5話 陰の部屋

 涼平に逃げ出す準備はできていた。

 初めて会った頃の環は口数が少なく、表情の変化も乏しかった。そのうえ口の端からのびる傷痕が、アンタッチャブルな雰囲気をかもしだして取っ付きづらい。事務的な最小限の会話しかできなかった。

 当時は二人の兄弟子がいて、環は下働きのような身分。工房と住居での雑役をこなし、いつ見ても走り回っていた。女性にしては身長があるものの、若いこともあって線が細い。体力的なことで根を上げてしまうのではと気がかりだったが、逃げ出したのは兄弟子二人のほうだった。

 清史が言うには<三輪鍛冶屋>の通過儀礼ともいわれている怪現象に、兄弟子たちが耐えられなかったのだろうとのこと。

 涼平自身にはそういったオカルト的センスがまったくないので実体験はない。ただホラー映画を観た当日は、洗髪で目を閉じることができなくなるタイプだ。徐々に環とかわす言葉数が増えてきた頃、ストレートに訊いた。

「都祁さんは怖くないんですか?」

「慣れたら日常の一部です」

 淡々と答えた環に感心した。動じないところが頼もしかった。仕事で困難にぶつかっても、きっと冷静に解決策を見つけることができる。実際、そうするところを見てきた。

 超常現象も厳しい修行も乗り越えてきた環なら、生身の人間相手に怯むことはない。

「涼平、サラと外へ!」

 環が声を上げると同時に、涼平はサラの手をとった。室生をかわしてドアの外に押し出しながらキーを握らせた。

「うちの車を使ってください通報お願いしますね!」

 何か言いかけたサラの鼻先でドアを閉める。工場内に振りむくより早く、室生の拳が腹に入った。腹がちぎれたかと思うほどの衝撃にうずくまった。

 ドアに向かう室生の足が見える。涼平は四つん這いの姿勢から、その足元にしがみついた。追わせてたまるか。

 けれど手下その一、あるいはその二の罵声とともに、背後からストンピングを受けた。目の前が一瞬暗くなる。

 腕が緩んだ拍子に室生の足音が遠ざかっていった。



 頭にぶつけてやればよかった。

 環はフルパワーの剣鉈で室生に斬りつけていた。が、さすがに頭は避けてしまった。

 途上とはいえ、渾身の作の剣鉈。防刃ベストの上からでも逃げる時間をつくる程度のダメージは与えられると思ったが、室生をあなどっていた。

 あっさり剣鉈の軌道をはずされ、眉ひとつ動かさない室生に突き飛ばされた。ベルトハンマーに背中を打ちつけ、呼吸が詰まる。

 顔を上げた先では涼平が倒れていた。ドアの外にも出ていない。サラと一緒に逃がしてやりたかったのに。

 室生の姿もすでになかった。サラを利用して合意書にサインさせる気なのか。どんな理由であろうとサラに手を出したら、一三〇〇度の炉の中に生きたまま突っ込んでやる。

「おっと、どこいくんだよ」

 追いかけようとしたところで肩をつかまれ引き戻された。存在を忘れていた大野と下市が、これみよがしに特殊警棒を目の前に突き出してきた。

「逃げた女を助けたいんだろ? なら、サインした合意書をさっさとよこせ。室生さんがオモチャにして壊したあとじゃ遅いぞ」

「捺印するなら居間にいかないと」

 早くいけとばかりに大野があごをしゃくった。環は、ふらつきながら上体を起こそうとしている涼平に声をかける。

「一緒においで。居間にいったついでに湿布薬はってあげる」

 肩を貸そうとするていでひざまづく。

「ぐずぐずするな! 素人相手なら殴らないと思うなよ」

 大野の怒鳴り声に重ねて涼平にささやいた。涼平が視線だけで頷く。

 ふたりして立ち上がった。と、同時に方向転換。室生の手下それぞれタックルをかけた。

 不意打ちでも喧嘩慣れしているふたりには、さほどのダメージは与えられなかった。大野と下市がすぐに体勢を立てなおす。

 しかし、ここで応援がはいった。

「——えっ、なんだ⁉︎」

「ぅわっ、痛え!」

 大野と下市の驚愕の声が合唱する。

 壁際にずらりと並べた火箸各種、それらをかけていた板が、突如として弾け飛んだ。引力を無視したコースをとって二人を襲う。

「涼平!」

「はい!」

 工場の外に飛び出した。

 飛び出したものの、環の軽バンのキーは玄関にある。

「ぼくのキーは山添さんに」

「走るよ!」

 隣の家まで三〇〇メートル全力疾走の覚悟を決めた矢先、こちらに向かってくる室生を見つけた。

 サラの姿はない。室生から逃れられたのか。それともまさか……

 止まった足が涼平に引っ張られた。

「いまのうちに隠れましょう!」

 母屋のほうに引き返した。山裾にある家だが、身を隠せるほどの茂みに入るには少し距離がある。家の広さをいかして、屋内でいったん潜むほうに賭けた。

 工房にいるときは、母屋のドアや窓には鍵はかけてある。

 しかし、例外が一ヶ所あった。地面から高く、大人が手をのばしても届きにくい。そのうえ、人ひとり通れるかどうかの大きさしかないトイレの窓だけは、いつも開けたままにしていた。

 うまい具合に日が暮れてきている。薄闇が広がってくるなか、立ち木の影で追いかけてきた大野と下市の目をかわした。

 ふたりが見当違いの方向を捜している間に、涼平に踏み台になってもらう。環は窓枠に手をかけ、肉体労働者の腕力で身体を引き上げた。小さな窓に肩をねじ込んで、くぐり抜ける。

 涼平は自力で窓にとりつき、這い上がってきた。男性としては少し小柄なほうだが身軽さがあり、居合の稽古で鍛えてもいる。窓の通り抜けには優位に働いた。

 音を立てないよう慎重に足をおろした涼平が、大人ふたりが入ったすし詰めトイレで靴を脱ごうとする。

「そのままでいい」

 環は吐息のような声でささやいた。

「いつでも外に飛び出せるよう履いたままでいて。土足で気がとがめるのなら、あとで掃除を手伝いに来て」

 ドアの外、廊下に人の気配がないことを確かめて五センチほど開け、そこで止めた。物音がないかもう一度聞いてから、ゆっくり開ける。

 まず環が出る。次いで涼平が廊下に出た。

 母屋の明かりはひとつも点けられていなかった。

 中庭を囲む廊下には掃き出し窓が並んでいるが、野中の一軒家では隣家の明かりが入ってくることもない。月明かりしかない仄暗い空間がひろがる。

 身体感覚で屋内を把握している環が先に立った。車のキーがおいてある玄関のほうへと足先をむける。状況によっては途中の居間で黒電話が使えるかもしれない。

 しかし、数歩もいかないうちに足をとめた。

 どうしました?

 涼平が表情で訊ねてきた。環は廊下の先を指さす。白っぽい粉が床に薄く広がっていた。

「小麦粉……じゃなくて、砥の粉とのこでしょうか」

 焼き入れのとき、刃を形成するために粘土と混ぜて使う砥石の粉末だった。

 手入れが行き届いていない普段ならともかく、サラと掃除したばかりであるし、こんなところに砥の粉が落ちているはずもないから……

 そばの掃き出し窓から出ることにする。車や電話まで遠回りになるが、このまま進むのも厭な予感がした。

 ところが、ここでもまた窓を開ける手を止めることになる。

 中庭の向こう側、外灯の薄い灯りが届いている通りで、人影が動いた気がした。

 明かりのない廊下の様子は外からは見えないが、用心に越したことはない。涼平をうながし、ゆっくり後退あとずさって窓から離れる。いちばん近い和室に入った。

 和室を通り抜け、広縁から森の中に逃げ込むコースに変えた。木立に入るまで身を隠せるものが少ないし、夜の森に入るのは気が引ける。しかし、土地鑑のない室生たちをまける可能性に期待できた。

 足音を殺して注意深く暗い室内を進む。不意に肩を叩かれた。

 涼平が足がとめ、一点を注視していた。かつて床の間であったスペースの奥から目を離せないでいる。かすれた声をもらした。

「こんなものが、この家にあったんですか……」

 うかつだった。一間ずらして隣の和室を通ればよかったものを、早く外に出ることに気をとられてしまった。

 仄暗いなかに見えるのは、太めの竪子たてこぬきが等間隔のマス目状にはいった格子。その奥の空間は、三畳ほどのスペースしかない板張りだった。

「これは座敷牢と考え——」

 環は物理で黙らせる。鋼を挟む火箸を握り込み続けた握力で、涼平の口元を覆った。

 廊下の奥から板床がきしむ音が、かすかだがはっきり聞こえてきた。

 隠す気はないが、説明はあと。互いに目を合わせ、先を急ぐことにする。が、環は広縁に出る前に涼平をとめた。

 ワークシャツの裾を引っ張られた気がした。

 涼平が立っている位置とは逆だったから、彼ではない。廊下にあった奇妙な砥の粉と同じく、これも何かのサインなのか……。

 環の様子に気づいた涼平も、緊張と不安で顔をこわばらせた。新たな逃げ道が必要になったことを察したか、視線を屋内に走らせる。

 こっち。環は涼平の腕をひいた。

 隠れることできるのは、ここしかない。

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