4話 疫病神の愉悦

 腕力をふるわれた記憶は消えない。

 それが子どもの頃なら、なおさらだった。勝ちようがない方法で押さえ込まれ、抵抗しようがない恐怖と、なす術がないがない悔しさと。

 サラは自分に慄いた。

 厭悪している方法を自分で使おうとするとは思いもしなかった。

 ただ、環が危害を加えられるところは二度と見たくない。その一心から前に出ていた。壁にかけてある製作途上の包丁を手にした自覚もないほど、我を失っていた。

「いま自転車に乗るのは危ないですから、ぼくが山添さんを車で送っていきます」

「荒試しのために時間を都合してもらったのに悪いね。そうしてくれると助かる」

 環が遅れてやってきた涼平に事のあらましを話している。

 サラは、そのやりとりをぼんやり聞いていた。他人事のようだった。

「自転車は置いていってください。今度環さんのところに行くときには、また山添さんを迎えに行きますから」

 頷こうとして、ふと思いが至った。

「あたしたちが帰ったら環さんひとりだよ?」

「まあ、そうだよね。ひとりで住んでるんだから」

「ひとりきりで危なくない? 陸の孤島ってわけじゃないけど、お隣さんは遠いし」

 退散したばかりの室生が引き返してくるとは考えにくい。かといって、孤立した家に環をおいていくのも不安だった。

「そう言われると、そうですよね……」

「もう、涼平まで。そんな心配性だとハゲるよ」

「じゃあ、ぼくの毛髪のために、おふたりともうちに来るというのはどうでしょう。実はお願いしたいことがあって」

「あたしまで?」

「清史さんの料理で何か困ってるの?」

「やっぱ環さんはカンがいいですね。料理に目覚めたのはいいんですが、おかずが菓子に化けるほど砂糖を入れるんです」

「清史さん甘党だもんね」

「プロのアドバイスなら父も聞くはずですから、山添さんにお願いできませんか? 家族そろって糖尿病になる前に助けてください」

「サラはともかく、わたしはアウトドア料理もどきしかできないよ?」と環。

「時短料理すら作らないことありますもんね。知ってます」

「余計なことは言わんでいい」

「環さんは母の晩酌の相手をしてください。そしたらぼくは夜の時間をアルコール抜きで心置きなく、のんびり過ごせます」

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。気分転換したかったから助かる。サラも……あ、涼平の家からだと出勤に不便か」

「平気。あたしもひとりでいたくなかったから行きたい」

 涼平宅と店との距離を調べる前からサラは答えた。

 環と一緒に過ごせるなら、早朝四時起きの徒歩出勤になってもかまわなかった。



 広くて古い家屋への侵入は簡単だ。

 在宅していても、人がいる場所から離れて入れば気づかれない。古いゆえの油断から侵入者への危機感が薄く、鍵を閉めただけで安心している。空き巣がいやがる鍵やぶりに時間がかかる鍵や、補助錠がついていることも少なかった。

<三輪鍛冶屋>では工房のほうに人が集まっていた。室生は住居の勝手口からの侵入をはかる。

 ドアを壊す破壊槌を使えば簡単だが、後片付けに手間をかけたくないし、密かに侵入したほうが、逃げる隙を与えずにすむ。新たに連れてきた下市しもいちに鍵破りをまかせた。

 室生の目的は合意書から、山添サラに移っていた。

 初対面で見たときのサラは、小柄な外見そのまま警戒心が強いだけの、なんの力も感じない女でしかなかった。

 それが都祁環というトリガーによって豹変した。フリーズ凍結フライト逃走のステージを飛び越して、いきなりファイト攻撃で向かってきた。こんなやつはそうそういない。サラの正体を剥き出しにしてみたかった。

 暴力に魅了され、暴力でしか酔うことができない。鍛冶屋での戯れが忌部社長から咎められ、汚れ仕事の功績では相殺されないかもしれないが、やらずにおれなかった。

 しとめるネズミを一方的にいたぶる猫——とはいかない気がする。

 慢心せず、一般人を相手にするには仰々しい用意をしてきた。場所が火造りの刃物を得意とする鍛冶屋で、反撃のための得物は豊富にある。前面と背面に高強度の金属プレートを入れた防刃ベストをつけ、最高クラスのカスタムスチール特殊警棒を携えていた。

 猫が獲物をオモチャにするのは、反撃を警戒する動作がいたぶっているように見えるせいだという説がある。追い詰められたサラが見せるだろう苛烈な反撃に、期待すると同時に用心もしておく。

 もちろん配下の下市と大野にも、同じ装備をつけさせた。ふたりとも不審顔をみせたが、怪我人を出すと社長への言い訳が面倒だ。問答無用で従わせた。

 ドアノブの鍵穴に工具を突っ込んでいた下市の手元で軽い金属音があがった。開錠に二分とかかっていない。

 スタートは上々。



 炭と煤が染みついたワークウェアのまま、よその家にお邪魔するわけにはいかない。環は着替えるため、母屋に続くドアにむかった。

「サラもうちに置いてある着替えを持って——」

「ぅえっ⁉︎』

 涼平が頓狂な声を上げて環の台詞を打ち消した。作業机のデスクライトが、点いては消えを何度もくりかえしていた。

 環の背に、すっと冷気が走る。電気のイタズラは普段からあることだが、いつもと様子が違う。

「……環さん」

 すでにこの家で起こる奇妙なことを体験しているサラも同じものを感じとったらしい。

 環は有無を言わせずサラと涼平の腕をとった。通報では間に合わない。

「涼平はサラを連れて——!」

 母屋に続くドアが開いた。物々しい姿の男二人が挨拶もなく入ってきた。

 環は反対側のドアからサラと涼平を外に逃がそうと鍵を開けた。が、長身の人影がふさいでいた。無言で環たちを工房の中へと押し返す。

「スーツじゃ合意書をとれないから方針転換? にしても大袈裟だよ、その格好」

 サラと涼平を背中側にまわした環は、冷めた声で室生に言い放った。注意を自分に引きつけ、ふたりを逃すチャンスをうかがう。

「刃物が溢れている家に入るんだから、防刃ベストぐらい用意するさ。こちらの本気度を知ってもらうにも手っ取り早い」

 室生が右手を鋭く振り下ろした。

 手の中からのびたスチールが、メカニカルな音を立てた。特殊警棒が伸びた状態でロックがかかる。長さはざっと六〇センチ。その大型サイズの特殊警棒を作業机に叩きつけた。分厚い天板が凹み、木っ端が飛び散った。

 目の前で警棒を振り出して見せたのは、威嚇を狙ったデモンストレーションだ。だが、環にこの程度の脅しは通用しない。

 グループホームの指導員、川西から受けていた暴力が、環の一部の感覚を変えた。暴力の場面で精神を麻痺させて適応するのではなく、精神を身体から離すことで状況を俯瞰的にみるようになった。

「口がよく回るようになったのも、本気の証?」

 環は、いたずらに怯えることなく、侵入者三人の位置を見る。住居へのドアをふさぐ大野ともうひとり。外へと続くドアの前には室生ひとり。

「凄めば合意書にサインするとでも?」

「大野、下市」

 環にとりあわず、室生が手下その一と新たな手下その二に命令した。

「合意書にサインしていただいておけ」

 視線をサラへと移した室生の目元に、わずかに感情がみえた。興奮だ。

 環と涼平は、大野と下市に壁際へと追い詰められる。サラから引き離された。

 環も後退させられるままにはならない。作品から鍛治道具まで、どこに何を置いてあるか、見なくてもわかるほどに工房の内部を把握している。場面を打開できるアイテムへとじりじりと移動する。手の届く範囲にはいった。

 予備動作なしで一気に動いた。

「涼平、サラと外へ!」

 壁にかけてある製作途上の一本、刃渡り一尺(約三〇センチ)の剣鉈けんなたをとった。

 室生に突進、振りかぶる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る