄子はぎこちない感じで紹介した。

 美津子は自らビールを運んできた。

「こうして三人がそろうのは久しぶりね。それに、黒沼さんともお近付きになれてうれしいわ」

 真由はそう言って勝手に乾杯をした。

 澄子は真由の登場で少しは気が楽にはなったが、ケンがどのように感じているのかと考えると不安になった。真由に対してもケンは微かな反応も見せなかった。澄子は真由がどのように相手をするのか興味はあったが、それよりもケンの機嫌が損なわれるのを恐れた。ケンがどのような動き方をするのか予測できない。澄子の思惑はすでにケンに見破られている。真由の男に対する攻撃のパターンも知っている。恐らくどんな攻撃もケンの前では空振りにおわるだろう。それとも澄子の知らない真由の本性が別にあるのか、あるいは新た技を身につけていればそれを使うであろう。しかし、眼の前での対応を見る限り特に目新しいものはない。


 真由も始めは勢いで話したものの、十分も経たぬうちに手の内を使い果たしていた。真由にとっても久々に手応えのある獲物であった。今までの武器がことごとく役にたたないことは狩人にとってスリリングなことである。澄子がケンにのめり込んだ理由が何となく真由にも理解出来た。特に論理で武装する傾向の強い澄子にとっては、自分の足場が瞬時に壊されたことに対する衝撃が理性を混乱させ、感情が目覚めたのであろう、と。では、自分はどうか、と真由は考えた。真由にとって男は取り換えのきく部品にすぎない。オスという生体の一部にすぎない。不能者といえどもオスである限りは何らかの反応を示す。これは生理学的事実である。この生理学的観点を無視した存在は自然の摂理からはずれた存在であって、すでに動物という概念が当てはまらないものである。単なる『もの』に対して感情云々ということは個人の趣味の問題でしかない。


 真由も様々な想念が自分のなかで蠢いているのを感じているのに気づいた。

「一体どうしたの? 二人とも柄にもなく大人しいわね。これじゃあ黒沼さんが退屈するでしょう。そうでしょう」

 ケンに同意させるように真由は言ったが、ケンは真由の言葉を意に解することもなくビールを飲んでいる。

 澄子は後悔していた。やはり二人に会わせるべきではなかった、と。ケンの様子は二人に会っても何の変化も無く、自分のしたことがあまりにも子供じみた企みだったと澄子は羞恥の念に襲われ始めた。

「おれがいると話がしにくいだろう。おれはこれで失礼する」

 澄子は引止めようとしたが、ケンはそれを手で制するようにして店を出ていった。ケンの姿がケンはそう言うと立ち上がって澄子の顔を見た。澄子はケンに謝るような表情をした。ケンが視界から消えると澄子の全身から力が抜けていった。

 美津子も安堵の大きなため息をついた。真由は何とも言えないしこりのようなものが残った。ケンは三十分もいなかったが、その時間が長いのか短かったのか三人ともよく分からなかった。確かなのはケンにとっては何の興味もなかった事だけは間違いない。

「あんなに若いとは思わなかったわ」

 美津子が軽く言うと、真由がきつい口調で言った。

「ちょっと、おみつ、強がるんじゃないよ。何であんたがこのテーブルに座っていたのよ! おかげで台無しよ。ほぐすならともかく、あたしが来たときのあのギクシャクした態度はなによ。おすみに謝ったらどうなの」

 真由は美津子に言ってからビールを一気に飲み干した。

「いや、いいのよ。どうせ、こうなるんじゃないかと思っていたから」

 澄子がそう言うと、真由も眉間をしかめて言った。

「これも、あたしがおみつに言わなければ、何もこの店にすることもなかったからね。あたしもドジったよ」

 真由自身も、眼の前にいためったにお目にかかれぬ獲物をただ眺めただけで逃げられてしまったという悔しい思いがあった。

 美津子は、自分の前では男は皆自分に好かれようとするものだと思い込んでいた。しかしそれはケンによって簡単に崩された。だがそうは思いたくない。それで、あんな若造には自分の魅力がまだ分からないのだと思い込むことで自分のプライドを何とか取り戻そうとした。それがさっきの発言であった。

 美津子は気まずさと後ろめたさのため、澄子のテーブルを離れて常連客の席に移動した。

「おすみ、今日は二人で飲もうか!」

 真由は、半ば放心状態の澄子に言って立たせると腕を引っ張って店を出た。





                      (4)





 七月にはいっても猛暑は続いた。夜でも三十度の熱帯夜である。


 ケンは十日程前から頭痛と眩暈に襲われていた。前からたまにはあったがすぐ直っていたのでさほど気にはしていなかった。だが、今回は日増しにひどくなっている。眠っていても頭痛で眼が覚めることが多い。それとあの定期的に見ていた夢、炎のなかで自分が焼かれる光景の夢がこのところ毎日のように続いていた。その度に起きてはシャワーを浴びた。頭痛か夢のどちらかで目を覚ますのである。ケンも始めは暑さのせいだと思っていたが、さすがにあまりにも長すぎる。簡単に買える市販の薬は一向に効き目がない。酒で気を紛らわそうとしたが気休めにもならず、さらに悪化させるだけであった。多少のめまいは我慢できても頭痛だけは不快であった。それもふいに襲われる。止むなく病院の嫌いなケンも七日目には検査に行ったが身体的には特に異常はなかった。無論厳密に精密検査をしたわけではない。結局は心因的なものによる自律神経失調症であろうというのが医者の見解であった。特に最近はケンと似た症状の患者が多く、そのほとんどは生活の不規則とストレスに拠るものだとも言われた。病院の薬は頭痛を少しは和らげたものの気分が悪くなるという副作用を伴った。ケンにとってはそのどちらも不快であった。

 ケンはトレーニングジムに行き痛みを忘れるほど自分の肉体を酷使したが、単に吐き気と疲労が残っただけで頭痛はむしろしっかと根をはったようである。


 ケンは自分の何かが、それが精神か肉体か何であるかよく分からないが自分自身に何らかの異変がおこりつつあることを直感的に感じていた。

 頭痛による不眠は食欲を減退させ神経を過敏にさせた。それでもケンは強引に自分の胃袋に餌を与えるように喰った。  肉体に関しては自信があったし常に鍛えてもいた。ケンにとって肉体の衰えは弱肉強食の世界にあっては死を意味する。少なくともこの現実の世界に肉体をもって生存したければ強靱な肉体を保持しなければならぬ。自力で何も勝ち取れなくなるような無様な生き方はケンの望むところではない。仮に自分が自分の望まない存在と化したら死を選ぶ。ケンの考えは単純であった。人間も獸もケンにとっては同次元のものである。むしろ屁理屈や自己正当化の観念を持たぬ獸の方がケンにとっては親近感さえ感じる。ケンは自分が何故人間の形で存在するのか不明であり不快ですらあった。さらに言えば不快と思うことすら不快であった。ケンに言わせればたまたま似たような姿形をしているだけで、仲間だとか同胞だとか、あるいは人類はどうのこうのと言ったあらゆるたわ言には一切興味がなかった。ケンの知る限りでは誰もかれもが自己保存と正当化の為の戯れ言をまことしやかに自己弁護しているようにしか聞こえなかった。


 通常悟性の限界ともいえる透徹した相対的意識自体が、ケンにはすでに天性のものとして感覚的に具わっていた。俗によく言う人間の不条理などという歪んだ被害妄想的観念など存在しない。

 ケンを前にしては、いかなる崇高な思想も宗教も弱肉強食の一現象にすぎない。

 ケンのような存在は、間違いなく人間社会にとっては無価値の害虫的存在であり、その害虫のケンから見ればいわゆる社会そのものが存在していない。あるのは、ただ生き残るための戦いの敵対関係の種々な存在のみである。戦いには武器がいる。又、その武器を使いこなすためには技術がいる。言わば生存の条件自体が全て戦いであり武器でもある。すこぶる単純な原理である。

 この単純な原理が正常に作動している場合には何も問題はない。だが、この原理自体に異常が生じたら事は面倒になる。

 ケンの原理とするものの考え方は唯物論の視点から見れば何も問題はない。いわゆる死は全てを消しさる。対象となる存在とそれを知覚する存在の消滅によって意識自体が無と化せばそこには自己も世界も無い。これは考えることもないほど明白なことである。

 単純な原理とは言い換えれば因果関係が鮮明で明確な合理性を基盤としてしか成立しないと云うことにある。不明なものは不明。分かることは分かる。曖昧は曖昧と。その厳密さの度合いがあるのみで他は全て個人による憶測の空想的主観にすぎない。

 極論すれば、唯物論的人間とは物神思想であり、自然界に生息する生きた機械であるという結論に至る。この不気味な存在ともいえる結果を悟性は容認しても感情は容認しない。この奇妙な内的矛盾が個人のあらゆる悲喜劇を生み出す。又、自他をも含めた内外の戦いの要因ともなる。人類史そのものがそれらの戦いの現象の記録にすぎない。

たとえ時代や環境が変わってもこの原理そのものが変化しない限りは方法や名称が変化してもその内実が変わることはない。

 その意味では、黒沼剱は科学万能の物神信仰が生み出した時代の落とし子の代表的存在ともいえる。


 

 七月末になると気温は四十度を超える日々が増えた。

 ケンはすでに二十歳になっていた。だが相変わらず頭痛と不眠は続いていた。わずか一カ月足らずでケンの人相は一変していた。

 凄まじい形相であった。体重も十キロ近くは落ちている。かっての野性的な精悍な顔立ちは消え、頬はそげ落ち、窪んだ眼窩から異様な殺気と狂気の眼光を放つ顔は誰がみても別人にしか見えないであろう。

 ケンは今までにない、極度の緊張と苦痛との苛酷な戦いを強いられていた。ケンの意志とは裏腹に肉体が抵抗する。何を食べても胃が受け付けず嘔吐する。かろうじて水だけは入る。その水に栄養になるものを混ぜて流し込む。自分の身体なのに自分の言うことをきかない。

 眩暈、嘔吐、頭痛、それに加えて全身にふいにおこる様々な痛み。これらが四六時中休むことなくケンを襲う。すでにケンは心身共に極限状態にあった。 だが、すでに飢えに対する苦しみはない。頭痛やめまい、吐き気にも慣れた。それよりも不眠による苦痛は名状しがたいものがあった。

 五感は異様に研ぎ澄まされ鋭敏になり、あらゆるものに全身が勝手に反応する。特に聴覚には以上に反応する。その音が言葉へと変換されるのである。現実と夢の境界も曖昧である。目覚めたまま夢を見るのである。わずかの気のゆるみは夢とめまいと奈落に落ちていく現象を引き起こす。


 ―― 一挙手一投足だけで強い意志力を必要とする。肉体と脳味噌はぎしぎしと軋み神経は張り詰めて、もう限界だと常に感じる。自分で自分を破壊したくなる衝動が突き上げてくる。虚空の一点に集中する。集中したまま一瞬眠りに落ちる。気がつくとどこまでも凄まじい速さで落下している。目がくらみ意識が無くなりそうになると本能が恐怖のあまり絶叫をあげる。それで目を覚ます。いや、意識が戻るのである。


 ――ケンはいわゆる狂気に至るプロセスを意識的に体験していた。ケン自身がいつ自己意識を喪失するかわからない。かろうじて、ケンの冷徹な相対的意識と獸のごとき生命感覚が自己のバランスを保っていた。常人ならばケンのこの状態にあっては自己を保つのは難しいであろう。


 ケンは一週間前に食料の買いだしに外に出ただけで後は自分の部屋にこもっていた。部屋にこもる前に一度だけ仕事に出掛けたが、すでに人込みに耐えられる状態ではなかった。それでも意地になって手ごろな中年の男を見つけて仕事にかかろうとしたが、いざ始めると自分の凶暴な破壊衝動を押さえ付けることが出来ない。ケンが気が付くと相手は血まみれになって倒れていた。それ以来、表には出ないようにした。ケンは自分で自己を自制することさえ困難になっていた。これは極めて不快なことであるがケン自身認めざるを得なかった。

 俗にいう幻聴、幻覚といわれているものはケンにとって日常の出来事になっていた。だがその原因さえ分かっていれば混乱する程のものではない。それよりも、それに伴う痛みや軋みに耐えていることによって眠ることが出来ない、ということが苦痛であった。過度の緊張の持続は不眠を伴うということは極めて当然のことである。ただ、その渦中にいる時は自分自身がどうなるか分からないということが不安や恐怖を増幅させる。正気と狂気の境界の只中でおのれ自身を持ちこたえることが出来るか、否か――。



 ケンの眼前に、過去に体験したあらゆる映像の光景が異様なリアルさをもって次々と現れた。単なる幻覚ではない。その時の光景に登場する人物の感情はもとより想念、思惑までがありありと観えるのである。それが現実の感覚と共存して現象化する。ケンは今までに味わった事のないほどの戦慄的で言い知れぬ感情を体験していた。


 ――ふいに目の前が暗くなった。それと同時にケンの意識が消失した。

 ケンの意識が無くなった瞬間に、全身が凄まじい光の渦に巻き込まれ轟音と共に光の粒子となって上昇した。正に不意打ちであった。あまりのスピードにケンの意識は薄れ再び失神した。


 ――ケンが気が付くと、自分の意識だけはあるものの全てが闇の空間であった。意識自体で成立している空間である。ただ紛れもなくケン自身の意識は存在する。身体の感覚も感じとれる。だが不思議なことに重力感が無い。空間のなかを彷徨っている感じである。今まで体験したこともない異次元の空間であることは間違いはない。しかし得体の知れぬ未知の空間であることはわかる。この状態ではどう対処していいのか全く見当がつかない。思考だけは働いている。  

 またもやふいに凄い速さで上下左右に意識が移動する。現実ではありえない速度である。その移動は永遠に繰返されるように思った時、ケンの意識は空間に溶けたように消えた。


 ――強烈な寒けと共に意識が目覚めたケンは自分の周りだけがぼんやりと見える空間にいた。さっきは言わば宇宙空間のような感じであったが今度の空間は何か大気が流動しているような感触があった。自分の身体の感触も強い。周りはもやがかかったような光景であるがその先は暗黒の空間であるということがはっきりと見なくとも分かった。

 ざわざわとケンの全身を得体の知れない感情が走っている。ケンはこれが恐怖の感情なのか? と思った。またもやふいに情景が変わった。漆黒の闇がケンを包んだ。身体の感覚も消えた。あるのはただケンの意識のみである。その意識がおぞましい戦慄に襲われた。闇のなかにぼうと発光する空間が現れ、その中心に人影のようなものがゆらめいている。その人影が見るに耐えないような化け物に変化した。


 空間を振動させるような不気味な声が響いた。


「お前は、このおれと会ったからにはもう二度とこのおれから逃れることは出来ない。何故ならこのおれはお前自身なのだ。このおれとの出会いはお前にとって死でもあり生でもある。今のお前には、このおれの言っている事はまだ理解出来ないだろう。お前達にとっての生とは、このおれたちからみれば眠りであり死でもある。お前が、このおれに会う事が出来たのはお前の知らない運命の意図でもある。本来はお前の今の意識ではこのおれと会う事は不可能なのだ。だが遠い未来に会うべき存在であるこのおれにお前はもう出会った。お前達が死の世界と呼んでいるところの空間にお前は生きながら踏み込んだ。おれたちにとっていわゆる死の世界など存在しない。あるのは意識の段階があるだけだ。この意味は今のお前の意識ではまだ理解出来ない。それゆえお前は今後この体験をあらゆる苦痛を通して消化せざるを得ないであろう。お前の実体であるこのおれがこれからはお前の全てを監視する。お前の全ての言動はお前自身で決定するが、その決定如何でお前は苦痛をもって思い知ることになろう。このおれとの出会いをどう対処するかはおまえ次第である。今のお前にとってはこのおれは死の天使でもあるのだ。元の世界に戻った時にはこのおれとの出会いは夢のような記憶となるだろう。だが、この次におれと出会うのはお前が死と呼ぶ世界に入った時だということを覚えておくがよい」



 その声が轟わたるように空間のなかで振動している。だがその声が終わらぬうちにケンの意識はもうろうとなり、遠のいて消えつつあった。無限に広がる闇のなかにケンはいつしか同化していった。






                       (5)





 猛暑は八月に入るとさらに強まった。


 連日異常と形容される事件が報道された。特に親子同士の殺人、衝動的殺人、放火などは一日に数件起きていた。それも全国規模で流行病のように広がっていた。

 唐木真由は澄子と頻繁に会っていた。真由は澄子の失意が只ならぬほど深刻であることを感じていたからである。

澄子は、真由と美津子にケンを紹介した次の日から人が変わったようになった。自分の店にも顔を出さずに自室にこもったまま酒ばかり飲んでいる。

 真由はそんな澄子を表に連れ出しては気分転換をさせようとしていた。それに真由自身も少しの仮借があった。よもや澄子がこんなに落ち込むなどとは微塵にも思っていなかったのである。面白半分の興味と好奇心とでケンに会ったことが結果的に澄子に深い手傷を負わせたことに対しての面子もあった。

 真由の知っている店でもなるべく静かな所を選んで澄子を強引に連れてきたのだが、憔悴した顔付きのまま無言でブランデーを口に運んでいる澄子を見ていると真由も深いため息をついた。真由もあれ以来金髪の髪を栗毛色に染め替えていた。

「あれから一切連絡はないの?」

 真由は思っていても、口にしないでいた分かり切った質問を澄子にした。

 澄子は真由の方をちらりと見たが焦点のない眼差しを宙に向け、無気力な作り笑みをしてグラスを呷った。

「今まで好き勝手にやってきたから、罰なのかもね……」

 澄子が独り言のように呟いた。

「おすみ、何ばかなこと言ってんのよ。あたしたちなんてカワイイものよ」

 真由は即座に否定したものの気休めにもならない根拠の無い言葉であった。二人の付き合いは二十年になる。お互いを知り尽くした関係でもあった。真由の知る限りでは、どんな状況の時でもお互いを慰めあうような気休め的な言葉や湿っぽい同情などとは無縁の二人であった。

 むしろ澄子より真由の方がどちらかといえば情的な要素が強いはずであった。 真由が澄子に最初に出会ったのは十五歳の時である。当時の真由は悪ぶってはいたもののまだ純情さも残っていた。まだ男を見る眼がなかったのである。真由が好きになった男は不良グループの下っ端であった。いきがっているその男が頼もしく見えたのである。だが、その男の兄貴分が真由を見て気に入った。真由の男の目の前で三人の兄貴分に輪姦されたのである。真由の男はそれを条件に格上げさせられると思っていた。

 真由はその時に痛烈な惨めさを味わった。その話を真由の女友達が澄子にした。澄子は真由と会った。澄子はまだ十四歳であったがすでに不良仲間では一目おかれる存在であった。澄子は真由の男とその兄貴分達に対する報復を計画した。澄子は屈強な男を三人用意した。そして真由に真由の男と兄貴分三人を誘い出すように指示した。澄子は真由の誘いに間抜け面してついてきた男達に下着姿で出迎えた。兄貴分の一人がよだれをたらして澄子に抱きついてきた。澄子はその男の急所を膝で思いきり蹴りあげた。それを合図に澄子が手配した男達が後の三人に襲い掛かった。四人を縛り上げると真由と澄子の目の前でその四人の男を澄子の三人の男達は容赦なく犯した。その場面を澄子はビデオカメラと写真を使って記録したのである。事が終わると澄子は涼しい顔で四人の男達の男根を切るように命じた。四人の男達は澄子に哀願したが「バカねえ、あんた達は今日から女になったのよ」と平然と言ったのである。真由もこの一件以来二度と男を信じるということはなくなった。


 澄子とはその事件からの長い付き合いである。 澄子の過去や人物を誰よりも知っている真由は今の澄子の姿は信じがたいことであった。    

 真由の知る限り誰よりも情に流されない人間のはずである澄子がである。

 酩酊した澄子を澄子のベッドに寝かしつけた真由は冷蔵庫からビールを取り出すと、応接間のソファーに深々と座って大きくため息をついた。


 時計は午前三時になろうとしていた。部屋全体もどことなく雑然としている。きちんと片付けるのも面倒なのだろう。陶器やガラス細工をおいてある棚に部屋に似付かわしくない茶封筒が無造作に置かれているのが眼についた。

 その事務用の封筒には木島探偵社と印刷されている。真由も知っている男であった。すでに封は切られていて日付も七月二十日になっている。 調査の対象は黒沼剱であった。剱の生い立ちから現在に至るまでかなり詳しく調べられている。調査の開始が澄子が真由達に紹介した日からつけられている。恐らく澄子はケンが澄子のマンションに来た日に木島に連絡をとり調査を依頼したのであろう。澄子とケンがマンションを出る所の写真も撮られていた。真由はケンの年齢を知って少し驚いた。ケンと会った時はまだ十九歳だったのである。



『黒沼剱は福岡県久留米市で七月七日に生まれる。両親とは小学校一年の八月四日に起きた火事で死別。剱に放火の嫌疑濃厚。親戚に預けられるが自己中心的言動と粗暴のため教護院に十五歳まで入所。教護院にても不審な事件あり三人死亡。剱の関与の可能性多いにあったが表ざたにならず。十五歳で上京、土工等、肉体労働一年。その後水商売系の仕事。どれも長く続かず、十七歳過ぎてからは無職。友人関係皆無に近し。調査依頼から剱の様相変化、一度病院通院。かなり憔悴の感あり。理由不明。七月四日深夜十一時外出、新宿にてケンカ。同十二時二十五分タクシーにて帰宅。以後ほとんど食料買いだし以外、自室に籠り外出せず――』



 真由はケンの住所をメモすると封筒を元のところに戻した。胸の鼓動が高鳴っている。

 夕方の五時といってもかなり暑い。特にビル街は郊外と比べると二、三度は違った。 真由が木島に連絡をすると木島も銀座に用があるということで銀座通りに面した七丁目の喫茶店で待ち合わせをした。

 五時を十五分過ぎた頃に木島は来た。小柄で小太りの木島は背伸びして店内を見渡して真由を見つけると黒いサングラスをはずし胸のポケットにしまい、下卑た笑みを浮かべて真由の向かいの席に座った。

「いやあ、この暑さは異常だね。たまんないよ。おれも四十になるっていうのに相変わらず貧乏暇無しで、今日も金にならん仕事でまいったよ」

 黒い鞄を脇に置くとおしぼりで日焼けした顏の汗を拭きながら言った。  木島は注文したビールをうまそうに飲むとさらに一本追加した。

「ごめん、わざわざ来てもらって」

 真由が言うと木島はおおげさに手をふって笑った。

「真由オネエのいうところなら何処でも出向きますよ。いえね、今回の事もおすみさんから口止めされていたもんで」

 木島は真由に対する優越者の立場と好奇心で眼が輝いている。

「いやあ、おすみさんにも言ったんですがね、あの野郎はとんでもないタマですよ。おれもひと様のことを言えたもんじゃねえけど」

 木島は少しもったいぶったような言い回しで真由を見た。

 真由も澄子も何かの時に木島に金をつかませて人捜しや情報収集の使い走りをさせていた。それが高じていつの間にか探偵の看板を出してしまったのである。自分が危険では無いかぎり、金になると分かれば何でもするハイエナのような男である。その代わり何処からでも手段を問わず多技に渡って収集する手腕はへたな探偵より役に立つ。

「このことは澄子には絶対に秘密よ」

「そりゃあ、おれもこの稼業ですからね。これが真由オネエじゃなけりゃいくら金積まれても喋りませんよ」

 真由はバッグから現金の入った封筒を取り出すと木島に渡した。

「少しだけど、気持ちよ」

 木島は一旦躊躇するふりをしつつも封筒の厚みを手で探ると自分の鞄にしまった。

「いやあ、こんなつもりじゃなかったんですがね。じゃあ、ほんとに気持ちってことで。ところで、あの野郎のことなんですがね、全くこの暑いのに九州の福岡なんかまで行きましてね、いや、いや、まいりましたよ。あの野郎は調べれば調べるほどろくでもない悪党ですよ。あいつは生まれ付きのワルですよ。あいつに比べればこのおれなんてカワイイもんですよ。ほんと」

 木島はもったいぶった話ぶりを中断して又ビールを注文した。

「なんで、おすみさんがあんな若造にイカレたのかおれにはさっぱりわかんねえな」

 木島はタバコをふかしながら独り言のように呟き、頭を傾けて真由を怪訝そうに見つめた。

「まさか、真由オネエもあいつに個人的な興味がわいたってことは、……そりゃあないか」

 勘繰るような木島の眼を真由が睨んだので木島は真顔で座り直して言った。

「いや、そういうことじゃないんですよ。ただ、銀座であいつに会ったことがあるでしょう。男を見る眼は肥えてる真由さんだから、ってね。だからあれなんですよ」

 木島は真由の強い視線にうろたえて自分でも何を言いたいのか混乱していた。

「で、最近の彼の様子はどうなの?」

「いや、おすみさんに最後の資料を渡してからは知りませんよ。おすみさんもあれだけで十分だって言ってましたから」 「悪いけど、おすみに言ったことを覚えているだけでいいから教えてよ」

 木島は、額から吹き出る汗をおしぼりで拭きながら作り笑みをして言った。


「いやあ、それがですね、おれも始めはおすみさんから電話をもらった時はよく訳がわからなくってね。ともかく、すぐに自分の所に来て一緒にいる男を調べてくれっていうんですよ。まあ、おれにしても他に仕事があるから急にと言われてもって言ったんですが、金ははずむって言われましてね。それで自分のやり掛けの仕事を知り合いの同業者に頼み込んでおすみさんの方へ駆け付けたんですよ。確か、あれは六月十八日、そうだ、えらい暑い日だった。写真を撮る時に汗が眼に入って、痛いの何のって、よく覚えていますよ。車のなかからだとちょうど死角になってましてね。それで表で張ってたんですよ。その日の夜ですよ。ほら、銀座の美津子って人の店に行ったでしょう。まさか、真由オネエまで来るなんてびっくりしましたよ。ま、それで奴さんが出てきたのをつけたんですがね。あの時おれも店の入口の近くにいたんですよ。最もうまく変装していましたから分からなかったでしょう。まあ、それはいいんですがね。奴が急に店を出たもんでおれもあせって追い掛けまして、いやあ、もう少しで見失うところでしたよ」

 木島の頭には映画でも見ているように映像が浮かんでいるのだろう。なかば自分が主人公にでもなったつもりで喋っている。このまま聞いていたら何時間かかるか分からない。真由はこの木島の話をこんな調子で延々と聞かされたに違いない。

「あのねえ、あたしはあの報告書は見たのよ。だから大づかみには知ってるの。あの中で両親との死別のことが書かれていたでしょう。あれはどういうことなの?それと教護院の件」

 木島は気勢をそがれてやや不満そうな顔付きをしたが、木島自身も興味のある部分だったのでビールを音を鳴らして飲むと、眼を大きく見開き興奮気味で身を乗り出した。

「それ、それですよ。おれが言いたかったことは。あの野郎は自分の親を火事に見せ掛けて焼き殺したんですよ。それもまだ七歳のガキが。いやあ、おれも自分の耳を疑いましたよ。最も話した連中も証拠は無い、とは言ってはいましたけど、あの眼はそうだって確信していたな、うん。そうとうのしたたかなガキだったってことは間違いない。結局はガキのムショ行きってところですがね。又、そこでも奴は事故に見せ掛けて三人殺ってるんですよ。それだって世間体ってもんがありますからね。一応事故死ってことにしちまったんでしょう。当時、奴さんと一緒に入っていた連中を探しだして、三人でしたが、いやね、その三人とも奴の名を聞いたとたんに青ざめた顏になってびびってましたから、これも間違いないでしょう。分かっているだけでも十五歳までに五人をあの野郎は殺していやがる。もっと調べれば何人殺しているか、考えただけでもゾッとしますよ。へたすると、このおれだって奴を調べているって知られていたらぶっ殺されていたかもしれない」

木島はまくしたてて喋ると、ふいに焦ったようにグラスに残っているビールを呷った。

「それで、上京してからはどうだったの?」

 木島は大きなため息をついて、頭を掻いた。

「いやあ、あの野郎は人付き合いが悪くって、仕事も転々と変えているでしょう。ただ、短かったんですがね、そう、バーテンの見習いをしてた時にあの野郎に惚れていたホステスがいたんですよ。その女を探すのがけっこう苦労しましてね。あの手の仕事は気紛れな連中が、いや、真由オネエ達は別ですよ。今は新宿のクラブにいましてね。これも名ばかりの得体のしれない店で二十三歳とか聞いたけど、名前は何たっけな。まあ、いいや、その女に会えたんですよ。始めは話したくないって感じでしたがね、金をにぎらせたら一発ですよ。何だかんだいっても所詮は何事も金ですからね。その女が面白いことを言っていましたよ。あいつは変態だってね。あの野郎は以外と女達に人気があったらしいんですよ。何人かが野郎を誘惑したらしいんだけれど相手にされなくってね。ああ、思い出したユキっていったな、確か。で、そのユキは始めは特に野郎に興味は無かったんですがね周りの女達がことごとく振られるんで、それから少し気になり始めたら、後はワンパターンの感情ですよ。ユキも自分には自信があったらしく、最もあんなところに来る男は金がある奴がもてるのは当たり前で、ホステスも金の無いやつなど興味の対象外でね。要するにユキは金がある連中に好かれた。ふん、ろくな自信じゃない。その金しか興味がない女どもが何であの野郎に魅かれるのかよくわからないんだけど、まあ、ともかくユキも野郎に惚れてしまった。で、あるとき酔っ払った客が野郎に絡んだらしい。野郎は軽くあしらったらしいが、その客は上客の常連だったらしく店長に文句を言った。それで店長が野郎に注意したら、ついに、野郎の本性が出たんだな。店長と客をぶん殴ったらしい。その日にユキと出来ちまったらしいんだが、ユキが言うには野郎は女にあまり関心がないらしい。なんでも不能じゃないけどおかしい。変わっている。要するに一種の変態だっていうんだな。どうも、あのユキっていう女の意味はよく分からないけど、けっこうむかついた顏をしていたから、よっぽど嫌な思いをしたんだろうな。その後の野郎の生活はよく分かんないですね。あの野郎が自分の部屋にこもり始めてからは、さすがに異常な感じでね、背筋が寒くなる人相で、いやあ、見つかったらそれこそ何をされるか」

 木島はそこで話を止めて、腹をさすっていかにも空腹であるような顏をした。

 真由は木島と食事まで付き合うつもりはさらさらなかった。

「ありがとう。もう十分よ。もし、何かあったら又お願いすることがあるかもしれないけど、そのときはよろしくね」  真由は伝票を取るとレジに向かった。





                        (6)





 真由が澄子に何回電話しても留守電になっている。四谷の店にも連絡はない。最も四谷の店は友人にまかせっきりでほとんど顏は出してはいない。

 携帯電話は持ってはいるが、単に持っているだけで使ってはいない。澄子は携帯電話がなぜか嫌いであった。使うにしても留守電専用であった。

 真由は両方に伝言を入れたが自室にいるという確信があった。

 このところ、妙な胸騒ぎが日に何度か起きる。その原因が真由自身なのか澄子なのか、或いは何か事件がおきようとする前触れなのかは分からない。木島が言ったように黒沼剱が自分の意識しない部分に影響を与えているのかもしれない。それが、澄子を通してか、直接にかは今のところ真由にも判然としない。澄子が心配なのは事実である。だが、剱が気になるのも事実である。何が気になるのか? と考えても結論はでない。だが、剱のことを考えると胸の鼓動が高まるのである。その原因は不明である。別に惚れたわけでもない。真由の矜持が傷つくほどの理由も特にない。たった一度の、それも短い時間しか会ってもいない。


 ――剱のどこに澄子は魅かれたのか、それも理性を失うほどに……。始めはそれに興味があった。だが、その理由は真由なりに何となく直感したつもりであった。掴もうとしても掴むことの出来ないものには確かに魅力はある。ましてや、自分の全ての価値観を覆すようなもの、それが何であれ澄子にとっては魅力になりうる。自分の人生にほとんど退屈していた澄子にとって剱は恐ろしく新鮮な存在であったに違いない。どのみちこのままだと澄子は自滅する。ヤキがまわったなどと言っている場合ではない。もし自滅するにしてもこんな中途半端な状態で自滅するんだったら友人である真由にも悔いが残る。

 剱の住所も分かっている。澄子を又昔の澄子に戻すことが真由にとって出来る唯一の方法であった。真由にしてもそれがどのような結果になろうともただ見ているよりはいいと。仮にそれで破滅するならそれまでで、望むところよ、と。真由は覚悟すると、澄子のマンションに向かった。

 澄子はソファーに部屋着のままだらしなく横たわっていた。カーテンは閉め切っている。アルコールと煙草の匂いが部屋中に籠っている。真由は窓を開けて換気をした。むっとする湿気のある夜気の熱風が部屋に入り込んだ。 澄子は真由を気にする風でもなく焦点のない眼で起きてブランデーを飲んでいる。

「ちょっと、おすみ!しっかりしなさいよ。まったく、ガキじゃないんだから」

 真由は強い口調で澄子に言った。

 澄子は自嘲気味な笑みを作ってブランデーを一気に飲んだ。

「まあ、まゆちゃんそんな怖い顔して一体どうしたの?何か嫌なことでもあったの。わたしでよかったら、お話を聞いたげるわよ」

 真由は部屋の空気を入れ換えると澄子の真向いに座った。すでにかなり自暴自棄になっている澄子にまともな会話は通用しない。正面から切り込んでいくしかない。

「おすみ、今日ね、木島に会ったわよ」

「ふうん、そう、それで?」

 澄子はソファに横になったまま真由を見ないで言った。

「おすみ、あんた、そんなにひねないでもっと正直になったらどうなの」

「あら、これでもわたしね、自分でも不思議なくらい素直になっているのよ。まゆちゃん、そんなことも分からないの?」

 澄子は真由をじっと見つめたまま言った。

「あたしから見れば、うじうじしているようにしか見えないわね」

「あら、そう、でもね、このうじうじって以外に楽しいのよ。他人から見ればどうかしらないけど。そういえば、わたしも前はあんたのように感じたこともあったかもしれないわね。そうねえ、もう昔のことよねえ。わたし達はもうおばさんなのよ。分かってるの、おまゆさん、あんたもね鏡をよく見たらよく分かるわよ」

 真由は澄子の挑発に乗るまいと思っていたが、話をしているとなんだかそれも馬鹿らしくなってきた。それと無駄な前置きも無用である。

「おすみ、あんた自分から会いに行こうとは思わないんだ。何をそんなに怖がっているの。おばさん? ばかいうんじゃないよ。あんた、あたしのこと、おおきなお世話だと思っているんでしょう。何とでも思いなさいよ。たかが男一人に何てざまよ。でも、今日のところは何をいっても無駄みたいね。あたしは、これで帰るからあとはあんたの好きにしてなさい」

 真由はこれ以上澄子に言っても話がこじれるだけだと思った。それに肝心なことは伝えた。あとは澄子が考えて判断すればよい。

 真由は自分より強く、尊敬すらしていた澄子がこうも簡単に自堕落な存在に変化し、その状況に呪縛されること自体が、甘んじていることが、どうしても信じがたいことであった。だが、今の澄子はどこにでもいる無数のただの女のひとりにすぎない。


 いかなる状況でも常に身を挺して戦ってきたあの澄子は何処へ行ったのか? 真由の眼から涙があふれ落ちた。怒りとも悲しみとも言い難い感情が込み上がってくる。真由は深く呼吸をして夜空を睨んだ。生ぬるい風が真由の全身を舐めるように吹いている。



 ケンは自分の陥った状況に慣れ初めていた。苦痛や不眠は相変わらずではあったが、それが日常であれば強い意志力さえ保持すれば徐々に慣れるということをケンは本能的に知っていた。それでも時折、自己制御出来ないほどの破壊衝動がふいに全身に漲る時がある。その時は倒れるほど自分の肉体を酷使することで燃焼させる。現実と非現実との境界にケン自身がいることの自覚は、常に自分の肉体に痛みを意識的に加えることで確めた。苦痛に耐えるにはさらなる苦痛を自らに加えること。これがケンのやり方であった。身体は細身になったものの贅肉のないしなやかで鋭利な刃物へと変容した。だが、感覚が鋭敏になったことで疲労の落差が激しく、まだ制御しにくかった。食物も匂いや刺激の強いものはまだ身体が拒否反応をする。足りない栄養は流動食で補給した。ケンにとってやっかいだったのは自分の頭の周りに想念や観念が常に渦巻いていることであった。いわゆる幻聴、幻覚と呼ばれているものは依然として続いてはいたが、それも慣れればたいして苦痛ではなかった。それにの妙にリアルな夢を見てから得体のしれない不思議な解放感を体験するようになった。自分自身が自然と一体化したような感覚になるのである。自分が炎に焼かれる夢も見なくなった。



 ケンは自分自身が何か変わったのは感じていたがそれがどういうことかまではよく分からなかった。

 午後二時、真由は千駄ケ谷駅の近くの喫茶店で気持ちを落着かせていた。ケンの住んでいるマンションは駅から歩いて五分位である。すでに一度下見に来た。その時はドアーの前で表札を確めただけで帰った。澄子の所へ行った帰りの時に寄り道したのであった。二日前である。ジーンズのパンツに白のノースリーブの綿シャツである。緊張の為か心臓の鼓動が速い。

 もしケンが居なかったら、いや、その方がいい。もし、居ても無視されたら?居ても何て言えば……。

 真由の頭のなかで勝手に想念が動いているのを知って強く首を振った。

 真由の美貌は喫茶店の男達の視線の的になっていたが、真由はすでに周りの光景は視野に無かった。

 澄子が言った「おばさん」という言葉が真由の脳裏でこだましている。 十代の頃の感情と「おばさん」という言葉がこんがらがって妙な気分である。軽いめまいすらあった。氷の入った水を一気に飲み干し、小さな氷を口に含んで噛むと何も考えないようにして店を出た。



 新宿御苑が近いせいか蝉の合唱が耳に響く。大きなカラスが歩道に何羽もいる。近づいても逃げようともしない。真由はなるべく視界に入る風景に意識を集中しながら歩いた。四階建てのマンションの三階にケンの部屋はあった。角部屋の三〇五号である。真由は深呼吸してチャイムを鳴らした。返事がない。少したってもう一度鳴らした。心臓が早鐘のようになっている。

 ――ふいに内側からドアーが開いた。上半身裸のケンが立っていた。前の顔付きとは違って見える。一度本人に会っていても最近の写真を見ていなければ人込みの中ですれ違ったら分からないであろう。

 それにしてもケンの眼光は魂の奥まで居抜くような鋭い強さである。真由は全身に電気に打たれたような戦慄が走り眩暈がした。膝の震えを必死でこらえた。

「お久しぶり」

 真由は平静さを辛うじて保ってケンに挨拶をした。ケンは真由を真っ直ぐに見据えた。真由はめまいで自分の身体がよろけた。それをケンが支えて怪訝そうな顏をして真由を見た。真由は羞恥で自分の顏が赤くなるのが分かった。

「まあ、とりあえず、あがんなよ」

 真由はサンダルを脱ぎ、ふらつきながら部屋に入った。

「散らかっているけど、そこのソファーでも座ったら。床に座るとその服が汚れるよ」

ケンは黒のランニングシャツを着ながら真由に言った。

「ビールでいいかな。それとも、といってもあとはジュースは切らしちまって」

「ありがとう。ビールがいいわ」

 八畳ほどの広さのなかにソファーとベッドとダンベル、小さい木のテーブル。あまり生活感のない部屋である。

 ケンは床にあぐらをかいて座ると用意したコップにビールを注いだ。

「あんた、どうしてここが分かった」

 ケンは真由の顏を見ないで聞いた。

「わたし、唐木真由。六月の半ば頃かしら、ほら銀座のレストランで、あと二人の女性と。あなたはすぐ帰ったけど」

ケンはビールを飲みながら真由を見た。ケンは勝手に頷きながらスポーツ飲料を持ってきた。

「あとは勝手にやってよ。おれは今アルコールが駄目でね。ああ、思い出したよ。確か、あんた、まゆさんたっけ、あのときは髪の毛が金髪じゃなかった?」

「そうよ、あれから染め替えたの。うれしいわ、覚えていてくれて」

 ケンは銀座のときは無口だったのに以外と気さくに喋るのを知って真由はこれは現実か? と思った。それと十五歳も年下であるというのに自分が変に敬語めいた話方をしているのもおかしかった。真由はケンのさっきの質問に答えていないのを思い出した。正直に言うわけにもいかないが、答えないのもおかしい。まさか、澄子があんたに惚れて探偵を使って調べた。それを見知ってあたしが代わりになんて言うのも変よね。と真由は思った。

「そういえば、あのママさんはどうしてる?」

 ケンは思い出したように言った。

「そうねえ、あまり元気とはいえないわね」

 ケンは窓の外を眩しそうに見て言った。

「このおれのねぐらを知っている奴はほとんどいない。最もあのママさんが雇った探偵のおっさんは別だが。あんたもそれで分かったんだろう。あのおっさんは口が軽そうだからな。ドジだし、ちょいと痛めつけたら全部訳を話したよ。あんなおっさんにつけられて、おれもヤキがまわってきたな。ええ、まゆさんよ。そうは思わないか?」

ケンの眼光にゾクリとするものがある。真由の身体が軽い金縛りにかかった。真由はなんとも答えようがなかった。ビールを飲む手がかすかに震えている。

「ところで、あんた達はなんでおれのようなガキに興味があるんだ。あんなおっさんまで使って」

 真由はケンに完全に飲まれていた。年ではないその存在的な得体のしれない何かである。それを言葉で言い表すのは難しかった。ケンの全身からとその言葉から魂の根底を揺さぶるような何かが流れこんでくる。澄子はこの得体のしれぬ何かをたっぷりと染み込むまで味わったのだ。魂を痺れさせるこの麻薬のようなものを。

「しかし、あんたも物好きだな。おれのことはあのおっさんから聞いてるだろう。おれはてっきりあのママさんが来るとばかり思っていた。最もおれは、あのねちねちしたタイプは興味はない。たまたま、成り行きでああなっただけでね。おれは縛られるのはまっぴらだ。あんたがこのおれのところに来たと分かったら、へたすりゃ、あの女はあんたを殺しかねないぜ。それを承知で来たのなら別に何も問題はない。しかし、あんたらは、年喰ってるわりに人間って奴のことをあんまり分かってないな。このおれの言っていることも別にまともに聞く必要もない。久しぶりに、いや、初めてこのおれの部屋にあんたみたいな女が来たんでおしゃべりになってしまった。ところであんた、これからどうするつもりだ?」

真由はケンにどうすると聞かれても、とっさに何と答えてよいものか言葉が浮かばなかった。

「そうねえ、どうしようかしら?」

 自分でもつい出てしまった間抜けな言葉に苦笑してしまった。

ケンは自分の部屋に来た目の前の女がこのところ軋んでいたケンの苦痛を中和させる能力を持っているのを感じていた。心地よい甘い香のような匂いを放っている。いわゆる女独特の匂いでもない。それでケンはつい多弁になっていたのだ。ケンはごろりと床に寝そべった。けだるい疲労がケンにあった。真由のせいで緊張が緩んだのかもしれない。全身がやわらかい空気に包まれているような心地よいだるさである。ケンにとってこの安らぎの感触は久し振りであった。その無重力のような感覚のなかでケンは眠りに落ちた。

 真由はケンが自分の目の前で無防備に眠ってしまったのを見て、この状況をどう判断していいものか考えてしまった。はたして、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、それとも安心すべきものなのか、又は失望すべき状態なのか? と。この場面を澄子が見たらどう思うであろう。ケンが言ったように激しい嫉妬をするのか、悲しむのか。真由の脳裏に澄子の苦悩する顏が鮮明に浮かんだ。ケンは澄子をねちねちした女だと言った。真由はケンとは対極の評価を澄子に対してもっている。同性の見方の違いであろうか。それとも自分の見ていないものをケンは見抜いているのか。ケンは簡単に真由と澄子を人間を見る目が無いと言い切った。その根拠は、断言はどこから来るのか。真由はケンの寝顔を見ながら様々な想念が駆け巡っていた。真由は自分で自分に問い掛けていた。あたしは何をしに、何を確めるために、何故ここに来たんだろう? と……。


 ――真由はドアーの閉まる音で目を覚ました。いつの間にか眠っていたのである。時計を見た。午後五時を少し過ぎていた。 「あんた、よく寝ていたな。おれもいつの間にか眠ってしまったが、起きると、あんたも気持ちよさそうに寝ていたもんだから食物の買いだしに行ってきた。外は相変わらず暑いな。アイスクリームを買ってきたが、食うか?」 ケンは冷蔵庫に買ってきたものをしまいながら言った。

「ごめん、あたし、自分でいつ眠ったか気がつかなかったわ」

「疲れてるんだろ。もう、帰ってゆっくり休めよ。おれもあんたのおかげで大分元気になったようだ。ありがとよ。こんなことは珍しいんだけどな。おれはあんたが気に入ったよ。ただ、このおれにあまり近づくとヤバイってことは言っておく。それから今日おれの所に来たことはあの女には言わないほうがいいな」

 真由はケンの言ったことに頷くと自分の住所を書いて渡して言った。

「もし、何かあったら連絡して」

外は確かに暑かったが歩いていて真由はまだ自分が夢のなかなのか現実であるのか定かではない不思議な感覚に捕われていた。だが、間違いなく心臓の鼓動が強く、確かなリズムで全身の隅々まで音をたてて響いている。まるで体中が心臓のようであった。真由自身が予想もしない思いがけない展開であった。





                      (7)





 ケンは久々に身体中に血がたぎり、思いきり全身を危険な状態のなかにさらしたくなっていた。頭は冴え冴えとして身体は軽く異様な集中力を感じる。 ケンは黒のパンツにベルトを通した。ベルトの余分の穴二つ分を切った。 拳を守るためのしなやかな黒い革の手袋をはめてみた。指の第二関節までの手袋である。二三度強く握って軽く宙に打ち込む。空気を切る音が身を引き締める。手袋の革の匂いを嗅ぐ。懐かしい匂いである。 ケンは黒いジャケットを着るとサングラスをはめて部屋を出た。通りに出るとタクシーを拾った。



 九時の新宿の夜は雑多な人種でごったがえっている。ケンの眼には誰もが獲物に見えた。体中を凶暴な血がたぎり騒いでいる。

歩いていてすれ違う男たちに片っ端から拳を、蹴りを入れている自分のイメージが鮮明に浮かぶ。二人だとどう動くか、三人だと、と次々に攻撃するパターンが脳裏に映像化される。鼻がひしゃげ、眼球を潰し、喉をえぐり――。ケンは気を鎮めるためカフェバーに入った。

まだ時間が早いせいか若いカップルが多い。サングラスを内ポケットにしまって、ビールを頼んだ。鋭いケンの眼光は以前より凄みを増していた。雰囲気も異様な静けさを漂わせていた。

 ネオンのどぎつい色彩がケンの闘争本能を刺激し挑発する。ケンは飲み屋の立ち並ぶ裏路地を歩いていた。前から歩いて来る者をケンは除けなかった。誰でもいい、ぶつかってくる者は全て今のケンにとっては獲物である。

 何人かと軽く肩がふれ、一瞬立ち止まるがケンの物腰を察ちして通りすぎる。 二〇代半ば位の二人連れの男がケンを除けようとしないで強く肩をぶつけた。 見たところ体格はいいがサラリーマン風である。その一人は腕に自信があるのかケンに凄みをきかせてきた。

「こら、このガキ!ひとにぶつかってあいさつもねえのか」

ケンは二人を無言で見た。ケンはすでに手袋をしている。ゆったりとしたパンツのポケットに両手を入れているので分からないのである。ケンの脳裏にすでに攻撃のパターンが描かれて終わっていた。相手は素人である。どんなに粋がってもしれていた。ケンはゆっくりと両手を出した。静かに無言で二人の前に立っている。相手の男はケンが黙っているので頭にのってさらに脅すように言った。

「てめえ、口が聞けねえのか!それとも、怖くてしょんべんでももらしたか」

側のもう一人もその男につられて下品な笑い声をだした。 すでにケンはいつでも動ける体勢はできている。相手が仕掛けやすいようにケンは少し俯いた。相手の男はそのケンの動作で「このやろう」と言って殴りかかってきた。

 相手の拳はケンの左手で泳がされケンの右の拳が相手のみぞおちに強烈に食い込んだ。男は声にならぬ呻き声をあげてその場に蹲った。もう一人の男はうろたえて自分の動きをどうとっていいものかと考えていたが、結論を出す前にケンの凄まじい前蹴りを腹部に食らい、眼を向いたまま側頭部に一撃をうけてがくんと膝をついて地面にお辞儀をするように倒れた。

何人かやじ馬がいたがケンは何事も無かったようにその場を離れた。

ケンはもっと強い相手が欲しかった。自分のあらゆる能力を極限まで駆使したいという衝動が止めどなく突き上げてくる。その衝動がケンを酩酊させている。酩酊と異様な集中力がこれほど高まったことは、かってないことである。ケンの身体から放つ殺気は青白い霊気となりゆらめいていた。


 ケンの視界には周囲の光景が今までと違って見えていた。時間が静止したように感じられ、木々も人も大気のなかで不思議な光彩と無数の線を発光してはゆらめき漂っている。痺れるような名状し難い感覚と感情がケンを支配していた。ふいにケンの脳天にまばゆい光が稲妻のように走った。

 ケンの全身が光の粒子となって渦巻いた。不意打ちの出来事にケンは意識を失った。


 ――気が付くと公園らしき場所のベンチに横たわっていた。どのようにして公園のベンチに来たのか記憶が無い。身体が燃えるように熱い。自分の身体から湯気のような白いもやのようなものが立ちこめている。奇妙な感覚と軽いめまいがある。ケンは気を集中して座り直した。時計を見ると十一時になっている。一時間ほど記憶がない。ケンは深く呼吸をして全身に意識を巡らせた。瞼を閉じると様々な色彩が発光してまぶしい。

 ケンは頭を強く振ると自分の拳で自分の頭を打った。以前として感覚も頭も冴え冴えとはしているものの、自分でコントロール出来ないというのは不快である。ケンは拳を強く握るとベンチに力を込めて打ち込んだ。

ケンはその時初めて自分の周囲にいたカップル達の視線を一斉に受けた。

その連中の生臭い匂いとぬめぬめした感触の流れを受けて不快感を感じてベンチを立った。まだ完全に現実の感覚に戻ってはいない。歩くとまだくらっとする。

 ケンはなるべく考えないようにした。公園の出口まで来た時にきな臭い匂いと切られるような痛みがケンの身体に走った。強い殺気である。二人の男が公園に入って来ようとしていた。ケンはまだ自分自身をコントロール出来る状態ではない。二人の男とは五メートル位の距離しかない。 真っ直ぐに歩けば当然ぶつかる。二人の男の放つ硬質の殺気は間違いなく玄人である。ケンは歩みをゆるめた。二人はケンをすでに意識している。距離が近づくにしたがい刺すような殺気が強まる。


 二人の男は普通に歩いてくる。二メートルに近づいた。ケンは相手の殺気を全身に浴びた。一メートル。ケンは気配を消し全身の力を抜いて立ち止まった。相手もケンを見た時からいつでも戦闘可能の意識をはっている。歩き方に隙がない。ケンが立ち止まると二人も止まった。ケンは右足を二十センチほど引いてやや内側に向けている。攻撃がどこからきても動けるようにである。問題は二人のどっちの方から仕掛けてくるか、である。一瞬の隙が命取りになる。又、どんな武器を持っているかも分からない。先に仕掛けた一人の後にすぐケンの動きの隙を見つけて的確な攻撃を二人めが加えるであろう。今のケンは万全ではない。一時間前であったら望むところであったが、しかし、後には引けない。ケンは立ち止まることで集中を高めていた。相手はケンが立ち止まったことで簡単に攻撃が出来なくなった。相手と触れた時には勝負が瞬時に決まるのだが、気配を消したケンに対して二人の男は慎重になったのであった。一秒、二秒、三秒、ケンは半歩後ろに引いた。一人の方が踏み込んで鋭い前蹴りを放った。と同時にもう一人が素早く横に動きケンの足の膝の部分に足刀を入れた。二人の動きには見事に無駄が無い。ケンは後の男の足に加えた攻撃を踏み込んで受けた。鈍い痛みが膝に走ったが、最初の男がすでにケンの懐に頭を下げ体重を乗せて腹部に膝蹴りを打ち込んでいた。ケンはその膝蹴りを逆らわずに吸収するように受けながら、男の耳の後ろにえぐり込む突きを打ち込むと、そのまま男と共に倒れて男の顔面を地面に叩きつけた。もう一人の男は倒れたケンの腹部に蹴りを入れてきた。ケンは倒れたまま、その男の軸足を足で払った。相手がバランスを崩してよろけた。ケンはそのよろけた男の足をすかさずもう一度払った。男が倒れた時に、ケンは転がって近づくと顔面に思いきり蹴りを加えて立った。転がってケンの攻撃をさけようとする男の脇腹に蹴りの一撃を入れると男は蹲った。ケンはその男に喰らった膝に体重をかけた蹴りを入れた。鈍い音が響いた。だが、呻きながら足を引きずりケンの方を男は血だらけの顏を向けた。手には短刀が握られている。ケンはその男の顔面に容赦ない蹴りを入れた。男は歪んだ顏で赤い白目を向き短刀を握り締めたまま痙攣をしている。


すでにやじ馬が集まりはじめていた。ケンは公園の闇の方に向かって走った。全身が焼けるように熱い。ケンの眼に映じる周りの風景はどこもかしこも燃え盛る炎の光景であった。ケンはこんな幻覚など信じるなと自分自身に言い聞かせて走っていた。炎の光景はケンがよく見ていた炎に焼かれる夢に似ていた。――現実の風景と幻覚の光景が重なったなかをケンは疾走していた。



 真由は澄子に後ろめたい気がして、澄子が心配ではあったが会いにいけなかった。ケンと会った夜は一睡も出来なかった。様々な想念とケンの顏が重なってうずをまいて現れる。そのなかに澄子の悲しげな顏がふいに現れる。 真由もやがて澄子のようになるのであろうかという不安がよぎる。その不安を打ち消すと何か空しい感情がわく。また不安がでる。また消す。その繰り返しが続いている。つい酒に手が伸びる。酒を飲んでもその感情は消えない。それを消そうとして又、つい飲む。これも繰り返しである。

 この悪循環の感情はどこから生じるのか、と考えたところで無駄である。ますますアリ地獄のような状況のなかに落ちていく。ケンには真由が感じているような感情は無いのだろうか? 恐らく澄子も真由と同じことを思ったのであろう。  同じ所を何度も何度もぐるぐると回って、回り続けておかしくなって、それでも回ることしか出来なくて、そうしてどんどんと糸をほぐすつもりがこんがらがり、もつれにもつれて訳が分からなくなって……。


――真由はふいに不吉な予感に襲われた。背筋に得体の知れぬざわめきが生き物のように走っている。

 真由は澄子に電話を入れた。留守電にもなっていない。もう一度かけた。出ない。携帯電話は電源が切られている。真由の胸の鼓動が激しく鳴っている。

 真由は寝不足のせいだ、と思おうとした。いや、そう思いたかっただけであった。真由は寒けと眩暈がするほどの動悸に尋常ではないものを感じた。

 真由は時計を見た。午後十一時二十分である。この時間なら青山からだと澄子のところまで道が混んでいても三十分もあれば着く。もし、何でもなければそれでいい。真由は自分の心配が危惧であることを祈った。

 真由が澄子のマンションに着いたのは十二時近かった。途中でバイクの事故があったらしく、それで思ったより手間取った。その事故も真由の不安をいやでも高めた。パトカーのサイレンの明滅しながら回る赤いランプが不吉な信号のように思われて真由は強く瞼を閉じたのである。


 澄子はやはり居なかった。部屋のなかに入ると動悸はさらに強まった。鏡という鏡はすべて割られていた。足の踏み場もないほど部屋の床に破壊されたものの欠片が散らばっている。鏡の破片は部屋をばらばらに写し、照明の光を乱反射していた。

 真由の不安は考えたくない方であった。真由の脳裏に狂気の顏をした澄子の姿とケンの顏が重なって浮かんだ。真由の身体が震えている。


 ――ケンはベッドに蹲り激しい頭痛と幻覚に襲われていた。全身から汗が吹きだしている。心臓の鼓動に合わせて全身が脈打ち頭はぎしぎしと何かに締めつけられている。内蔵は焼かれているように熱い。すでに何度も水のシャワーを浴びている。昨夜はどうやって自分の部屋まで帰りついたのか記憶が断片的である。何とかタクシーを拾った記憶はある。どこをどう走ったかはよく覚えていない。気がつくと自分のベッドにいた。体中に痛みがあった。それよりも眩むような頭痛と炎のなかに現れるおぞましく化け物じみたあらゆる顏の群れ、燃えるような熱さがケンを休ませなかった。

 ケンの五臓六腑は引き裂かれ、細胞という細胞はちりちりと焼かれては激しい頭痛でのたうつ。夢と現実の境界は完全に消失していた。ケンはこの状態で自分自身を失うことの不快極まり無いことを思ったが、自分がこの状態にどこまで耐えられるかの自信はなかった。ケンを支えているのは怒りであった。どこまでも自意識を保つという、そのケンの矜持が危うい。 自分の頭を壁に打ちつけ、拳を打ち付けても何の効果もない。ただ自分の身体を痛めるだけであった。すでにケンの耐えうる極限を超えていた。



 ――ケンは脳天から突き抜けるような激痛で眼を覚ました。いつの間にか意識を失っていたらしい。 目の前に女がいる。ケンはまだ夢を見ているのかと思った。やつれて異様な形相の女である。真っ赤なワンピースをきている。ケンの意識はまだもうろうとしている。

「苦しそうね」

 女が静かな口調で言った。口元に笑みをたたえている。ケンはこれは現実だと思った。女は汗をかいているケンの身体をタオルでやさしく拭いている。

「誰だ、あんた?」

 女は無言でケンの身体を拭き続けている。ケンはその女の手を払った。

「勝手なマネをするな!どうやってここに入った」

 女は不思議なほど静かでやさしい声で言った。

「鍵は開いていたのよ。あなたがあまりに苦しそうにしていたから、しばらく側に座っていたの。だって、あなた、わたしが居るのも気がつかないで苦しんでいたのよ。二時間もよ。側にいるわたしもそれは苦しかったの」

  ケンは目の前の女がやっと澄子だと分かった。化粧も濃く、赤の服とそれにもまして目付きは常人の眼ではない。 「あんたか…」

 澄子は嬉しそうに頷いた。ケンは部屋の鍵をどうやらかけ忘れていたらしい。澄子はタオルを洗って持ってきた。 「あなた、お水飲む?だって、すごい汗をかいていたもの」 「自分で勝手にやるから、もう帰ってくれ」  ケンは怒鳴るように言ったが、澄子は表情も変えずに言った。

「そうよね、わたしってばかだから、でもお水だけ持ってくるわね」

 ケンは締めつけられるような激しい頭痛と嘔吐に襲われた。 澄子が水を持ってきた。片手でケンの頭を優しくなでた。ケンはその手を強く払った。

「わたしがあなたを楽にしてあげるわ」

 澄子はケンに持ってきた水で全身を濡らした。ケンは苦痛のなかで鼻につく匂いを感じた。一瞬にして部屋中が炎に包まれた。ケンの腹部に激痛が走った。 澄子は包丁を深々とケンに突き刺していた。澄子も炎に包まれている。ケンも澄子が濡らしたものがガソリンであることを悟った。炎と血しぶきのなかで澄子は嬉しそうに笑みを浮かべている。炎のなかでケンは自分の夢の光景と現実が重なっていくのを灼熱の酩酊状態で感じた。もう苦痛も熱さも消えていた。   炎はめらめらと二人を包んで燃え上がった。


 真由が来たときにはケンのマンションには近付けなかった。すでに消防車とやじ馬で溢れていた。夜空を染める炎と火の粉が闇に舞っている。 闇に咲いている彼岸花のように見えた。



 真由はその炎の中心で燃えている澄子とケンの姿が鮮明に見えた。 眼から涙が溢れて止まらなかった。真由も全身が熱く震え、動悸も激しい。しかし、あの炎のなかの二人は真由とは違う世界にいる。

 ――真由に突き上げてくる感情は、悲しみなのか嫉妬なのか真由自身よく分からなかった。                                




                                    了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

闇の彼岸花 梅崎幸吉 @koukichi-umezaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ